第五章誰も困っていない
年末、皆が休みに入った会社で、航は古い帳面を開いた。
修司の机から引き取った書類をしまう場所を探し、創業時の帳面まで取り出していた。そこに、百円の湯呑みを三つ買った領収書が挟まっていた。
会社から返すつもりで航が、立替、と書いた横に、修司の字があった。
お祝いだから。
航は折り目を伸ばした。紙はまっすぐにならず、手を離すと少し浮いた。
彼は修司を救った話を、何人にしただろう。前の勤め先で疲れ切った仲間と新しい場所を作った。その話をすると、人は頷いた。苦労が分かると言った。
航が語るとき、修司はいつも、帰れず駅のベンチで眠っていた日の姿で登場した。湯呑みを選んだり、伝票を皿にしようとしたり、航が上ってくる前から良い部屋を作ったりはしなかった。
昨日まで使われていた鍵を手に取った。二階の扉に合う、同じ傷のついた鍵だった。会社を守るために誰かを切ると決めたとき、こういう小さなものが手元へ帰ってくることを考えていなかった。
携帯電話で文を書いた。
言い過ぎた。戻ってきてほしい。

二つの文の間に、四年間ありがとう、と入れた。何を変えても同じ頼みになった。送らず画面を閉じた。

小池から、帰省先の店で自分たちのものに似た画面を見つけたと写真が来た。岡野は年明けの休日対応を減らす設定を終え、実家へ戻っていた。澪は島で冬の浜の音を録っているらしかった。真帆は講習で知り合った修復仲間と年越しをする。航を誘ったが、彼が仕事を理由に断っていた。

携帯電話は静かだった。
十二拠点は動いていた。修司の引継ぎと岡野の改修が、その役目を果たしていた。呼び出されないことは、皆が得るべき成果だった。
航は南の主任の名前を探した。須田の手当のことを聞く電話は、いまからでもできた。元の調査を求めれば、あの幹部へ渡した金の話になる。金が無駄になるだけでなく、自分が何を止めたかも説明することになる。
彼は名前を閉じた。
階下の主人が、階段の電気を落とすぞ、と声をかけた。
「帰ります」
答えてから、受信箱を開いた。
黒崎の契約案があった。「環」の全国展開。十二拠点の仕組みを土台に、三年かけて各地へ広げる。最初の期は、新たな六拠点を翌年三月末までに導入する。
黒崎の会社が営業網と導入支援の担当を出す。百舎は共通の仕組みを育て、画面と手順の制作、現地説明を担う。発注元は各社の範囲を確かめ、正規の着手金と工程ごとの代金を払う。全国すべてを一度に作る仕事ではなかった。
航は見積もりを開いた。既存の保守と蓄えに新しい着手金を合わせれば、人を先に増やせる。春のような架空の完了報告をしなくても、開始できる計画だった。
そこまで来た。
その言葉を口にすると、昼から空いていた胸のあたりに、形のあるものが収まった気がした。
四月の報告も、六月の沈黙も、修司の最後の日も、小さな会社を守るためにしたことだけではなくなる。多くの現場を変えた道の途中になる。もっと遠くまで行ってからなら、何を背負っていたかを分かってもらえるかもしれない。
契約案の下には、現状の十二拠点を保守して続ける場合の収支もあった。利益は小さくなるが、給与は払えた。黒崎が比較のためにつけたものだった。
航はその頁を閉じて電話をかけた。
「進めたいです」
黒崎は条件を読んだかと聞いた。航は、読みました、と答えた。
「年明けでいい。二日に来られるか」
「行きます」
通話が終わると肩が軽くなった。領収書を帳面へ戻し、手帳の二日の欄に黒崎と書いた。

返すべき返事を一つもしないまま、明日の仕事は増やせた。