序章お祝いだから
湯呑みの底に、小さな値札が残っていた。
相良航は爪で端を起こし、半分だけ剥がした。白い紙が薄い青の釉薬に残った。水につけたほうがいい、と倉田修司が言った。

修司の湯呑みは、三つのうちでいちばん青が濃かった。安いものほど個体差があるのだと、妙に満足そうだった。
「百円でその説明ついてくるの、得だな」
「説明は俺がつけた。追加料金だ」
航は笑い、財布を開いた。修司は手を振った。
「お祝いだから」
印刷所の二階には中古の机が二つあり、組み立てていない棚が壁に立てかけてあった。階下の機械の振動が床を伝ってきた。窓を閉めても止まらなかった。
二人はその振動を気に入った。誰かが下で働いている。自分たちもここで働ける。
百舎という名前は、階下の主人の冗談から決まった。百まで仕事をしたら、あとは数えなくていい。修司が笑い、航がそれを書類に書いた。
百舎は印刷会社ではなかった。客先の注文や出荷を扱う画面を作り、配送表を整え、現場で使えるまで説明する小さな会社だった。航が代表になって仕事の範囲と代金を決め、創業社員の修司が仕組みを組み、導入の責任を持った。修司は株を持たなかった。給料を受け取って働く仲間であることを、二人は設立前に話し合っていた。
夕方、黒崎征一が延長コードを持ってきた。
物流の営業や導入支援をする会社の経営者で、独立前から二人の取引先だった。最初の客を紹介し、さらに個人で二百万円を出資した。百舎は株式会社になり、航が八割、黒崎が二割の株を持った。
黒崎は設立書類の横に、もう一枚置いた。
「いつか私の分を買いたくなったら、これで計算する。最初の二百に、利益に応じた分を足す。上限は四百だ」
返す期日のある借金ではない。黒崎が持分を保つあいだは、株主として会社の成果を受け取る。航が文書の条件を満たして買い取るなら、黒崎の気分で引き止めることもできない。新株を出したり会社を売ったりするには双方の合意がいるが、普段の受注や採用を決めるのは航だった。
「二割持ってるからって、君の椅子に座るつもりはない」
黒崎はそう言い、壁の差込口が二つしかないのを見て、鞄からもう一本コードを出した。

「あとで足りなくなる」
「そこまで仕事が来ますかね」
「来させるんだよ」
帰り際、まだ取り付けていない看板の前で、彼は航の肩を叩いた。
「おめでとう。君はこれで、平凡な努力で平凡な幸せを手に入れる権利を失った」
冗談の調子だった。航も笑った。そう言われるだけの場所まで来たのだと思った。前の会社では、自分が休んでも机の上の紙は動いた。ここでは自分の名前で注文を受け、自分の名前で失敗する。
失敗の可能性まで、誇らしかった。
夜、妻の真帆が、本を修復する工房の仕事を終えて来た。百舎の社員でも役員でもなく、会社の借金を保証する約束もしていなかった。二人の机探しにつきあったのは、夫が毎日座る場所を見たかったからだった。
真帆は三つ目の湯呑みを洗い、残った値札に気づくと、濡れた布でこすった。きれいに取れた。
三人は駅前で買った焼きそばを広げた。取り皿になるものがなかった。修司が未使用の伝票を持ってきて、真帆に、油がしみるよ、と言われた。

航は階下へ皿を借りに行った。
上ってくる途中、二階から笑い声がした。ドアを開ける前に、一度足を止めた。

自分がまだ部屋にいないのに、ここはもう良い場所になっていた。
そのことが、嬉しかった。