第二章七分早い午後
六月、試作を持っていった川沿いの倉庫で、澪は配送表を裏返した。
裏には翌日の持ち物や、台車の不調が書いてあった。荷物の送り先と、その日の人へ渡したいことは、一枚の紙に載っていた。澪は新しい表へ手書きの余白を残した。

発注元の担当者は、説明の見本と違うと言った。入力を減らすはずなのに、手書きが残っている。
澪が、直します、と言いかけた。航はいったん座りましょうと椅子を引いた。
「同じ情報を写す回数は減っています。ここに書くのは、その日の人に渡したいことです」
彼は自分の説明資料と澪の紙を並べた。事務員をもう一度呼び、何を書くかを聞いた。予定を一時間越えたが、余白は残った。
帰りの車で、澪が、自分の説明が足りなかったと言った。
「見本を作ったのは俺だから。あの余白は、消さなくてよかった」
澪は手帳へ何か書いた。翌週、その頁を見てから一人で説明に立った。航はそれを頼もしく見た。
同じ週、南の拠点で試用中の配送表から、返品の荷物が抜けた。
夜の最終便に間に合わなかった品は、翌朝の通常便へ回してよいものと、冷蔵車で戻すものに分かれていた。百舎の試作には、その区別がなかった。四月に聞けず、五月にも日程が合わなかった項目だった。
従来の表と見比べるはずの試用だったが、昼の担当者は、調査済みの仕組みなら夜便の条件も入っていると思った。二つの表を別々の人が確認し、抜けた荷物を互いに相手が扱ったと考えた。
品物の一部が傷み、運び直しが必要になった。夜勤の須田という事務員が呼び戻され、母親を迎えに行く時間に間に合わなかった。修司は現場で旧表と試作を並べ、その区別がないことを確かめた。
須田は迎えを頼んだ施設へ、事務室の隅から電話をかけていた。あと十五分、が二度続いた。最後は近所の人へ頼み直した。母は一人で長く歩くのが難しく、玄関まで連れていってもらわなければならなかった。

謝る相手を一人増やしたあとで、須田は荷物の番号を読み直した。従来の表には冷蔵で戻す印があり、新しい表にはその印を入れる欄がない。彼女は見落としたのではなく、別の担当が済ませたと思っていた。
「この欄の代わりは、どこですか」
修司へ聞いた。彼が、まだ入っていません、と答えると、須田は唇を噛んだ。
「調べてあるって。夜の分も、調べてあるって聞いたから」
同じことを二度言った。修司は、こちらから説明します、と返した。須田は彼の紙へ、戻した荷物の数と、誰からどの表を受け取ったかを書いた。まず荷物を正しい場所へ戻し、その次に自分の仕事を説明できるようにしたかった。

「こちらの未確認が原因だ。そう書いて出そう」
航は修司の報告を読んだ。その一行を出すと、四月の完了報告が間違いだったと伝わる。調査工程の代金を返す話になるかもしれなかった。
「先に直せないか」
「直す。それと、何が起きたかは別だ」
修司の報告の末尾には、須田の書いた受渡しの順があった。航は、迎えの変更にかかった費用を会社で負担できないかと言った。
「それも聞けばいい。でも、何を直すかの説明を先にしよう」
修司は翌朝、発注元の本部へ一緒に行くと言った。必要なら調査工程の支払いを戻し、その金が足りなければ黒崎に借りる。春に避けた借入は、今も相談できた。
航は資金表を開いた。返還となれば次の給与の余裕がなくなる。理恵に相談し、調査の残りと返品対応の費用を出せば、何を借りるかは決められる。会社がその晩なくなる話ではなかった。
それでも、画面の代金を払ったあとで、理恵へ何と説明するのか。助かりましたと言われた入金を、自分が嘘で得た金だったと話す。澪に新しい画面を返せとは言わずに済むだろう。返せないものは、代表を信じた二人の顔だった。
航は、調査未了の条件が試作に含まれておらず、と書き始めた。自分の承認を一行加えれば、須田の書いた順に説明できた。書くことがないのではなく、書いたあとの自分を見たくなかった。
黒崎へ相談すると、発注元全体への報告を止め、現場の手順の行き違いとして収める案が返ってきた。いま認めれば、追加の仕事の話も止まるだろう、と彼は言った。
「ただ、現場は百舎の不備だと言ってます」
「その説明を採るかどうかは、君が決める」
通話が終わっても、航は消しかけた一行を戻したままにした。修司へ渡せば、翌朝には二人で出せる。須田は今夜も、迎えを人に頼んで働いているかもしれない。その負担を自分の説明で終わらせられる。

画面の下に、追加九拠点の相談という件名が見えた。航は原因の一行を選び、消した。運用上の混乱と入力した。誰が何を知らなかったかを尋ねなければ、読めてしまう文だった。
修司に見せる連絡の宛先から、修司の名を外した。確認を頼めば止められるからだった。航は送る前にそれを知っていた。
航は翌日、発注元の本部へ、試用時の運用上の混乱であり仕組みは修正済み、と報告した。未調査の項目を省き、四月の完了報告には触れなかった。修司に確かめさせず、自分の名で出した。

本部からは修正内容の確認だけが来た。工程代金を戻せという話は出なかった。航は昼までに返答を終え、追加の相談の日程も決めた。最初の嘘は、もう一つの説明を変えるだけで守れた。
現場では須田が手順を守らなかったという扱いになった。彼女は当面、夜勤から外された。主任からその話を聞いた航は、本人の働きぶりに問題があったとは言っていない、と答えた。
夜の手当がなくなると、須田の月の収入は二万数千円減った。母の昼間の介助を頼む分に充てていた金だった。昼の勤務へ変われば、その時間に須田が家にいることもできない。
勤務表を渡された帰り、須田は施設の窓口で、利用する曜日を二つ減らせないか相談した。減らした日は親族に頼み、迎えの時刻を早くする。金を節約するために、人へ頭を下げる回数が増えた。

母は、仕事はもう済んだの、と聞いた。須田は勤務が変わったとだけ答えた。あの表を見た誰かが、仕事の間違いを家まで持ち帰る人を決めた。その人に自分がなったことを、母へ説明したくなかった。
主任との電話では、航の返答のあと、向こうが静かになった。
「それなら、そう伝えてもらえますか」
航は確認すると言った。確認の電話は、かけなかった。
数日後、修正した表を説明するため、航も南の拠点へ行った。須田は昼の事務室にいた。壁の勤務表で彼女の名前だけ、先月とは違う列へ移っていた。
説明が終わると、須田は彼を出口まで追ってきた。手には、事故の経緯を書いた紙があった。
「私が勝手に省いたんじゃないと、会社から言ってください」
航は、仕組みはこちらで直しました、と答えた。
「それは見ました。でも、この紙は変わってないんです」
須田は自分の名前の横を指した。航は、本人に問題があったと言ったわけではないと、主任へしたのと同じ説明をした。

「じゃあ、何で私の勤務が変わるんですか」
声が大きくなり、事務室の中で誰かが顔を上げた。須田は口を閉じてから、低い声で続けた。
「母の世話と合わせて、この時間で働いてたんです。別の時間にすれば同じってことじゃない。給与の紙を見てから、一週間の予定を全部、組み直しました」
航は母の迎えの費用を負担できると話しかけた。須田は首を振った。
「あの日の分だけ払ってもらって、私が間違えたことはそのままですか」
彼女の指が紙をきつく挟んでいた。航は、発注元と話します、と答えた。何を話すかも、いつまでに返すかも決めなかった。
帰りの車で、助手席の修司が言った。
「今の話を、本部へ出せる」
航は前を見たまま、もう少し状況を見たいと答えた。
「何が分かれば出すんだ」
その問いには返事をしなかった。須田から受け取った紙は鞄に入っていた。家へ戻った彼女は翌朝の迎えを頼む電話をした。航は会社へ戻り、予定どおりに進んだ打ち合わせを手帳で消した。同じ日の用事だった。
翌週、須田は新しい勤務で使う弁当箱を出した。夜に食べていたものより小さかった。少し早く昼休みを出て、母の帰宅先へ確認の電話をするためだった。会社の表が直った日を、彼女は自分の問題が終わった日として覚えなかった。

七月、技術担当の岡野蓮が入社した。二十九歳の岡野は、仕組みの最初から最後まで見られる会社を探していた。航、修司、澪、理恵の四人だった職場が五人になった。
岡野は現場の修正と並行して、拠点ごとに違う試用報告をそろえる仕事を見直した。AIが整理する部分と人が原文を見る部分を分け、似た会社名を取り違える欄には確認の印をつけた。澪が試しの画面へ丸い顔を描き、修司が百円ちゃんと呼んだ。

一枚を整理し、元の報告と照合するまで、七分短くなった。
木曜の夕方、十枚を終えても窓の外が明るかった。理恵は定時に片付け、息子の靴を買いに行った。今朝になって、つま先がきついと言われたのだという。

「言われた日に買えるなんて、今日はよくできました」
澪も勤務を終えて退勤を記録した。それから航の許可を取って、空いた机に私物の板を広げた。休日と退勤後に、私費で材料を買って作る個人の地図だった。会社の受注でも、残業でもなかった。
真帆が修復の仕事を通じて知る学芸員、住田を紹介してくれた。島の資料館で、指で道をたどれる展示を作れないか、澪はその人と相談していた。真帆は紹介者で、百舎の営業として話を運んだのではない。
透明な板を動かすと、潮が満ちたときに沈む道が覆われた。

「帰りは、ここ通れないんだ」
「来た道を覚えているだけだと、帰れないんです」
航は机の端に肘を置いた。百舎の仕事ではないものが、ここにある。それを誇らしいと思った。
その晩は早く帰り、オムレツを作った。裏を焦がし、ひっくり返して皿へ載せた。三十五歳の真帆は食べてすぐ気づいた。二人で黒いところを除け、修司が左右違う大きさの長靴を借りた話で笑った。
食後に黒崎から電話が来た。三拠点の評判がよいので、次の相談を早めたいという。
八月、南の返品も含めて試用の問題を直し、三拠点は実際に正式稼働した。発注元が通常の出荷に使えると確認し、導入代金が入った。今度の完了は本当だった。百舎には次の給与と家賃を越える金が残った。
川沿いの主任から、六時に帰れた、と電話があった。帰る頃には閉まっている弁当屋が、今日は開いていた。魚の種類の話を、航は笑って聞いた。
修司が帰る支度をしていた。航は電話の内容を伝えた。修司も笑った。
「南の人にも、それが届くといいな」
航は頷いた。須田に何があったかを確かめる代わりに、三拠点の完了の印を見た。
今度は本当に役に立った。航はそう思った。須田へ出すべき説明も、いつかこの結果と一緒に伝えれば、春の判断まで分かってもらえる気がした。
須田が求めていたのは、会社の成功を聞くことではなかった。彼女の手順違反という一行を変えることだった。航はその紙を開かずに、完了の画面を開き直した。
三つとも、緑だった。