すべての灯り01 / 16

序章お祝いだから

湯呑みの底に、小さな値札が残っていた。

相良航は爪で端を起こし、半分だけ剥がした。白い紙が薄い青の釉薬に残った。水につけたほうがいい、と倉田修司が言った。

創業時の航が薄い青の湯呑みの値札を爪で剥がし、修司が隣から水で取るよう示す。二人の普通の笑み。中古の机と未組立の棚。四年前の32歳と34歳。
剥がし残した、小さな値札。

修司の湯呑みは、三つのうちでいちばん青が濃かった。安いものほど個体差があるのだと、妙に満足そうだった。

「百円でその説明ついてくるの、得だな」

「説明は俺がつけた。追加料金だ」

航は笑い、財布を開いた。修司は手を振った。

「お祝いだから」

印刷所の二階には中古の机が二つあり、組み立てていない棚が壁に立てかけてあった。階下の機械の振動が床を伝ってきた。窓を閉めても止まらなかった。

二人はその振動を気に入った。誰かが下で働いている。自分たちもここで働ける。

百舎という名前は、階下の主人の冗談から決まった。百まで仕事をしたら、あとは数えなくていい。修司が笑い、航がそれを書類に書いた。

百舎は印刷会社ではなかった。客先の注文や出荷を扱う画面を作り、配送表を整え、現場で使えるまで説明する小さな会社だった。航が代表になって仕事の範囲と代金を決め、創業社員の修司が仕組みを組み、導入の責任を持った。修司は株を持たなかった。給料を受け取って働く仲間であることを、二人は設立前に話し合っていた。

夕方、黒崎征一が延長コードを持ってきた。

物流の営業や導入支援をする会社の経営者で、独立前から二人の取引先だった。最初の客を紹介し、さらに個人で二百万円を出資した。百舎は株式会社になり、航が八割、黒崎が二割の株を持った。

黒崎は設立書類の横に、もう一枚置いた。

「いつか私の分を買いたくなったら、これで計算する。最初の二百に、利益に応じた分を足す。上限は四百だ」

返す期日のある借金ではない。黒崎が持分を保つあいだは、株主として会社の成果を受け取る。航が文書の条件を満たして買い取るなら、黒崎の気分で引き止めることもできない。新株を出したり会社を売ったりするには双方の合意がいるが、普段の受注や採用を決めるのは航だった。

「二割持ってるからって、君の椅子に座るつもりはない」

黒崎はそう言い、壁の差込口が二つしかないのを見て、鞄からもう一本コードを出した。

創業時の百舎で、黒崎が鞄から延長コードを出し、航と修司が中古の机のそばで見ている。
足りなくなるものを、黒崎は先に持ってきた。

「あとで足りなくなる」

「そこまで仕事が来ますかね」

「来させるんだよ」

帰り際、まだ取り付けていない看板の前で、彼は航の肩を叩いた。

「おめでとう。君はこれで、平凡な努力で平凡な幸せを手に入れる権利を失った」

冗談の調子だった。航も笑った。そう言われるだけの場所まで来たのだと思った。前の会社では、自分が休んでも机の上の紙は動いた。ここでは自分の名前で注文を受け、自分の名前で失敗する。

失敗の可能性まで、誇らしかった。

夜、妻の真帆が、本を修復する工房の仕事を終えて来た。百舎の社員でも役員でもなく、会社の借金を保証する約束もしていなかった。二人の机探しにつきあったのは、夫が毎日座る場所を見たかったからだった。

真帆は三つ目の湯呑みを洗い、残った値札に気づくと、濡れた布でこすった。きれいに取れた。

三人は駅前で買った焼きそばを広げた。取り皿になるものがなかった。修司が未使用の伝票を持ってきて、真帆に、油がしみるよ、と言われた。

創業したばかりの百舎で、航、修司、真帆の三人が中古の机を囲み、濃さの違う青い湯呑みを手にしている。机の端には小さな領収書がある。
中古の机と、三つの青い湯呑み。百舎が始まった夜。

航は階下へ皿を借りに行った。

上ってくる途中、二階から笑い声がした。ドアを開ける前に、一度足を止めた。

借りた皿を持った創業時の航が印刷所の階段で止まる。上の戸の内側から修司と真帆の笑い声が届く。二人は画面外、階段の航と暖かい戸口を描く。
まだ部屋へ戻る前から、笑い声がした。

自分がまだ部屋にいないのに、ここはもう良い場所になっていた。

そのことが、嬉しかった。

この章の感想を残す

心が動いたところ、立ち止まったところ。自由に書き留められます。メモはこのブラウザにだけ保存されます。

入力すると自動保存されます。

草稿へのご感想はメモを書き出してお渡しください。この画面からの送信はありません。

目次

HELL · すべての灯り

  1. 01序章|お祝いだから
  2. 02第一章|動いている画面
  3. 03第二章|七分早い午後
  4. 04第三章|外へ続く道
  5. 05第四章|二つの青
  6. 06第五章|誰も困っていない
  7. 07第六章|三年後の席
  8. 08第七章|新しい椅子
  9. 09第八章|写真の外側
  10. 10第九章|机の高さ
  11. 11第十章|君に任せたい
  12. 12第十一章|一時間の用事
  13. 13第十二章|花を送る
  14. 14第十三章|会議の終わり
  15. 15第十四章|完全勝利
  16. 16終章|明日の欄
この物語の表紙へ

表示設定

文字の大きさ
背景色

設定と読書位置は、このブラウザに保存されます。