第九章机の高さ
二月、家の中の真帆の荷物が減っていることに、航は引っ越し用の箱を見てから気づいた。
本が一段、棚からなくなっていた。修復に使う薄い紙の箱もなかった。真帆は講習に通う町の工房に近い部屋を、生活の拠点にすると言った。講習が終わっても、そこで受ける修復の仕事が続く。
「半年だけの机じゃ、仕事が置ききれなくなったから」
「費用は大丈夫?」
「払えるものを借りたよ」
そのあとにも聞けることはあった。どんな窓があるのか。駅からどれくらいかかるのか。修復している紙は、もう貼り合わせたのか。
航は会社にも人が増えたと話した。三月の最初の導入が終われば、少し予定を空けられる。向こうへ行って必要なものを買おう。机は良いものがいい。
「机は、もう選んだよ」
「もっと丈夫なのがあるかもしれない」
「手の高さに合うのを選んだの」
真帆は箱の蓋を折り込んだ。白い紙へ工房と書いた箱と、寝具を入れた箱を分けた。夫が仕事を失敗したから罰として出ていく、という話ではなかった。自分の仕事と一日を、航の次の区切りまで預けないという決定だった。

彼女は工房で引き受ける本を、半年の講習だけで終わる件数にはしなかった。修復途中の本を置き、自分の体に合う椅子へ座り、明日の依頼者を迎える。そこから毎回この家へ戻れば、翌朝また早く出なければならない。航と食卓に座るために急いで帰った夜も、彼が帰るのは食事を温め直したあとだった。

真帆は一人なら一人の時刻に食べたいと思った。一緒に食べられない日があることより、一緒に食べるつもりのまま待つ日が続くことに疲れていた。
「引っ越したら、いつ戻るかは決めてないよ」
航は箱から顔を上げた。
「講習が終わったら、考えればいいだろう」
「終わっても、私の仕事はあるって、今言った」
真帆は折り込んだ蓋を一度開いた。入れるつもりの本が膝に残っていた。
「あなたが落ち着く日まで、こっちを仮の暮らしにしたくない」
二人は結婚を終える話をしているわけではなかった。同じ家で暮らす予定を、当然のようには持てなくなった。その話を航は、繁忙期をどう越えるかという相談へ戻そうとした。
航はそのことを聞いていたはずなのに、会社の経営がよくなったことをもう一度説明したくなった。
中古の板を二人で運び、真帆の机にしたことがあった。今なら新品でも買える。配送日も指定できる。できることは増えたのに、してほしいことを一つも言われない。
「俺、何かできることないかな」
ようやくそう聞いた。
真帆は少し考え、土曜に本棚を運べるよう分けるのを手伝ってほしいと言った。
土曜の朝、二人で本を箱へ移し、重ねた棚の上半分を持ち上げた。棚そのものは軽く、重いのは本の入った箱だった。真帆が床へ敷く布を取るあいだ、航は両手で支えて待った。

電話が鳴った。航は棚を置いて出ようとした。
「そこを持っていて」
真帆が言った。
電話は鳴りやんだ。布の上へ置くと、二人で下半分も壁から離した。裏から短い鉛筆が出てきた。真帆はずっと探していたと言って笑った。航も笑った。

昼はうどんを食べた。真帆は修復中の帳面の写真を見せた。水で墨が流れた頁に、あとから別の筆跡で文字が足されていた。どちらも残すつもりだという。
「もとの文字だけに戻さないんだ」
「その後で読んだ人も、ここを使ってるから」
彼女は指で写真を広げた。上から貼られた紙が薄く、下の字が透けていた。

航は四月の報告を思い出した。作り直した最終版なら、いまはすべて調査済みになっている。最初の版を残して何の役に立つのかと、以前は思った。誰がいつ信じたかを残すものなのだと、写真の前では分かった。
「仕事で、直したいことがある」
航は言った。
真帆は写真を閉じず、彼を見た。
「修司に、ひどいことを言った」
「うん」
「それだけじゃないんだけど」
彼女は待っていた。聞かれなかったせいにはできなかった。
航はうどんの汁を飲み、全国の仕事が一段落したら話すと続けた。真帆は箸を置いた。
「私に話すのと、修司さんへ返事をするのは、別にしてね。ここで話して終わったことにはしないでほしい」
航は分かっていると答えた。
午後は空いていた。近所を歩ける。そう思ったところで、未読の連絡が気になった。火曜の説明会に別の部署の責任者も来る。急ぎの返事は不要と書かれていた。
「少し確認してくる。今やれば火曜が楽になる」
真帆は、散歩に行こうと思っていた、と言った。
「行こう。三十分だけ待って」
真帆は玄関の棚から鍵を取り、まだ靴は履かずに待った。航は暦の午後を見た。次の説明会は火曜。今、返さなければ止まる人は誰もいなかった。

端末を閉じれば、二人で出られる。続きを月曜の朝にすると決めればよかった。
航は担当者へ、今日中に修正版を出します、と返信した。頼まれていない期限を自分で作った。真帆と歩く時間を減らす仕事が、送った一文で、相手を待たせてはいけない仕事になった。
三十分では終わらなかった。画面から顔を上げたとき、彼女は上着を着ていた。
「一人で行ってくる。夕方には戻る」
「待って」
玄関で彼女は振り向いた。
「今、無理なら、私の予定で行く」
「あと少しなんだ」
航は言った。真帆は鍵を握ったまま戻ってきた。
「今日、一緒に歩きたいって言ってるの。次の仕事が終わったら、じゃない」
「それは分かる。でも、こっちにも待ってる人がいる」
「さっき、急ぎじゃないって言ったでしょう」
「今終わらせれば、来週の全体が楽になる。目の前の三十分だけで決められないんだよ」
口にすると、いつもの説明だった。全体を考えれば、一人の待つ時間を後にしてもよい。航は須田の勤務を説明したときとは違うつもりで、同じ順番を使った。
真帆は端末へ目を向けた。
「私が会社の事情を分かってないから、そう言ってると思う?」
「経営のことは、全部は見えないだろう」
言い終わる前に、真帆の顔が変わった。航はそこで止まることもできた。違う、と言い直し、端末を閉じられた。
「給与を払ってる人数も増えたんだ。今は、そういう時期だって分かってほしい」
最後まで言った。
真帆はしばらく、鍵を握る自分の手を見ていた。やがて、私も今日、仕事はあったよ、と言った。
「棚を運ぶ日だから、依頼者へ返すのを別の日にした。あなたと話せると思ったから。そっちの給与の人数より少ないけど、私にも待ってる人はいる」
声は怒鳴るほど高くならなかった。途中で息が詰まり、言い直すほうが長かった。
「会社が良くなった話、私も嬉しかった。誰かが早く帰れたなら、よかったと思った。だから、もう少し待てるって、何度も思った。でも、そのよかった話をされるたび、今日嫌だったって言えなくなるのは、もう嫌なの」
航は、そんなつもりはなかった、と答えた。
「うん。そうだと思う」
真帆は頷いた。納得した顔ではなかった。
「悪気がないのは分かった。それで、今日も私は一人で行くんだね」
謝れば、今からでも一緒に行けた。航は仕上げてから追いつくと言った。何分で仕上がるかを、まだ考えていた。
「今日は、追いかけてこなくていい」
真帆は鍵を持って出た。航は会社へ行かなかった。棚のあった壁の前に座り、彼女が帰るまで待った。待っているあいだに、火曜の資料を仕上げた。
真帆は近所の公園を歩き、ベンチで引っ越しの予定を開いた。夫と行くつもりだった店を、一度閉じた。一人で別の店に入り、好きなものを頼んだ。食べたい時刻に食べられた。そのことにほっとした自分を、航へどう話せばいいのか、もう考えたくなかった。

家へ戻ると、航は資料が終わったと言った。真帆は、お疲れさま、と答え、寝具の箱を閉じた。
翌日、彼女は新しい部屋へ最低限の荷物だけを運ぶつもりを変え、普段使う服も運ぶ一覧へ加えた。航へ見せると、買い直せると言われた。彼女は、持っていきたいものだから持っていく、と答えた。
その週、真帆の選んだ机の代金を贈りたいと言うと、彼女は受け取らなかった。代わりに、棚を最後に運ぶ日を一緒に決めた。
航は暦へ丸をつけた。丸の周りに仕事の予定が増えたが、その日は消さなかった。棚は約束どおり運んだ。真帆はありがとうと言った。
一つ守れたことを、ほかの返事の代わりに使いかけた自分に、その夜、航は気づいた。
真帆は新しい部屋で、本の箱を開いていた。航が持ってくれた棚へ、自分の使う順に置いた。ありがとう、と送ることはできた。同じ家へ戻りたい、と続けることはできなかった。
航の家では、食卓の椅子が一つ空いていた。真帆が忙しい日にも見慣れていた景色だった。以前は帰りを待つための一脚だった。今は、帰る日を約束していない人の一脚だった。