第十三章会議の終わり
三月半ば、第一期の六拠点を順に切り替えていた朝、一つの拠点で出荷準備を終えたという確認の印がつかなかった。
画面は動いていたが、印刷した紙の端が切れていた。プリンターの設定が違っていた。小池は現地へ電話し、岡野は別の機種で同じ表を出した。
航は自分が責任者へ連絡すると言った。
小池は受話器を押さえた。
「もう話しています。朝の便は前の表で確かめてもらえます。こちらの設定の問題だと伝えました」
「そうか」
航は手を引いた。現地では従来の表で必要な情報を確かめ、便を予定どおり出せた。昼までに修正し、同じ機種を使うほかの拠点も、切り替える前に設定を直した。
小池は相手が表を確認できるまで電話を切らなかった。慌てた担当者が、一度聞いたことをもう一度尋ねても、先ほど言いましたとは答えなかった。どの紙を持っていますか、と聞き直した。

昼、現地から、間に合いましたと返事が来た。小池はその文を岡野へ見せ、それからようやく席を立った。冷めた茶を飲むと、自分が朝から一度も飲んでいないことに気づいた。
夕方、会議で航は二人を褒めた。
「俺がいなくても、ちゃんと回せるようになった」
小池は朝は焦りましたと言い、ようやく背もたれへ体を預けた。岡野は次の導入で試す項目を増やしたいと言った。半日増やしても全体の納期は変わらない。航は承認した。
新しい社員は、現地へ行く担当を毎回変えないでほしいと求めた。名前を覚えた頃に交代になる。航は二人一組で継続できる配置を提案した。
会議はよく進んだ。小池は朝の問題も、次に役立つ形で話せたと思った。ここでは、できなかったことを持ち寄り、仕事を直せる。航が自分に教えたのも、そういう説明の仕方だった。
小池が澪の連絡を読んだのは、そのあとだった。
「前の営業資料が、まだ会社の作品として残っています。提出した先へ、個人の作品だと伝えてほしいそうです」
航は既に写真を外したと答えた。
「今ここにないだけでは、向こうは知らないので」
「分かった。今後は本人にも確認しよう」
「今後ではなくて、今あるものを直す話です」
部屋が静かになった。
小池は膝の上の手帳を開いた。頁の端が手の汗で曲がっていた。澪の文には、作品を一緒に作っている人へ、百舎の権利が及ばないことを何度も説明している、とあった。澪が説明を続ければ済む話ではなかった。百舎から出した説明を、百舎が戻してほしいという依頼だった。

「倉田さんの説明も、本人が選んで辞めたことになっています。私たちまで、その話に頷いたように見えます」
航はそこで、会社の対外説明を社員が一人ずつ訂正していては混乱すると言った。客へ返す言葉はそろえる必要がある。それは導入の仕事では大切なことだった。
「そろえる前の内容を、直してほしいんです」
小池の声が少し高くなった。向かいの新しい社員が顔を上げると、彼女は声を落とした。
「私、倉田さんが育成の仕事へ行ったと、お客さんに話しました。社長がそう言ったからです。解雇だったのに、自分で選んだことにしてしまった」
「訓練所で働いているのは事実だ」
「その前のことを、違う話にしています」
小池は手帳へ視線を戻した。辞めた人の話をするために、今ここで働いている人へ失礼をしているのだろうか。一瞬そう思った。けれど、今朝のプリンターの設定については、こちらの問題ですとその場で言えた。同じように、間違っていた内容を伝えるだけなのに、なぜこれは言えないのか。
「次に聞かれたら、私は何て答えればいいんですか」
航は資料を閉じた。理恵が次の支払いの表を持って待っていた。新しい社員は膝へ目を落とし、岡野は手を机に置いたままだった。
今、訂正の担当と期限を決めればよかった。提出先を小池に確かめてもらい、自分の名で訂正文を出す。修司へも、求められている説明の返事をする。
航にはその手順が分かった。小池が求めているのは会社を壊すことではなく、会社が出した二つの説明を直すことだった。
それでも、六拠点を終えようとしている今に、その話を持ってくることが腹立たしかった。これだけ良い仕事をしている。朝の問題にもきちんと責任を取った。そのことより、いない人間の名前が会議の最後に残る。
「その件は、ここまでにしよう」
航は言った。
小池はまだ顔を上げていた。航が理恵へ次の表を求めると、彼女は手帳を閉じた。返事を得たからではなかった。

会議のあと、航は自分の机で説明と導入の配置を開いた。
AIの案内と録画した教材がそろえば、同じ説明を繰り返す時間は減る。新しい担当と岡野で例外を受け、導入の窓口を集約する。小池の席をなくせば、給与分が残る。
次の地域の教育を小池に任せる欄もあった。説明を覚えていない人はまだ多い。現地の人へ話を聞き、分からないところから教える仕事は、録画を一度見せて終わるものではなかった。今朝、小池の対応が必要だった理由も同じだった。
航はその欄を、今回の体制から外した。
時計を見ると、会議を終えてから八分しかたっていなかった。阿部のときに並べた二つの案を、今度は印刷しなかった。小池を残す場合にも仕事が回り、黒字になることは、既に分かっていた。
黒崎へ削減案を送ると、削減分は確かに残る、と返ってきた。
「ただ、彼女を次の地域の教育へ回す案はどうした」
「必要ありません」
航が答えた。外から否定された案ではなかった。
廊下から、小池が新しい社員へ、今朝は慌てたよね、と話す声がした。航は戸の向こうへ行けた。さっきの件は時間を取ろう、と呼び戻せた。
代わりに、理恵への指示を作った。AIによる案内の拡充と組織変更を理由に、小池の雇用を終える。三月末を区切りとし、必要な書類と支払いを準備する。
確認画面で、小池の名前を一度読んだ。今朝、荷物を予定どおり送り出せた相手だった。夕方には、その相手の声を会議からなくす手続きをしている。
航は指示を送った。
席を立つと、もう一つ仕事を終えたあとのように、次の日程を考えられた。
通知を渡すとき、小池は最初、朝の不具合に関する評価だと思った。紙を読んで、組織変更という言葉の下へ指を置いた。
「朝は、任せられると言ってくれましたよね」
「仕事ができなくなったとは、思っていない」
「だったら、どうしてですか」
航は教材と窓口の集約を説明した。新しく入った社員が担う仕事と、小池が担っていた仕事はまったく同じではない。それも本当だった。ただ、彼女を次の地域へ移す案があることは言わなかった。
小池は紙を伏せた。
「訂正してほしいと言ったからですか」
「組織の判断だ。個人の発言を一つずつ理由にしているわけではない」
「今日、決めたんですか」
航は答えるのをためらわなかった。
「今日、最終的に決めた」
小池の顔が赤くなった。口を開いたが、すぐには言葉にならなかった。
「それで、発言と関係ないって……。私、仕事をしなかったわけじゃないでしょう」
声が大きくなり、彼女は戸のほうを見た。廊下に誰かがいるかもしれない。少し声を落としたが、怒りは収まらなかった。
「間違ってると分かった説明を、私にも続けさせるんですか。直してと言ったら、次の日から、私の席がなくなるんですか」
「次の日ではない。給与や引継ぎの期間は用意している」
「そこを言ってるんじゃないです」
小池は目を閉じた。まぶたの下に涙が溜まっていた。ここで泣けば、感情的だから話にならないという説明まで付くのだろうか。そう考えると、頬を拭くのも嫌だった。

航は、今まで助かったと思っている、と言った。本心だった。彼女の説明で顧客が落ち着き、新しい社員が仕事を覚えた。
小池は目を開けた。
「じゃあ、ここで役に立たなくなった人として、外へ出さないでください」
「そういうことは言わない」
「倉田さんにも、全部あの人のせいだとは言わなかったんですよね」
航の顔が硬くなった。小池はそれを見たが、目を伏せなかった。
彼女は相談先へ持っていくため、理由と通知した日、雇用を終える日を書面にしてほしいと言った。自分から辞めると申し出たことにはしないでほしい。通知を受け取ることと、判断を認めることも分けてほしい。
理恵がその要望を書き留めた。金を用意しても、異議が消えるわけではなかった。
航は、書面は出す、と答えた。席を残すとは言わなかった。
その帰り、小池は駅の階段で一度止まった。さっきは怒って話せたのに、電車の行き先を確かめるだけで、目の焦点が合わなくなった。後ろから来る人を先に通し、手すりのそばへ寄った。

朝、間に合ったと返ってきた文を携帯電話で開いた。自分がした仕事だった。役に立ったことも、相手が安心したことも、なくなってはいない。
それが、ここで働き続けられる理由にはならなかった。
家では鞄を床へ置いたまま、しばらく上着を脱げなかった。応募用の職務経歴を書こうとしたが、最初に指が止まった。九月から三月。新しい仕事を一人で説明できるようになり、そのあとを覚える前に終わる。
AIで説明業務が減った、とだけ書けば、教材を読むだけの仕事をしていたように見える。小池はその文を消し、問い合わせに応じて説明の順を変えたこと、現地の切り替えを支えたことを書いた。今朝の対応も、一つの経験として入れた。
通知後の休み、紹介会社の担当者から、次も同じ給与を希望するかと聞かれた。小池はまず、その額で探したいと答えた。すぐ決まらなければ、条件を広げる相談をしなければならない。
月ごとの支出を並べ、次の定期券の更新をやめた。会社へ通うために払う金は減る。その代わり、面談へ出向く交通費が、一度ずつかかる。空いた時間を自由な休みにする余裕はなかった。
澪へ、島へ行ける日をまた連絡すると送った。雇用が終わる話も書いた。澪は、話せるときに電話しようと返した。小池は電話で最初、会社で何を言ったかを説明したが、途中で、自分はあそこで教える仕事を続けたかった、と繰り返した。
澪は、続けたかったんだね、と答えた。怒った言葉を整理してもらいたかったわけではない。小池はその声を聞いて、ようやく泣いた。
航が見ていない夜に、彼女は翌日の面談のため、泣いた顔を冷たい布で押さえた。
残る勤務で、小池は引継ぎの資料を整えた。成瀬澪、倉田修司、阿部。この手順を教えてくれた人の名前を残した。連絡先ではなく、誰が考え、誰から伝わったかを記す欄だった。退職した人へ仕事を押し戻さないよう、現在の担当は別の欄にした。
航が、今の担当だけ分かればよいのではないかと言うと、小池は名前の欄を閉じなかった。
「この人たちがやったことまで、配置が変わったから消えるわけじゃないので」
航はその場では削除を求めなかった。資料を受け取り、よくまとまっていると言った。小池は、残してください、と答えた。
最後の出勤日、彼女は新しい担当へ、相手が一度聞いた質問をもう一度しても、同じ言葉を強く繰り返すだけにしないでほしいと話した。緊張している人は、前の言葉を聞き取れていないこともある。
担当者が頷き、ノートへ書いた。小池はその行を確かめてから、会社の道具を返した。
花瓶を洗い、水を切って棚へ戻した。理恵が送付書類の住所を確かめ、岡野は会社の外でも連絡してよいか聞いた。小池は頷いた。
航へ返した鍵には、小さな猫のシールがあった。阿部にもらった余りだった。

「訂正は、待っている人がいます」
小池は最後に言った。自分の通知を引っ込める代わりに、その人たちの依頼を消してよいという話はしなかった。
航は受け取った鍵を机へ置いた。彼女が帰ると、新しい担当から導入の連絡が来た。説明の窓口は動いていた。予定利益は増え、会議で二つの説明を直せと言う人は、いなくなった。
三月末で、小池の雇用は終わった。
次の朝も、いつもの時刻に目が覚めた。洗った会社用の服を手に取り、面談は明日だと思い出した。台所で一人分の茶をいれ、応募書類の控えを読み直した。まだ決まっていないという現実が、朝になるたびにあった。
会社では、岡野が次の会議の議題を作っていた。
会社の進め方について、と書いて止まった。その下に、試験の時間、次の地域への配置、導入後の休日対応と並べた。三つとも必要な話だった。航はそのどれについても考えて答えてくれる。
小池が朝の電話で何をしたかも、会議のあと何を言ったかも、岡野は見ていた。自分は阿部を残す案を出し、いまも部署と予算を持っている。意見を言えば、必ず切られるわけではない。どの意見なら席を失うのかを、考えるようになっていた。
岡野は最初の行を消し、次の導入の準備、とした。

AIの丸い顔が画面の端で、入力を待っていた。岡野は残った三つの議題を読み、送信した。