第四章二つの青
十一月、修司の湯呑みの縁に、小さな茶葉がついていた。
航は取ってやろうと思い、そのままにした。机には岡野がまとめたAI導入後の作業時間があった。同じ項目を書き写す時間は減っていた。現場で例外を判断した時間や、新人へ説明した時間は、別の欄だった。
修司はその表を読み、阿部が一人でできるようになった設定へ丸をつけた。
「ここまで覚えた。次は実際の荷物と合わせるところだな」
阿部が、まだ一人では怖いです、と言った。修司は、怖いところが分かってれば聞ける、と答えた。航も頷いた。新人が何も分からないまま、大丈夫ですと言う会社にはしたくなかった。
黒崎が数字を見に来たのは、その日の午後だった。
「高い人件費を固定したままでは、仕事が増えても利益が薄い」
彼は修司の給与の欄へ指を置いた。
「倉田君の記録も、若い二人へ渡った。君自身が客へ出られる。役職を一つ減らせるんじゃないか」
岡野は別の案を出していた。修司を次の拠点の調査と新人育成へ移す。AIで減った作業を人が繰り返す必要はないが、減った時間で、まだ見ていない現場へ行ける。小池と阿部が一人で判断できる範囲も、広げられる。
収支はその案でも黒字だった。解雇すれば、さらに多く残る。
黒崎は二つを並べ、あとは君が決める、と言った。修司を残せば融資や紹介を引き上げる、という話はなかった。
帰ったあと、航は育成の案をもう一度開いた。修司の給与を残し、現地へ行く交通費を入れても、来月の給与は払える。春に入金の空白を見たときとは違った。

隣室では修司が阿部へ、表に載らない返品をどこへ戻すか教えていた。まず、戻す人に聞く。帳簿が合っていても、荷物がそこにあるとは限らない。その声は、航が最初の仕事を取ったころから変わらなかった。
修司が現場で待っているあいだ、航は客と価格を話せた。夜の電話を彼が受けてくれた翌朝、航は新人へ手順を教えられた。今日、自分の仕事が回っている理由を、表から一つずつ拾えば、修司の名は何度でも出てきた。
失うのは一人分の作業だけではない。そんなことは、航にも分かっていた。
それでも給与の欄を消すと、下の利益が増えた。
その金を残せば、新しい開発に手をつけられる。黒崎の持分を買う日にも近づく。誰かの意見を聞いて、自分の会社の形を決める時間を短くできる。
南の報告を出し直せと言われたときの修司の声が、戻ってきた。
修司を調査へ回せば、未確認を必ず見つける。その人間が、秋の調査はなぜ消えたのかと尋ね続ける。航はそれを、有能さと同じ欄に置けなくなっていた。
席を減らす案を印刷し、通知の文面まで作った。まだ修司へは渡していない。岡野の案へ戻し、来年の調査を頼むと言えばよかった。三十分前にも、そうするつもりで修司の予定を見た。
航は紙を裏返した。
自分が払う給与だけでなく、それを受け取る人の来年が変わる。家賃も食費も、この表からは消えない。会社の外に移るだけだ。
手を止めたまま、隣室の説明が終わるのを待った。
「修司、少しいいか」
呼びかけた声は、思ったより普通だった。
修司は阿部の手順表へ最後の一行を書き、来た。向かいの椅子へ座ると、湯呑みを机の内側へ寄せた。二人で次の仕事の日程を話すときと、同じ動作だった。
航は育成案を見せなかった。解雇の案だけを表にして渡した。
「AIで共通の作業を回せるようになった。年内で雇用を終える」
修司は紙を受け取った。辞めたいと言いに来たのではなかった。その朝まで来年の導入のことを考え、日程へ自分の名を入れていた。
一度読み終え、通知の日付へ目を戻した。
「十二月まで、ってことか」
「そうだ」
「俺が今持ってる現場は、どうする」
「引き継いでもらう」
「現場の確認も、百円ちゃんがやるのか」
「岡野君たちに任せる。お前でなくても、できるようにしたい」
修司は紙を置いた。右手だけが、置いたあともそこに残った。
「誰でもできるようにするために、俺が教えてるんだろう。教え終わってないところもある。AIで減ったのは、写す時間だ」
「それは分かってる」
「分かってるなら、なんで同じ紙で辞めさせる話になる」
航は利益率と、今後の体制を説明した。修司は途中で口を挟まずに聞いた。その沈黙で、航は説明が届いていると思いかけた。
「赤字なのか」
修司が尋ねた。
「赤字ではない。先のために、残せるものを残したい」
「だったら、俺を残す先もあるだろう」
航は答えなかった。隣室で阿部が椅子を引いた。修司はそちらを一度見た。
「あの報告を出し直せと言ったからか」
航は効率の話へ戻した。人件費を抑えれば、もっと良い仕組みを作れる。そういう仕組みが、さらに多くの人を早く帰す。
修司は額へ手を当て、短く息を吐いた。
「俺は、残って直すと言ってたんだけどな」
その声に、航は腹が立った。目の前の相手は、自分が守った会社に座り、自分より正しい場所から話せる。春の給与も、追加九拠点の仕事も、守らなければここにはなかった。その全体を見ずに、一枚の報告だけを指してくる。
「お前は、前の会社から逃げたかっただけなんだな。俺とここを作りたかったわけじゃなかった」
前の会社、と言ったところで、修司の顔が変わった。そこでやめられた。疲れて駅のベンチで眠っていた話を、二人のあいだでしか知らない話のままにできた。
航は最後まで言った。
修司は湯呑みを持ち上げ、口をつけずに戻した。茶葉が水面へ落ちた。

「そういうことに、できるのか」
しばらくして、もう一度言った。
「俺がここでやった仕事、そういうことにするのか」
声が大きくなった。修司は自分でも気づいたように口を閉じた。薄い壁の向こうに阿部と小池がいる。
「逃げたかったよ。あの会社には戻りたくなかった。でも、だからお前が全部作ったことになるのか。俺は助けられたまま、何も返してないのか」
航はそんな意味ではないと言おうとした。どの意味で言ったのか、すぐには別の言葉にできなかった。
修司は通知を持ち直した。

「ここを、俺も作ったと思ってた。良くないところがあったら、残って直せる会社だと思ってた」
その先を言わず、立ち上がった。阿部には、続きは明日な、と言ってから帰った。航はその声を聞き、さっきより落ち着いていると思った。落ち着いたことと、傷つけた言葉が消えたことを、一瞬、同じにしたかった。
翌日、理恵は給与や退職に伴う支払いを計算し、通知と理由に関する書類を航へ返した。金を用意すれば判断への異議がなくなるわけではない、と言った。修司は解雇の理由を認めない旨を残した。
「育成へ移す案は、予算から外すんですね」
理恵は確認した。
航はペンを持った。理由の欄には、自分で書いた業務の効率化という文字があった。昨日言ったことを取り消し、通知を出さないと伝えることはできた。気まずい対面をもう一度するだけで、来月も修司へ仕事を頼めた。
署名欄の上へペン先を下ろした。

「外してください。決定は変えません」
航は自分の名を書いた。
理恵は書類を受け取った。利益の見込みは増えた。航はその数字を開き、今度はすぐ閉じなかった。
*
その夜、修司は自宅の机で、年明けから必要になる金を書き出した。

家賃、電気、食費。百舎の給料がなくなっても、月が変われば同じように払うものだった。退職に伴う支払いで何か月しのげるか計算し、仕事を探す交通費をあとから足した。
最初の計算より、余裕が減った。
来年は工具を少し買い足し、阿部に現場で使わせようと思っていた。買う候補を写した写真を閉じた。もう会社のために揃える必要はない。必要がないことが、節約だと思えるまでに時間がかかった。
知人へ仕事を探していると書いた。百舎を年内で離れることになった、と入れたあと、なぜと聞かれたときの説明を考えた。
効率化で役職がなくなる。そう書けば話は早い。航が言ったことを、そのまま自分の経歴の説明にすることになる。
いったん全部消した。
会社から雇用を終えると通知された。自分は理由に納得していない。それでも、年明けから働けるところを探している。
書き直して送ると、長い文になった。まだ何も尋ねられていないのに、先に弁解しているようだった。
知人から返事が来た。職業訓練所で、実習を手伝う人を探しているという。修司は予定を聞いた。週に二日。作業ができる人より、できない人を待てる人に来てほしいと書かれていた。
その仕事はしたかった。
二日分の収入を家計へ入れた。家賃は払えても、そのあとに並んだ全部には届かなかった。残りの日の仕事を探す必要があった。
修司は知人へ、詳しく聞かせてほしいと返した。航の言葉を思い出しながら、仕事にまで嫌な顔をしたくなかった。
画面を閉じると、来年の現場予定を自分の手帳へ写した頁があった。先週まで、その日の一番早い電車を調べるつもりでいた。
線を引こうとして、やめた。
会社で引継ぎが済んでからにしよう。誰が行くのか決まっていない日を、自分の手帳だけ先に消すのは、落ち着かなかった。
*
澪の十一月三十日の退職は、それとは別だった。島の仕事を自分で選んだ彼女は、引継ぎを済ませ、作品の権利を百舎へ渡す書類には署名しなかった。会社の道具を返し、自分の板を持って出た。
航が最後の写真を提案すると、澪は皆との写真は欲しいと言った。台は写さなかった。岡野がタイマーに間に合わず、全員で一度笑った。その笑いまで嘘だったことにはならなかった。
十二月、修司は残りの勤務で導入を続けた。彼が確認した九拠点も順に正式稼働し、発注元が実際の出荷と新しい表を照合した。三つと九つ、合わせて十二拠点になった。
来年の現場判断は岡野、説明と導入は小池、設定の確認は阿部が持つ。全員が迷ったときには航が決める。そう書かれた表を、修司は壁へ貼った。
仕事探しは、勤務の外で続けた。面談へ行く日は理恵へ休みを伝えた。航は一度、来年の小さな導入を頼めるか尋ね、言い終わる前に、もう社員ではなくなることを思い出した。
修司は客先への道を手順表へ足した。建物の裏へ回らないと夜便の受付に入れない場所がある。そこは画面の説明には出てこない。小池は地図を見ながら、入口にも印をつけてよいですかと聞いた。
「つけたほうがいい。俺も最初、正面で待ってた」
修司は笑った。その話は自分の失敗で、今なら若い人を待たせずに済む。
最後の週、阿部が返品の一覧を見て、なぜこの印がいるのか聞いた。修司は表を閉じず、実際に荷物を戻す人の順番から説明した。阿部は自分の手順表へ書き足した。

「辞めるのに、ここまでしてもらって」
阿部が言った。
修司はしばらく手を止めた。
「したくない日もあるよ」
阿部は顔を上げた。
「今、ここの電話が鳴ると、俺が取らなくてもいいかと思う。でも、取らないとお前が分からないまま答えることになる。それは違うから」
そう言って、例外を誰へ確かめるか、名前を二つ足した。退職した自分へ電話を戻す欄は作らなかった。教えることと、会社の決定を受け入れることは別だと、阿部にも分かるように言った。
小池と阿部が猫のステッカーを贈った。修司は工具箱へ貼った。仕事がすぐ見つかったのかと阿部に聞かれ、知人の職業訓練所で年明けから実習を手伝えるが、最初は週に二日だと答えた。残りの日の仕事は探していた。

「全部見つかってから辞めるわけじゃないんですね」
小池が小さく言った。
「そうだな」
修司は道具をしまい直した。二人の前で平気なふりをして、自分で辞めた話にしてしまうのも嫌だった。
「教える仕事は楽しみだよ。それだけじゃ食べていけないから、ほかも探す」
航はその話を隣室で聞いた。紹介できる工場が一つあった。自分から言えば、また助けたことになる。そう思って口を閉じた。紹介するか本人に尋ねるという、その間のことはしなかった。
修司は明日から収入が全部なくなるのではない。払うものは払う。その言い方を、航はもう何度か自分にしていた。週二日の仕事では足りないという声が聞こえたあとも、支払いの済む範囲だけを考えようとした。
最後の出勤日、修司は濃い青の湯呑みを新聞紙で包んだ。鍵を机へ置き、返却した道具の一覧を指で確かめた。

「全部あるな」
航は頷いた。
修司は鞄を持ち、少し待った。航から何か言うのを待っていると分かった。仕事を探している相手へ、良いところが見つかるといいなと言えば、送り出した人間の言葉になる。
「引継ぎは、助かった」
航は言った。
修司は鞄の持ち手を握り直した。
「引継ぎに困らなかったからって、これでいいことにはしないでくれ」
返事を待たず、隣室の二人に挨拶した。小池は廊下まで出て、もう一度頭を下げた。修司は彼女に、外では普通に呼んでくれ、と言った。
階段を降りる足音が止むまで、航は鍵を見ていた。
十二拠点からの連絡は、決めた担当へ届いていた。壁の表には修司の字が残り、その横の来月の給与には修司の名がなかった。仕事が渡ったことを見れば、判断は成功したと言えた。
航は誰にも尋ねず、修司の椅子を机の下へ入れた。
薄い青の湯呑みは、航の机に残った。