# 灯りを消したあとで

100円タイクーン 小説稿・HAPPY本線

選択・結果・生活の改稿／2026年10月1日。人物・会社・出来事は本稿のための創作です。全十七章。旧稿の朗読とは本文が異なります。

## 序章｜百円の領収書

会社の最初の買い物は、湯呑み三つだった。

レジ袋から出すと、青い釉薬の濃さが少しずつ違った。相良航がいちばん濃いものを取ろうとしたところで、倉田修司がそれを先にさらった。

「選ぶの遅い」

「社長だぞ、こっちは」

「じゃあ明日から社長用のを買え。三百円くらいの」

二人で笑った。机は中古だったが、笑い声を遮るものは何もなかった。二階の窓を開けると、階下の印刷所から油の匂いが上がってきた。夜七時を過ぎても、工場の機械は動いていた。

修司は茶葉を買い忘れていた。三つの湯呑みに水道水を注ぎ、ひとつを窓際へ置いた。航の妻の真帆が、本の修復をする工房の仕事を終えてから来ることになっていた。彼女は百舎の社員ではない。今日のために、自分の職場で少し早く帰れるよう相談してくれていた。

会社の名前は、株式会社百舎に決めたばかりだった。印刷所から借りているのは二階の部屋だけで、階下の機械は百舎の設備ではなかった。

客の会社へ行って仕事の流れを調べ、使いにくい入力画面や帳票、手順を作り直す。そういう仕事を請け負う会社だった。客との相談と営業は主に航が、仕組みを作って現場へ入れる仕事は主に修司が担う。当面は二人で、引き受けたものを最後まで納めるつもりだった。

代表は航で、修司は最初の社員だった。修司には株式も、会社の借金を返す約束もない。それでも、窓を開ける向きから最初の客への説明まで、二人で決めた。この部屋を作ったのは自分たちだと、どちらも思っていた。

階下の印刷所の主人が、百まで仕事をしたら、あとは数えなくていいんじゃないかと言った。修司がそれを面白がり、航が登記の書類に書いた。立派な由来ではない。だが前の勤め先では、そういう決め方をしたものは一つもなかった。

航は、領収書を机の端で伸ばした。三つの湯呑みの代金。会社から修司へ返すはずの立替金だった。

「それはいいよ。お祝い」

修司に言われ、航は経費の封筒に入れかけた紙を止めた。

修司が前の会社を辞めた夜、彼は駅のホームのベンチで眠ってしまった。航は同じ会社で働いていたが、まだ辞めると伝えていなかった。疲れ切った修司を起こせずにいる間に、電車が一本行き、もう一本行った。その間に、修司の携帯電話は三度鳴った。最後の着信を切ってから、航は自分も会社を辞めると決めた。

二人でなら、何かできると思った。

何かをしていなければ、またベンチの前に立つだけになる気がした。

入口で足音がした。真帆ではなかった。

黒崎征一が、胡蝶蘭の代わりに延長コードを持って立っていた。物流の会社へ機器や仕事の仕組みを紹介し、導入を手伝う会社の社長だった。独立前から航に仕事を回してくれた人で、百舎を始めるために個人で二百万円を出してくれた人でもあった。

「花は水をやらなきゃならん。こっちのほうが要るだろう」

実際、要った。修司がすぐに包装を剝がした。

黒崎は契約書を置き、机が二つしかない部屋を見渡した。最初の仕事は、小さな倉庫の出荷表を作り直す仕事だった。まとまった額ではない。だが、これで最初の家賃が払える。

その下には、創業前に取り交わした出資の書類の控えがあった。株式は航が八割、黒崎が二割。二百万円は借金ではなく、返す日もない。黒崎は会社が育てば利益の分配を受け、失敗すれば出した金を失う。

「毎日の仕事は君が決める。誰を採るかもだ。ただ、新しく株を出すときと、会社を売るときは、私にも話を通してくれ」

航は頷いた。誰にも頼らず始めることはできなかった。だが、前の会社と同じように、断れない上司を連れてきたつもりもなかった。

綴じた紙の後ろに、黒崎の二割を航が買い取る場合の取り決めがあった。出資額に会社の利益に応じた額を加え、総額は四百万円を超えない。条件を満たせば黒崎は持分を渡す。航が出口について聞いたとき、黒崎は嫌な顔をしなかった。

「そこまで育つなら、私は損をせん」

今は、遠い話に聞こえた。航は出口のある紙を閉じ、目の前の家賃を払える契約を上へ置いた。

航が頭を下げると、黒崎は少し笑った。

「おめでとう。君はこれで、平凡な努力で平凡な幸せを手に入れる権利を失った」

冗談を言う声だった。修司はコードの先を机の裏へ通していて、聞いていなかった。

「社長の苦労は、社員に割って配れない。君が引き受けるんだ。それができれば、ここは君の思う場所になる」

自分の思う場所。

航には、その言葉のほうが強く残った。

ここなら、修司を帰せる。誰かが意見を言ったとき、鼻で笑う人間はいない。失敗した人が、翌朝どの顔で出勤すればいいか考えなくて済む。

修司が、延長コードを机の裏へ留めようとしていた。手前へ引くたび、軽い机も少し動いた。床から声を上げた。

「航、机押さえて。こっち来る」

航はしゃがみ、机の脚を押さえた。

黒崎が帰り、真帆が来た。三人で水を飲み、駅前で買った焼きそばを分けた。真帆は本の修復を覚え始めたところで、指の関節に乾いた糊が残っていた。割り箸を取る前に、その糊を爪で剝がしていた。

「会社って、こうやって始まるんだね」

「もっとかっこよく始まる予定だった」

「充分かっこいいよ。水道も出るし」

帰るとき、真帆が最後の明かりを消そうとした。航は、少しだけ待ってくれと言った。

階段を下りて、道路の向こう側へ渡った。

二階の窓が明るかった。

自分がいなければ、ここにこの灯りはなかった。

その事実が、航には、抱えきれないほど嬉しかった。

## 第一章｜折って持ち帰れる地図

四年目の四月、百舎でいちばん大きな仕事が終わった。航は三十六歳、修司は三十八歳になっていた。

午後六時二十分だった。

画面と手順表の設計を担当する社員、成瀬澪は、客先から届いた納品確認のメールをまだ開いていた。二十六歳の彼女にとって、初めて現地調査から納品まで担当した仕事だった。「受領しました」の文字が画面に出ている。髪を耳にかけ、また戻し、隣の修司に何か言いかけてやめた。

「分かったって。まだ言ってないけど分かった」

修司が言うと、澪は笑い出した。

「使ってくれたんです。紙のほうも」

納めたのは食品卸の倉庫で使う受注と出荷の仕組みだった。店から来た注文を入力すると、倉庫でそろえる品物と数量を確かめられ、出した荷物を記録できる。修司が処理を組み、澪は作業員が迷わず使えるよう、画面の配置と操作の手順を作った。

画面の仕事なのに、澪はいちばん最後まで、作業員がポケットへ入れる折り畳みの手順表を気にしていた。

初めて現場へ行った日、作業台には、文字がにじんだ古い表が貼られていた。手袋をした指が同じ場所を押さえるので、そこだけ読めなくなっていた。澪は帰ってから、押さえる場所の横へ余白を作った。手順の番号も大きくした。

それだけの変更を、向こうの主任は電話で褒めた。

「成瀬さんのやつ、みんな持って帰ったよ。明日忘れるなって言ったんだけど」

その電話があったあと、澪はしばらく席を立たなかった。

入社したころの彼女は、自分の作ったものを送るたび、申し訳ありません、とメールに書いていた。必要のないところまで書くので、航が一度、何について謝っているのか聞いた。

澪は答えられなかった。

その日、航は彼女の文章から謝罪を一つずつ消した。代わりに、変更したところを三つ書かせた。相手に何を見てもらいたいのか。その話だけをした。

今は、紙を使ってもらえたことが嬉しくて、同じ話を三度している。

航は経理と日々の運営を担当する社員、高瀬理恵に、弁当を少し奮発していいか尋ねた。四十四歳の理恵は、支払いの予定と勤務時間を同じ手帳に書いていた。

「税込みで一人千円まで。社長の奮発も、その中に入れてください」

理恵はいつも、金額を言う前に眼鏡を上げた。近くが見づらいのだという。航はその動作を、会社が大丈夫である印のように思っていた。

机を寄せ、弁当を広げた。修司が湯呑みを持ってきた。創業の日から使っている濃い青。底に傷が入り、机に置くと少しかすれた音がする。

澪は、冬に完成させた小さな立体地図を鞄から出した。休みの日に、私費で買った紙を重ねて作った海辺の町だった。会社の注文でも、客へ納める見本でもない。指で坂をたどれた。

「駅を出た人が、海がどっちか分かるようにしたくて」

航も触ってみた。坂を下ると、急に道がなくなる。

「ここは？」

「階段です。もっと分かるようにしないと」

修司が、空いた箸袋を小さな舟の形に折った。地図は弁当から少し離した机の中央にあり、彼は舟を、青く塗られた港の上に置いた。

「出港します」

指先で舟を押したが、紙を重ねた岸の縁に船首が引っかかった。

「そこ、陸です」

澪が言った。修司は舟を持ち上げて、青いところへ戻した。

「船長を替えてくれ」

理恵が笑い、澪も笑った。航は笑いながら、もう一度、指で駅から港までをたどった。

八時前には片付いた。

航は真帆へ連絡した。来月の連休は、予定どおり行けそうだ、と。

二人で海を見に行く約束をしていた。真帆が修復した航海日誌を、小さな資料館へ返す用事がある。仕事の用事だから旅行にはならないかと彼女は言ったが、航はそれでも構わなかった。仕事の終わった彼女と、見知らぬ町を歩きたかった。

今度は行ける。

送ったあと、航は来月の入金予定を開いた。

数字を確かめ、閉じた。

その夜は、もう一度確かめる必要がなかった。

翌朝九時十一分、あの食品卸の営業担当から電話が来た。百舎への注文と、昨日の納品の連絡を取り次いできた人だった。

話し始めるまでの呼吸が長かった。

「昨日は、本当にありがとうございました」

航は立ち上がった。

礼を言う声なのに、その先に、良い知らせが一つもないことが分かった。

## 第二章｜届かないもの

電話で告げられたのは、食品卸が事業を止めるということだった。昨日納めた仕組みの代金を、来月の支払日に払えない。どれほど払えるかも、いつになるかも、担当者には答えられなかった。

納めたものに不具合があるから、支払いを待つという話ではなかった。受領の連絡は昨日来ていた。その代金が入るつもりで、百舎はこの仕事にかかった人件費や、現場へ通う費用を先に負担していた。

航は電話を切り、納品後の動作を確認する画面を開いた。倉庫で使う仕組みは、昨日と同じように動いていた。出荷を記録する欄も、澪が大きくした手順の番号も、消えていなかった。

それが妙だった。

あんなに働いて作ったものが、会社を守る代金にはならない。画面ごと消えてしまえば、何を失ったのか、少しは分かりやすくなる気がした。

理恵は、その入金の欄をいったん空白にした。

給与、家賃、外へ頼んだ仕事の支払いは残った。ほかの小さな仕事から入る代金と口座の残高を合わせても、これまでどおり払っていけるのは、一か月と少しだった。

「来週の給料は払えます。次をどうするかです」

理恵はそう言って、航へ表を向けた。いつもと同じ動作で眼鏡を上げたが、航は安心しなかった。

澪は自分の賞与をなくしてもいいと言った。航は、それは別の話だ、と答えた。修司は何も言わず、支払日が近い順に請求書を並べ直した。航が相談の電話をかけるためだった。

航が電話をかける相手を探していると、階下の印刷所が機械を止めた。

急に静かになった。

午前中、失うものを考えた。午後は、それを失うところを皆に見られることを考えた。

二つの違いを、航は認めたくなかった。

黒崎が来たのは、その翌日だった。

励ましは言わなかった。椅子を引き、理恵の作った表を読み、まだ支払猶予の相談をしていない相手を確認した。

それから、別の取引先が進めている、地方の配送拠点をつなぐ仕事の話をした。事業を止める食品卸とは別の会社からの依頼だった。

案件名は「環」。発注元の会社で使っている配送拠点のうち、まず三か所の仕事をつなぐ計画だった。各拠点では、荷物を受け取り、行き先ごとにまとめ、次の便へ渡している。同じ会社の荷物でも、使う一覧表や、書き込む順番が場所ごとに違っていた。

黒崎は、持ってきた三枚の配送表を机に並べた。

一つ目の拠点で入力した行き先と箱の数を、荷物を受ける次の拠点では、自分たちの表へ打ち直している。変更があれば電話で知らせ、電話を受けた人が紙へ赤字を入れる。夕方には事務員が画面と紙を突き合わせ、翌日の配送表を作る。同じ荷物の情報を、別の人が何度も書いていた。

百舎が作るのは、その情報を三か所で引き継いで使える仕組みだった。受け取った情報を共通の形で見られる画面と、各現場で必要な配送表を出せるようにする。変更がどこへ届いているかも確かめる。荷物の仕分けや配送は先方の仕事で、百舎は、それを指示し確認するための情報を扱う。

作って送るだけでは終わらない。現場の使い方に合わせて直し、操作を説明し、実際の荷物の行き先と数量を、新しい画面と配送表で確かめられるところまで持っていく。三か所それぞれの担当者が、通常の出荷に使えると確認することが、今回の導入の区切りになる。

黒崎はこの仕事の紹介と、受注までの条件の調整をする。使う側の要望と導入の確認は発注元が出し、それに対して何を作り、いくらの仕事として引き受けるかは百舎が答える。黒崎から話が来たというだけで、代金や日程まで決まっているわけではなかった。

これができれば、夜遅くまで同じ情報を写し直している事務員を、早く帰せる。

百舎がいままで引き受けたどの仕事より大きかった。

「この先、ほかの拠点まで一度にと言われても、無理です」

修司が先に言った。

黒崎は頷いた。

「だから、あの会社の拠点を全部一度に受けるんじゃない。最初はこの三つだ。そこで使えると分かれば、先方も次の予算を考えられる」

理恵は入金の時期を聞いた。航は、見込める代金と、完成までに必要な費用を見比べた。三拠点の仕事を終えられれば、百舎が支払いを続ける見通しは立つ。ただし、代金を全部受け取るまでには何か月もある。その間の給与と家賃を払う金が要った。

黒崎に発注元との間をつないでもらい、三日かけて条件を詰めた。着手金、現地調査と確認を終えた工程の代金、三拠点を動かした時の残金。その順に支払う案だった。頼まれていない機能は、途中で無料追加しない。現地での説明や確認にかかる仕事も含めて、百舎が引き受ける範囲を確かめた。

三日目の夕方、黒崎は調査工程の欄を指した。

「これを今月にできれば、借りなくて済む」

まだ三つの現場へは行っていなかった。届いた配送表を見て、担当者に電話で質問しただけだった。

「終わったことにするんですか」

「書類を先に出す。実際の調査は追いつけばいい」

黒崎の声は、入金日を相談していたときと同じだった。発注元の担当者は、百舎が完了と報告すれば、その工程の代金を払う手続きへ進められるという。

航は、今日も一時間近く待った融資相談の電話を思い出した。黒崎から借りれば早い。だが株式だけでなく金まで握られれば、次の話を断るとき、またこの顔を見ることになる。

理恵が、調査のために空けた日程を机へ置いた。

「この日は何をしに行くと、先方へ伝えますか」

航は答えられなかった。

未完了だと説明すれば、今月の工程代金は入らない。借りずに済ませる計算は、そこで崩れる。完了だと言えば、修司は調べていない現場へ、調べた担当者として行く。その日に初めて知る条件があっても、最初の説明を守るために、誰かがもう一度嘘をつかなければならない。

航は三枚の配送表を揃えた。正規の着手金をもう少し増やせないか、先方へ頼む案も尋ねた。今の条件で取れる分は、既に相談してあった。黒崎は、すぐに増やせる見込みはないと答えた。

「先に完了で出すほうを断っても、貸していただけるんですか」

「返せる計画なら、貸す。その二つは別だ」

航は口座の表へ戻った。借入の欄に三百万と書けば、今年だけでなく来年の自分にも支払いが残る。会社を守れなければ、借りた金の説明も自分がする。借りなければ、と考えた途端、完了の紙がずいぶん軽く見えた。

「現場を見て、間に合わないところがあったら」

修司が言った。

「そのとき、終わってないと言えるようにしといてくれ」

終わっていないときに、終わっていないと言う。それだけのことを、紙一枚で取り上げるところだった。

修司が資料の端を折りかけ、やめた。まだ調べていないことを、調べた人間として説明するのは彼だった。

「完了とは書きません。足りない分は、貸してください」

声にしたあとも、航の胸は軽くならなかった。黒崎が紙を動かす前なら、今月だけは先に出したいと言い直せた。航は完了報告を自分の手で脇へよけ、調査の日程を表に置いた。

黒崎は書類を引っ込めた。怒りはしなかった。

「三百万。まず、それで支払いをつなごう」

別の日、会社として借りる契約を理恵と読んだ。年六％の利息を毎月払い、元金は入金から一年据え置き、その後三年に分けて返す。追加の相談は合計六百万円までできるが、返す見込みがなければ貸せない。妻の貯金や保証を、会社の返済の裏付けに入れる契約ではなかった。

黒崎は、その上限を示す指を止めた。

「君らには返せる仕事があるから貸す。私の二割も、会社がなくなれば紙になる」

貸付の紙と、四年前の出資の紙は、別の封筒に入れた。航はその二通が、いつか一緒に片付くもののように並べた。理恵は、借金を返しても株は残りますよ、と言った。

契約の最後の頁には、百舎の代表として署名する欄があった。社員の給与を減らせば借りる額を小さくできるか、と一瞬考えた。澪が賞与をなくしてよいと言った声が浮かび、その案を口にはしなかった。自分が借金を恐れる分を、いちばん先に申し出た人へ渡すことになる。

航は契約へ署名した。理恵の資金表には、三百万円の行が残った。彼女は残高を増やす欄だけでなく、翌年の返済予定にも同じ借入を書き入れた。航は最後まで見ていた。

その晩、署名した自分の名前が、いつもの字より大きく見えた。

修司は、残業をすれば何とかなるとは言わなかった。同じ人が、会社で画面を作りながら別の拠点へ説明に行くことはできない。現地へ行く日の分だけ、製作に使える日が減る。その日程を示しながら、現地で使い方を説明する回数や、稼働前に立ち会う時間を航と詰めた。引き受ける範囲は最初の案より少し広がった。

二人とも、どの仕事を増やしたかを覚えていた。

金曜日の夜、航は全員に条件を説明した。

「ここまでなら受けたい。俺はそう思ってる」

沈黙があった。

理恵が、稼働までの入出金予定を印刷した。

着手時の入金だけでは、稼働までの費用は足りない。黒崎からの三百万円でつなぎ、支払いが難しい取引先には期日の相談をする。正しく工程を終えて受け取る代金で、給与と仕入先への支払い、借入の利息を払う。来年始まる元金の返済分も用意しなければならない。売上の額だけでなく、金が入る日まで持ちこたえられるかを、皆で確かめた。

「受けるなら、支払いの相談は私も行きます。社長だけだと、最後にいい顔をするので」

修司は笑わなかったが、頷いた。

澪は、現場へ連れていってほしいと言った。

契約の翌週、給与の振込が終わった。この分は、まだ残っていた口座の金で払った。新しい契約がなければ、そのあとに続く給与や家賃をどうするか、答えのないまま残高だけが減るところだった。

理恵は終業前に、息子の学校へ提出する支払いの案内を鞄へ入れた。来月になっても、学校は百舎の入金を待ってくれない。彼女が給与の予定を確かめたかった理由は、航を安心させるためではなかった。

澪は昼休みに、自宅の家賃の振込予約をした。画面を閉じ、来週の現地調査の持ち物へ戻った。二人とも航へ礼を言うために、その生活を見せたわけではない。予定の日に支払えることが分かり、自分の仕事へ戻れた。

航は銀行の画面を閉じて、しばらく手を膝へ置いていた。自分の肩があれほど上がっていたことを、そのとき初めて知った。

給与を振り込んだ日の夕方、真帆へ電話をした。

連休の予定を変えてほしかった。

真帆は黙ったあと、宿の予約番号を尋ねた。

「私の分だけ残せるか聞いてみる」

「一人で行くの？」

「日誌を返さないと。もう展示の日が決まってるから」

もちろんそうだった。

航は、秋には、と言いかけた。

「今は決めないでいいよ」

真帆は穏やかに言った。

その穏やかさに救われ、航は、何かを一つ済ませた気になった。

＊

連休、真帆は一人で港の町へ行った。

修復した日誌は、雨が入らないよう二重に包んだ。航が持つつもりだった鞄を自分で下げ、駅で乗換えの階段を上った。両手を空けられる袋へ替えておけばよかったと思った。荷物を置けるところへ着いてから、ようやく旅の景色が見えた。

資料館の人は、修復した頁を、指で押さえずに開いた。返す日まで待っていた帳面だった。真帆は、湿気の多い季節にどこへ置くかを話し、継いだ紙の境目を見てもらった。

航にもそこを見せるつもりでいた。工房で働く妻という言葉だけではなく、自分が何を判断し、何を残しているかを。

その夜、二人で予約した宿の一人分の夕飯を食べた。部屋を一人用へ替える手数料も、自分で払った。航の会社が困っていることは分かっていた。分かれば楽しみにしていた時間がなくなるわけではなかった。

携帯電話には、無事に着いたかという連絡があった。日誌を返せた、と写真を添えて送った。よかった、と返ってきたあと、こちらから説明を足そうか迷った。

いま航に長い話をすれば、困っているときに自分の話をする人間になる気がした。その感じ方まで、好きにはなれなかった。

写真を一枚だけ、日誌を無事に返した日の記録として残した。帰ってから印刷し、自分の手帳へ貼るつもりだった。

翌朝は予定の道を歩いた。航が秋の話を始めても、この一日を秋へ移すことはできない。一人で気に入った店を見つけ、歩いた道を駅まで戻った。

## 第三章｜七分の使い道

四月、「環」の契約後、百舎は三拠点から注文や出荷に使う紙を集め、担当者に使い方を聞いて、試すための画面を作り始めた。同じ行き先でも略し方が違い、箱の数を書く場所も違う。修司が情報を受け渡す部分を組み、澪が画面と手順を並べて確かめた。

着手金と黒崎からの三百万円を受け取り、最初の資金不足をつないだ。取引先への支払日の相談は、全部が望みどおりになったわけではない。理恵は返事の来た日付を表へ入れ直し、どの週にいくら足りないかを航と見た。「環」を作るあいだも、その確認は続けなければならなかった。

六月、最初に現地で試す拠点は、川沿いの倉庫だった。航たちは、先に聞いた説明と試作した画面を持って、実際の作業を見に行った。

雨が続いていた。修司は入口で長靴を借りたが、片方だけ一つ上のサイズだった。歩くたびに、右足が遅れてついてきた。

澪は笑いをこらえていた。

「いいよ、笑って。これは俺もおかしい」

休憩室で、事務員が古い配送表を見せた。朝に印刷し、変更があるたび赤いボールペンで直す。新しい仕組みでも、最後は紙で確認できなければ困るという。

澪は、机に積まれた紙の順番を聞いた。

何を上へ置くのか。誰へ渡すのか。渡したあと、どこへしまうのか。

昼過ぎには、航が用意した説明の半分が要らなくなっていた。人は画面だけを使っているのではなかった。

新しい情報が届いても、古い紙を持っている人がいたら、その人は前の指示で動いてしまう。画面を分かりやすくするだけでなく、どの時点で印刷し直し、誰に渡すかまで、現場の人と決め直す必要があった。持ってきた試作をそのまま使い始めることにはせず、澪は直す箇所を手帳へ書いた。

帰りの車で、澪は手帳を広げたまま眠った。修司は信号待ちの間に、落ちかけていたペンを取った。

「いい仕事するようになったな」

「うん」

航は、嬉しさを隠さなかった。

「もっと任せられる」

「任せるときは、横から手を出すなよ」

「出してないだろ」

修司が助手席から、航の鞄に入った赤ペンを指した。

「予備まで持ってる」

修司はこのころ、月に一度、知人の職業訓練所で実習を手伝っていた。皆の前で工具の使い方を説明したつもりでも、席を回ると、隣で一緒にやった一人しか手を動かせていない、と言っていた。航は、一人ずつでもできるようになるならいいじゃないかと答えた。修司は少し考え、そうだな、と笑った。

七月に岡野蓮が入った。二十九歳で、大きな開発会社から来た。小さな会社なら、仕組みを最初から最後まで見られると考えたらしい。

百舎では、修司が画面の手直しと現地での確認の両方を抱えていた。三拠点を正式に動かすまでに作業を分けるため、技術担当を採ったのだった。春には航、修司、澪、理恵の四人だった職場が、五人になった。

履歴書の志望動機よりも、面接のときの質問が航の記憶に残った。

「ここで仕事を覚えたら、どういうところへ行けますか」

修司は面白がった。航は一瞬戸惑ってから、どこへでも、と答えた。

その言葉を岡野は信用した。

七月の三拠点では、古い方法で出した結果と新しい仕組みの結果を比べながら、一部の作業を試していた。まだ全てを切り替えたわけではない。出荷を間違えずに進められるか、直すべき箇所は残っていないかを、先方と百舎の双方で確かめる期間だった。

岡野は現場から届く修正に対応しながら、百舎の中で繰り返している作業も洗い出した。各拠点から来る試用結果と配送表の見本を、比較できる同じ形へ整理する作業。問い合わせへの返事の下書き。確認表へ同じ項目を二度入力する作業。

理恵も、その確認表を使って、終わった作業と残る作業をまとめていた。試用の結果によって手直しの日数が増えれば、稼働までに必要な人件費も変わる。客の配送事務を代行しているのではなく、百舎が納品までの仕事を管理するための表だった。

AIも使った。澪が試しの画面に丸い顔を描き、百円ちゃんと呼んだ。百円で何でもやってくれそうだ、という修司の悪い冗談が元だった。

実際には、確認する人が要った。似た取引先の名前を取り違えることがあり、岡野はそういう欄を機械に確定させなかった。

木曜の午後、理恵が、整理した見本と元の表を照合し終えて時計を見た。

「七分」

「遅れました？」

「早いの。一枚で七分。十枚ある」

岡野は照れて、まだ直したいところがあると言った。

その日は四時半に一区切りついた。予定した仕事を終えた人は退勤してよいと、朝の打ち合わせで決めていた。理恵は勤務の記録をつけ、息子の靴を買うと言って帰った。足が急に大きくなり、朝、かかとを踏んで出ていったという。

澪も退勤を記録してから、空いている作業机を一時間借りていいかと航に聞いた。自宅の机より広い。許可を得て私物の紙を広げ、真帆から紹介してもらった資料館の人に、立体地図を送る準備を始めた。真帆は修復した本を納めた縁で、その人を知っていた。航は横から、湾の形を覗いた。

「この先、何を作るの」

「潮の満ちるところが分かるものです。見ても、触っても、音を聞いても、違うことが分かるように」

「難しそうだ」

「そこが面白いんです」

航は、いいな、と思った。

机の上には百舎の納品物ではないものがある。会社で得た時間を使い、澪が自分のものを作っている。それこそ、ここを始めた理由ではなかったか。

その夕方、航も早く帰った。

真帆は、流し台で刷毛を洗っていた。航を見ると、時計を見て、それから笑った。

「卵があるよ」

航は久しぶりにオムレツを作った。裏を焦がしたので、そちらを下にして出した。

真帆はひと口食べ、焦げている、と言った。

「分かるか」

「分かるよ」

二人で焦げたところを切り分けた。

何か大きな話をしたわけではない。真帆は古い紙に棲む虫の話をし、航は左右の違う長靴の話をした。

食べ終わるころ、航の携帯電話が鳴った。

黒崎だった。

航は皿を流しへ運んでから電話に出た。

黒崎は、三拠点の試用で、打ち直しが減ったと聞いている、と言った。正式な切り替えは八月だが、発注元は、ほかの拠点にも使えるかを考え始めている。次の相談を早めたいという話だった。

食事を終え、皿を片付けてから仕事の電話に出る。その順番を守れたことを、当時の航は、たいしたことだとは思わなかった。

## 第四章｜知らない人の名前

七月の最後の日曜、航は真帆と資料館へ行った。

連休に行くはずだった場所とは違う。港の外れの、公民館の一部を借りた展示室だった。海の近くなのに、窓は道路へ向いていた。

澪の作った地図が、低い机に置かれていた。

見本の一つとして、一日だけ来場者に使ってもらう。そのために、学芸員の住田と地元の木工職人が、机の脚を短くしていた。

澪は航たちに気づいて、手を振った。すぐ横から呼ばれ、そちらへ戻った。

それでよかったはずだった。

航は展示の隅に立って、彼女が働くところを見た。

地図に触れた老いた女性が、坂の線をたどった。同行していた友人が何か説明しようとすると、女性は、ちょっと待って、と言った。

澪は説明をやめた。

航なら、正しい道へ指を誘導していたと思う。

女性は行き止まりを二度たどり、笑った。

「ここ、昔は抜けられたのよ」

住田が椅子を寄せた。いつごろですか、と聞いた。木工職人が鉛筆を探した。

地図の前に、人が増えた。間違いを直す会話が、昔そこにあった駄菓子屋の話になった。

航の知らない話だった。

澪は聞きながら、紙に小さな家を描いた。仕事で作る図より線が柔らかかった。

昼を過ぎ、会場の外でおにぎりを食べた。

「住田さん、島のほうの資料館も担当されてるんです」

澪は、沖に見える小さな島を指した。島の資料館には古い漁具と、潮位を記した帳面がある。住田はそこで展示を作り直す準備も進めていた。まず来年の春に一部を公開する。その仕事に関わりたいのだという。

「夏と冬で、同じ場所の音が違うんですって。まだ冬の音は聞いたことがないんですけど」

「音なんて、送ってもらえばいいんじゃないか」

航は悪気なく言った。

澪はおにぎりを飲み込んだ。

「そうなんですけど。何を録るかを、一緒に考えたいんです」

「ああ」

返事が少し遅れた。

真帆は横で、缶のお茶についた水滴を親指で拭っていた。話しているあいだも、港からは波が岸壁をたたく音が聞こえた。航は食べ終えたおにぎりの包みを畳み、しばらく海のほうを見た。

帰りの電車で、航は澪の話をした。百舎でもああいう仕事ができればいい。収益になる道を探して、新しい部門にする。彼女のやりたいことを、会社の仕事として続けさせられる。

「澪ちゃん、それを頼んだの？」

真帆に聞かれ、航は首を振った。

「これから話す」

「そっか」

真帆は窓へ顔を向けた。川を渡っていた。光の中に、鳥が一羽、止まっているように飛んでいた。

航はその横顔を見て、何か言い足したほうがいいと思った。しかし、良いことを考えているのに、何を説明すればいいのか分からなかった。

翌週、澪は住田から届いた写真を皆に見せた。

写真の中で、彼女は航の知らない人たちと笑っていた。

航は拡大して、地図の隅を見た。そこで自分の教えた工夫が使われているのを見つけ、ようやく安心した。

## 第五章｜よい知らせばかりの日

八月、「環」の三拠点が正式に動き始めた。

七月の試用で見つかった違いを直し、各拠点の担当者と、いつ新しい配送表へ切り替えるかを決めた。それまでは比べるために使っていた画面を、日々の出荷に使い始めた。三か所とも、受け取った行き先と箱の数を次の拠点へ渡せることを確認し、百舎は導入した範囲について納品の確認を受けた。

最初の一週間、岡野は何度も現場へ通った。画面の不具合は減ったが、忘れ物は増えた。充電器、上着、コンビニの傘。修司は彼に、向こうで暮らす気なのかと言った。

ある午後、川沿いの拠点の主任から電話があった。

「今日、六時に終わったんですよ」

声の向こうで、戸締まりの音がしていた。

「早く帰ると、まだ開いてる店があるんですね」

航は、受話器を持つ手に力が入った。

この仕事を受けてよかった。

あとから何が起きても、その言葉を嘘にはできなかった。

三拠点の稼働に伴う代金が入ると、理恵は支払いの表を更新した。春に待ってもらった支払いを進め、借入の利息と、この先の給与や家賃に充てる分を確かめた。元金三百万円はまだ残る。四月の食品卸から代金が戻ったのではない。別の仕事を納め、その代金で会社を続けられるところまで来たのだった。

借金が全部なくなる額ではなかった。それでも、今度は支払日だけを後ろへ動かした表ではない。理恵は全員の前で言った。

「来月も、再来月も、予定どおり払えます」

澪が小さく拍手した。岡野が続いた。修司は航の背中を一度叩いた。

「やったな」

その言葉を、航は何度も思い返した。

数日後、黒崎は、同じ発注元の配送拠点を、三か所から合計十二か所へ広げる計画を持ってきた。追加するのは九か所。最初の三つで使えるようになった仕組みを土台に、ほかの拠点も順に切り替え、年内に移行を終える案だった。

一から作り直すよりは、使えるものが多い。離れた拠点同士でも情報を渡せるようになれば、発注元は途中だけ古い表へ写し直す手間を減らせる。百舎にも、三拠点だけの仕事より大きな売上と、その後も使う人を支える保守の仕事が見込めた。

ただし、同じ画面を九回送れば終わるわけではない。現場ごとの帳票を集め、違いを確かめ、設定を直し、人に使い方を教える。その間も、先に動いた三拠点からの問い合わせには答えなければならない。

今回は、考える時間があった。受けなければ来月の給与が消えるわけではない。だから航は、自分が落ち着いて判断していると思えた。

岡野は乗り気だった。今までの仕組みを整理し直せば、同じ苦労を十二回する必要はない。修司も、現場ごとに変える範囲を抑えられるなら、と賛成した。

航にも、単に口座の穴を埋めるためではなく、次の仕事を選べるようになった実感があった。今度の受注で人を増やせれば、修司一人に現場を回らせずに済む。澪が説明のたびに呼び出されることも減らせる。増やしたい理由は、売上の数字のほかにもあった。

理恵は、もう一部屋借りるのは早いと言った。

二階の隣室が空いたところだった。今の人数なら要らない。増やす人数もまだ決まっていない。

「必要になってからじゃ、遅いんだよ」

航はそう言い、壁の向こうを見た。

前の会社で、自分たちが席を詰めて残業していた部屋を思い出した。あんなことにはしたくない。広い机を用意し、休憩できる場所を作る。澪が地図を広げたままにできる台も置ける。

「余裕を作るための部屋だ」

理恵は、それ以上は言わなかった。航は納得してもらえたと思った。

見積りと日程を詰める中で、現場での確認と説明を担う人を二人採る計画にした。増える給与と部屋代を含めて引き受けられるかを確かめ、航は追加九拠点の仕事を受けると返事をした。春とは違い、当面の支払いの見通しを取り戻したうえで、自分たちで増やした仕事だった。

隣室も借りた。壁は抜かず、行き来するときは一度廊下へ出る。新しい部屋の鍵を受け取った日、航は何度も隣室へ行った。

誰もいない部屋の電気をつけ、机の位置を考えた。

帰りに消すのを忘れた。

窓が二つ明るいのを道路から見て、航は戻らず、そのまま駅へ歩いた。

九月、新しく小池と阿部が社員として加わった。小池は操作の説明と導入時の案内を、阿部は画面の設定や現場での確認を、修司と澪について覚え始めた。二人が隣室の机を使い、百舎は航を含めて七人になった。

最初から一人で拠点へ行けるわけではなかった。修司が同行し、戻ってから岡野と画面を確かめ、翌日の説明を澪に聞いてもらう。人を増やした直後には、教える側の時間も要った。

九月の初め、真帆が食卓へ募集案内を置いた。

古文書の修復を学ぶ、月に二度の実地講習だった。半年続く。県外の町で土日を過ごすので、交通費も宿泊費もかかる。

「受けたいんだ」

「いいじゃないか」

航が答えると、真帆はほっとした顔をした。

「工房の仕事は、その週だけ少し減らしてもらえることになった」

「でも、そこまで習って、仕事になるの？」

真帆は案内を折ろうとして、手を止めた。

「すぐには、ならないと思う」

「うちで展示関係をやるなら、手伝ってもらえるかもしれない。澪とも話せるし」

「航」

「うん」

「私、申し込みに来たわけじゃないよ」

真帆は、怒った顔をしていなかった。ただ、話を始めたときの柔らかさがなくなっていた。

航は謝った。

その夜、彼女が講習で何を直すのか、聞かなかった。

## 第六章｜ここでなくても

澪が相談を持ちかけたのは、秋分の日の前だった。

二人で隣室へ入った。机が四つ並び、二つは小池と阿部が使い始めていた。二人はそのとき元の部屋で作業を教わっていたので、隣室には航と澪だけだった。新しい合板の匂いがした。

澪は手帳を開いた。

「十二月から、島の資料館で働きたいと思っています」

航は、研修の相談だと思った。

「週に何日？」

「向こうへ移ります。二年の契約です」

窓の外で、配達の車がバックしていた。短い警告音が、規則正しく繰り返された。

航は、机の下で両手を組んだ。

「住田さんのところ？」

「はい」

「いつから話してたの」

「夏に募集の話を聞いて。先月、面接を受けました」

先月。

隣室を借り、澪の机の位置を考えていたころだ。

「どうして、そのとき言わなかった」

「決まるか分からなかったので」

それは普通の答えだった。

普通であることが、航にはいちばん耐えがたかった。

澪は、今より給料が下がることも、二年後の仕事が決まっていないことも承知していた。家賃の安い部屋を住田が紹介してくれた。春の公開に間に合うよう展示を作り、そのあとも、来館者の話を聞いて直していく。地図を納めたところで終わらず、使われる場所で働ける仕事だった。

航は、危ないと思った。

そして、その危なさを見つけられた自分に、少し救われた。

「こっちでもできるよ」

まだ売上の見込みもない展示事業の案を話した。澪を責任者にする。外の人とも組める。給料は下げない。

澪は最後まで聞いた。

「ありがとうございます。でも、向こうでやりたいんです」

「ここじゃ駄目なのか」

言ってから、航は、自分が何を聞いたか分かった。

澪は手帳を閉じた。

「ここへ来る前は、面接に申し込むところまでできませんでした」

声は震えていなかった。

「ここで働けたから、今度は自分で選んでみたいと思えたんです」

航は頷いた。頷くべきだと分かっていた。

澪が帰ったあと、彼は一人で、新しい部屋に残った。

彼女が前の会社で受け取った、赤い修正だらけの紙を覚えている。自分のせいで皆の仕事が遅れたと言い、何度も頭を下げた。あの日、航は机を空け、慌てなくていいと言った。

嘘ではなかった。

今でも、そうしてよかったと思っている。

それなのに、あの日の澪なら、こんなことは言わなかった、と思ってしまった。

その考えを、航は誰にも言えなかった。

翌日、退職までの相談をした。

航は十一月末という日付を聞いて、まず引継ぎを洗い出そうと言った。「環」の顧客窓口と説明の担当を変える。澪が覚えている操作上の注意を残す。年末まで続く九拠点の移行は、途中から別の人が説明できるようにしなければならない。

それとは別に、澪は「環」で作った画面や手順表を、自分の実績として資料館の人たちに見せたいと言った。採用は既に決まっている。これから一緒に展示を作る人へ、何をしてきたか伝えるためだった。顧客の業務に使っているものなので、どこまで社外へ見せてよいか、先に顧客へ確かめる必要があった。

必要な仕事だった。

航は必要な仕事を、一つずつ増やした。

どれが終われば出ていけるのかを、言わなかった。

澪は翌週、同じ表を持ってきた。

「十一月三十日で、引継ぎは終えたいです。十二月の最初の週は、向こうで展示の準備を始めます」

もう引っ越す日を決めなければ、船と搬送の手配ができない。家賃が安い部屋でも、最初に払う金は必要だった。給料の下がる仕事へ移るため、使える額を計算していた。

航は、現場からの質問が残るかもしれないと言った。

「残る質問を、誰に引き継ぐか決めたいんです」

「そこまで簡単じゃない。君が今までやってきたことだから」

澪は表を見た。航は、彼女が責任を分かってくれたと思いかけた。

「私が出ていくと、できなくなるようにしておきたくないです。小池さんに教える時間をください」

航はその案を持ち帰った。今ここで担当と終了日を書き入れれば、退職までに渡すべき仕事が決まる。後から出てくる質問は、会社が受ける仕事になる。

「全体を見てから返す」

彼は自分の手元に表を置いた。彼女の最後の日に線を引く権限を、まだ手放したくなかった。

＊

その夜、澪は自宅で引越しの見積りを見た。

申込みの期限と、百舎から返ってこない引継ぎの表を並べた。二つは別の予定なのに、仕事が終わらなければ私事を決めてはいけないように感じていた。

住田へ、着任は予定どおりで、準備できた仕事の紹介から先に送ります、と書いた。採用を取り消すという話はない。それでも、新しい仲間に最初から遅れる人間として見られたくなかった。

勤める場所が変わる。好きな展示を作れる。嬉しいことを話す文の中に、百舎の確認が済んでいないという説明ばかり増えた。

澪は送る前に、後半を消した。自分で作った地図なら、自分で何を見せるか決められる。待たないで進める部分から進めようと考えた。

部屋の床には、私物を詰める箱があった。地図もそこへ戻したかった。引継ぎの手順書を作る夜には、会社の台で自分のものを作ることが、もう落ち着かなくなっていた。

航が貸してくれたときは嬉しかった。便利な場所と、そこで考えた自分の仕事まで嫌いになるのは違うと思った。地図を持ち帰るのは、その時間を自分で続けるためだった。

＊

十月に入って、澪は机の立体地図を家へ持って帰った。

航はそれに気づいた。尋ねなかった。

その日の午後、黒崎が来た。隣室の大きな台を見て、あの地図はどうした、と聞いた。航が島の仕事のことを話すと、黒崎は、百舎の展示商品として売る話を作れると言った。

「会社で使っていた台だろう。ここで育てた人の仕事でもある」

航は一瞬、その言い方に乗りかけた。会社の事業になれば、澪は辞めずに済む。借金を返す売上にもなる。彼女を引き留めるための新しい理由が、まともな仕事の顔で現れた。

しかし地図の材料を買ったのは澪だった。机を貸すとき、会社の仕事とは別だと、自分で確かめた。

「本人に依頼して、条件を聞く話になります」

「それで断られたら」

航は台の傷を見た。

「会社の商品にはできません」

答えられたことに、ほっとした。それなのに引継ぎの期限を決めない自分のほうは、そのままにしていた。

黒崎が帰ると、澪へ、地図を売るという提案には応じなかった、と伝えた。澪は、自分に依頼するかどうかは自分へ聞いてほしいと答えた。

「そうだな。会社のものではないと言ったよ」

「はい。それで、引継ぎの日は決まりましたか」

二つの返事は別だった。航は守ってやれた話をしたかった。澪が欲しいのは、自分の次の一日を決めるための返事だった。

まだ調整中だと言うと、澪は表へ日付を入れた。今日聞いたことが、前回と同じ答えだったと自分で残した。航の前で、その手を隠さなかった。

## 第七章｜待っている人

十月、追加九拠点の移行は、一か所ずつ進んでいた。これから入れる場所を修司たちが見に行く一方で、切り替えを済ませた拠点からは、使い方の問い合わせが届く。ある晩、新たに動かした二か所からの連絡が重なった。

岡野は、次の便を出す前に確かめなければならないものを優先し、翌朝で済むものを分けていた。修司と交代で連絡を見て、実際に止まっている仕事があるかを確認した。

航は帰宅してからその一覧を開いた。「明日の配送表に、今日直した数量が反映されますか」という質問が残っていた。岡野が朝に返すつもりで分けていたものへ、航はその夜のうちに返事をした。

朝、岡野が言った。

「社長が夜に返すと、次も夜に来ます」

「困ってるんだから、今だけは仕方ないだろう」

「今だけの終わりを、先方は知らないです」

航は、言い方が強いと思った。

その朝、岡野は画面の表示を直した。更新した時刻が見つけにくく、変更が保存されたかを使う人が判断できなかったのだ。新しい表示を説明し、配送表に反映されるところを先方と確かめた。出荷が始まる前に済む確認で、航が返した一件は、朝まで待てたものだった。

十月の第二週、その数量の確認から、別の不具合が見つかった。二つの拠点が同じ荷物を続けて修正すると、後から直した数量が配送表へ渡らないことがあった。画面には新しい数があるのに、印刷すると古い数へ戻る。毎回起こるわけではなく、七月の試用では見つけられなかった。

岡野は再現する手順と修正案を用意し、航へ見せた。まず顧客に伝え、直すまで該当する荷物を元の伝票と照合してもらう必要があった。人が確認すれば避けられるが、その人に理由を知らせなければならない。

「いま切り替えを止めると、今月の検収はどうなる」

航が尋ねると、岡野は、そこは先方と相談です、と答えた。

追加九拠点のうち、その月に切り替える分の入金を、隣室の費用と二人の給与に充てる予定だった。延期になれば、黒崎にまた金を借りる話が近づく。

岡野は、暫定の照合を続けたまま検収できるか、先方に聞くことはできると言った。できると約束はしなかった。直す期間と、その間に先方が使う人手を見て決めることだった。

航は受注時の支払い表へ、入金が一週間遅れる場合を書いた。そこに金を移すと、来月初めに足りない欄ができた。黒崎へ相談すれば、給与を払える道は残る。四月と同じで、自分が借りる金と、知らされない人の確認を比べていた。

現場へ原因を伝える報告の下書きには、修正されるまで元伝票との照合が必要、と書かれていた。自分が出せば、誰かが手を止めて二つを比べる。面倒でも、間違いの出る仕組みをそのまま信じるよりよかった。

航はその欄を読んだ。いま気づいて直せる。それは顧客にとって良い知らせのはずだった。悪い知らせにするのは、出荷を任せられると言った自分の顔のほうだった。

航は黒崎へ電話した。技術的な直し方ではなく、顧客への報告の仕方を相談した。

「直せるなら、定期の更新で直せばいい。現場には入力後の確認を徹底してくれと伝える。わざわざ事故の名前を付ける必要があるか」

「入力は、間違っていないんです」

「だったら、次から間違った結果が出ないようにすればいい」

翌朝、岡野が持ってきた報告の表題は、不具合の発生と暫定対応について、だった。航はそのファイルを閉じ、自分の文面を開いた。運用開始時の確認のお願い。仕組みの欠陥には触れていなかった。

岡野は読み終わっても立たなかった。

「これでは、向こうが使い方を間違えたみたいです」

「今週中に直す。先に大きな話にすると、現場も混乱する」

修司は別の拠点に出ていた。もう一度相談すれば、あいつは止めるだろうと思った。そのことまで分かったうえで、航は自分の名前を文末へ入れた。

送る直前、岡野が、原因の欄だけでも戻してください、と言った。

航は元の報告をもう一度開いた。原因を戻せば、確認依頼は短くても、誰が間違った結果を出したのかが伝わる。借入の話も、補償の話も、避けられるとは限らない。

「今回は、この文で出す」

修正済みと書くのはまだ早いと岡野が言い、航はその語だけ外した。正しく直せた小さな箇所で、これなら送れると思った。

二つの画面は、送信の直前にも並んでいた。原因を残す報告には送信先を入れなかった。航は確認のお願いを選び、自分の名で送った。

修正は翌日の夜に終わった。岡野は試験を終え、現場には更新の時刻と確認方法を説明した。原因と既に起きた影響については航から別に報告する、と航が先方にも岡野にも伝えていた。技術の変更記録には原因を残したが、航はその報告を出さなかった。入金も予定どおりだった。

出張から戻った修司にも、不具合と修正の内容は伝えた。顧客への報告はこちらで進めている、と航は付け加えた。修司は、対外的な説明を航が引き受け、技術は自分たちが確かめるいつもの分担だと受け取った。

通帳の数字を見て、航は初めて、春には選ばなかった方法で今月を越えたのだと知った。

四月と違って、守りたいものが増えていた。

その説明を、自分だけには何度もした。

＊

更新が入る前、川沿いの拠点で、一つの配送先へ渡した箱が足りなくなった。

配送事務員の佐伯は、自分が入力した数を画面で確かめた。正しい数が残っていた。印刷した表だけが違っていた。もう一度数えたことも、変更した時刻も覚えていた。

「保存したつもりになっていたんじゃないか」

最初に聞かれたのは、その言葉だった。佐伯は違うと答えた。だが航から届いた確認のお願いには、入力後の確認を徹底してほしいとある。仕組みが、正しく入れた数を古い数へ戻すことは書かれていなかった。

足りない箱を運ぶ別便の準備に入り、佐伯も通常の仕事を続けた。出荷を遅らせた事情を書いてから帰るように言われたのは、夕方だった。

その夜は、友人と夕飯を食べる約束があった。店の予約を遅くしてもらえないか電話し、間に合わないと分かってから断った。友人は次にしようと言った。次の約束を決めるための気持ちは、そのとき残っていなかった。

経緯書の最初の文へ、数量は二度確認した、と書いた。表へ残った数が違う以上、確認が足りなかったのだと返された。

佐伯は画面をもう一度見せた。これだけでは、いつどの操作をしたか全部は分からない。会社へ調査を頼むとしても、今日は今日の経緯を出してほしいと言われた。

今後は確認を徹底します。

最後の欄へそう書くと、提出できた。確認したことを説明するために残った夜が、確認しなかった人の反省に変わった。

家では、遅い食事を温める間も、その一文を思い出した。自分の説明に自信があったはずなのに、何を見たか、どこで間違えたかをもう一度頭の中で並べた。仕事の外でも同じ確認をしていることが嫌だった。

翌日も、佐伯は同じ席へ来た。配送表を出す前に、隣の人へ数字を見てもらうようになった。必要なことならする。けれど、次に自分が合っていると言っても、一人の判断としては聞いてもらえないのかと思った。

佐伯は主任の西尾へ、経緯書だけで終わらせず、画面と表の違いを会社に聞いてほしいと頼んだ。

「私が二度数えたことまで、なかったことにしないでください」

西尾は印刷した表を取っておくと答えた。翌日の更新では数字が一致した。その一致が、前の日の佐伯の確認を証明するわけではなかった。

＊

航が通帳を見ていた週、佐伯は同じ仕事を続けていた。航の手元には、入金と、翌晩に終えた技術修正の記録があった。客先で別便を出した人が経緯書まで書いたことは、まだ知らなかった。

その週、真帆の講習が始まった。

土曜の朝、航は駅まで送ると約束した。金曜の夜に会社へ泊まり、気づいたときには彼女の電車は出ていた。

前夜、真帆は紙の包みと着替えを別々の袋へ入れた。駅へ送ってもらえるなら、雨に濡らしたくない箱も持っていけた。航から帰ると連絡が来ないので、寝る前に電話をした。留守番電話へ、出る時間をもう一度残した。

朝、自分でタクシーを呼ぶか、箱を置いていくか選んだ。講習へ持っていきたかった試料は写真だけにした。会社で必要なことがあるのだろうと思った。その理由が分かることと、自分の準備が変わることは別だった。

駅への道を一人で歩いた。先に出るね、と送り、電車へ乗った。今ここで怒りを長く書けば、講習が始まるまで携帯電話を見続けることになる。初めて習う仕事のほうを、今日の自分の予定に残したかった。

＊

土曜、会社で目を覚ました航の携帯電話には、先に出るね、という短い連絡だけがあった。

日曜の夕方、航は早く帰った。

何か作ろうと思い、冷蔵庫を開けた。知らない保存容器が二つあった。日付と、真帆の名前が書いてあった。

「それ、火曜日のお昼」

真帆が洗濯物を取り込みながら言った。

航は蓋を閉じた。

「今日、飯どうする？」

「向こうで食べてきた。講習の人と」

「そうか」

台所には、航の分がなかった。

いつからそうなったのか、考えても分からなかった。自分が帰らない日が多かったのだから当然だった。だが、当然というだけでは片付かない気持ちがあった。

「言ってくれれば」

真帆は、畳んでいたシャツを置いた。

「水曜日に言ったよ。日曜は夕飯いらないって」

航は覚えていなかった。

真帆は鞄から包みを出した。古い紙を漉き直して作った、試験用の小さな紙片だった。光へ透かすと、細い繊維が見えた。

「これ、できたんだ」

航は、きれいだと言った。

真帆はもう少し説明しようとした。その途中で航の電話が鳴った。

彼は画面を見た。

見るだけだった。それでも真帆は話をやめた。

「出れば」

「いや、大丈夫」

「出たほうが、落ち着くんでしょう」

そのとおりだった。

航は、今月が終われば少し余裕ができると言った。

真帆は頷かなかった。

「来月の私も、今月の私と同じところで待ってると思ってる？」

「終われば、一緒にできることが増える」

航は言った。

「そのために、今は」

真帆は紙の包みの端を揃えた。

「昨日の電車は、もう出たよ。今、できた紙を見せてるんだよ」

声が詰まり、彼女はしばらく下を向いた。航は初めて、自分が話している来月の中には、昨日の彼女も、今夜の紙も入っていないと気づいた。

携帯電話は鳴りやんだ。

航は、もう一度紙を見せてもらおうとした。真帆は包み直しているところだった。

「今日は疲れたから。またにする」

また、という言葉が残った。

自分はその言葉を、いくらでも使ってきた。

翌週、真帆は講習先で知り合った人から、工房の空いた机を半年借りる提案を受けた。月の半分を向こうで過ごす。いまの仕事を続けながら、古文書の修復を一件任せてもらえる。

彼女は、自分で条件を確かめ、自分で返事をした。

航には、決まってから知らせた。

怒る資格がないと思った。

そのあと、資格がなければ寂しがることもできないのかと考えた。

だが真帆に言えたのは、向こうの家賃はいくらなのか、ということだけだった。

真帆は、修復の仕事から少しずつ残した金で払うと答えた。三十五歳になって、ようやく自分で使い方を決められる机ができるのだという。

航は、会社へ少し回してもらえれば、と考えた。返せる日をまだ言えないことは、黙っていてもよい気がした。

真帆が家賃を書いた紙を畳んだ。百舎の表では見たことのない支払先が並んでいた。

航は、よかったな、と言った。金の話は頼まなかった。ただ、その金を自分の会社の都合で数えたことは、彼女に言わないまま残った。

## 第八章｜十一月三十日

十一月に入ったとき、澪の引継ぎ表には、項目が二十三あった。最終出勤日は十一月三十日のつもりで、澪は準備を進めていた。

同じころ、川沿いの配送拠点で事務の主任をしている西尾から、先月分の確認を求める連絡が来た。十月に一度、配送先へ渡した箱が足りず、別の便を出していた。担当者が数字を写し間違えたとして、本人に経緯を書かせたという。ところが画面には、担当者が直した数が残っていた。

「その方が、二度数えたと言うんです。表のほうを見てもらえますか」

航は、確認します、と答えた。

電話のあとで、岡野の報告書を開いた。起こる条件が一致していた。直ったのだから、もう被害は増えない。それと、既に誰かへ被せてしまった間違いの話は別だった。

西尾から、担当者の書いた経緯書と、その日に出した配送表が届いた。担当者の名は佐伯だった。今後は確認を徹底しますという最後の行を、航は二度読んだ。

佐伯が確認しなかったからではない。それを説明する技術の記録は、すぐ取り出せた。

航は返信へ、数量の更新が表に反映されない不具合がありました、と書いた。書くと、自分が知っていた日も入れなければならなくなる。十一月に見つけた話ではなかった。十月に知らせず、現場の確認だけを求めたことまで伝わる。

西尾へ電話するなら、今だった。名前も番号も、画面に出ている。訂正が遅れても、佐伯が書かされたものを残したままにするよりよかった。

航は書いた原因の一行を消した。

航は西尾へ、該当する記録を調べています、と返した。調べるためのファイルは、もう目の前にあった。

翌日、西尾から、調べる日数の目安だけでも教えてほしいと返ってきた。佐伯の説明を聞きながら、主任としてどう扱うか決められずにいるという。

航は今週中という文字を打ち、消した。期限ができれば、その日に返さなければならない。確認したら連絡します、と送った。

返事を一つ出したことで、受信箱の未処理は減った。先方が待つ日は、増えた。

岡野に報告はどうなったかと聞かれ、先方と話している、と答えた。問い合わせの返事をしたというだけの事実で、問題を説明しているように聞こえる言葉を作った。岡野には、西尾からの経緯書の相談まで転送していなかった。

出すべき報告と、澪に返すべき確認。その二つを、忙しいという同じ欄へ入れた。

翌週、二十七になった。

作業を終えれば、新しい質問が出る。新しい質問に答えれば、別の資料が要る。会社の仕事は終わらないのだから、引継ぎも終わらなかった。

澪は机で昼食を取るようになった。地図を作っていた大きな台には、手順書が積まれた。

小池へ説明をする時間を確保すると、その分、島の引越し業者へ電話する時間がなくなった。昼休みに電話をかけ、切ってから残りの弁当を食べた。夕方には、会社の手順を書き終えてから、展示の仲間へ自分の地図の説明を送った。

同じ一日を、二つの仕事に分ければよいと思っていた。航から返ってくるはずの確認を待つ時間だけは、どちらに入れればいいか分からなかった。

修司は引継ぎ表を一度全部読み、十五の項目に自分の名前を書いた。

航は書類を戻した。

「お前も忙しいだろ」

「本人しかできないことは、もうそんなにない」

「顧客から、あの人にいてほしかったと言われたら？」

「そう言われるくらい、いい仕事したってことだろう」

航は修司を見た。

修司は、どこか苛立っているようだった。そのことに航も苛立った。会社を残すために、二人でどれだけの相談をしたか。辞めたあとのことを考えるのも、いまは自分たちの仕事なのだ。

「澪には、ちゃんと分かって出ていってほしいんだ」

「何を」

航は答えるまでに時間がかかった。

「ここにいた意味だよ」

修司は、手順書から顔を上げなかった。

「それは、引継ぎ表には書けない」

その晩、澪が改めて書面を持ってきた。

十一月三十日を最終出勤日とする。担当を移す日は顧客と相談する。残る確認については、個別に引受人を決める。

最後に、会社への感謝が二行あった。

航はその二行を、いちばん長く見た。

「修司に相談した？」

澪は頷いた。

「先に俺に言えばいいのに」

「最初に、社長に言いました」

静かな声だった。

航は、彼女の手帳を思い出した。新しい合板の匂い。窓の外の警告音。

一か月以上前だった。

「……そうだったな」

書面を受け取った。

受け取っても、気持ちは従わなかった。

澪が実績として見せたいと言っていた、「環」の倉庫で使う手順表。社外に見せてよい範囲について、顧客から許可の返事は来ていた。あとは澪の用意した見本がその範囲に収まっているか、航が確認して本人へ返す段取りだった。航の受信箱の中で、その確認欄だけが空白だった。

彼はそのメールを開いた。

忙しいから、明日にする。

そう思った瞬間、自分が忙しくなくても明日にしただろうと分かった。

指が動かなかった。

初めて、誰かを待たせている時間に、力があることを知った。

次の朝、澪は、資料館へ渡す仕事の紹介には、倉庫の手順表を載せないことにしました、と言った。

「住田さん、あの日の展示を見てくださっていたので」

代わりに、夏に自分で作った地図と、そこで試したことを話すという。待っていた確認が来なくても、着任の準備は進められた。

その夜、澪は帰宅してから紹介文を作り直した。会社で作った手順表の代わりに、地図の写真を撮り直し、どこで人が迷い、どこを変えたか書いた。百舎の仕事で身につけたことがなくなったのではない。それを自分の経歴として見せるための返事を、求めた日に受け取れなかった。

翌朝、澪は送付済みの紹介文を航へ見せた。

「確認が来たら、別に残しておきます。でも今回の準備には、もう使いません」

何も許可されなくても働けることを、言い返すためだけに示したのではなかった。十一月三十日までに荷物を運び、十二月から働くために、自分で決めた。

航が持っていると思っていた鍵は、もう使われなかった。

それが悔しかった。

悔しいことのほうが、恥ずかしかった。

## 第九章｜あの夜を消す

修司の退職の話は、その一週間後に出た。

澪と申し合わせたわけではなかった。

十二拠点の移行が済む十二月末まで働く。年明けからは職業訓練所の実習を、週の半分担当する。残りは近所の工場の保守を請ける。収入は減るが、ここで取っている役割からは離れたい。

航は紙を見た。

修司が自分の人生を表にしたのを、初めて見た。

「休めばいい。二週間でも、一か月でも」

「休みたいだけじゃない」

「じゃあ、何が気に入らない」

修司は、長く息を吐いた。

その日の夕方、航は顧客との打ち合わせで、修司が翌年度の各拠点の研修も担当すると話していた。正式な約束ではない。だが、向こうは予定を取り始めていた。

「俺が受けるか、聞かなかったな」

「できると思ったからだよ」

「できるよ」

修司はすぐに答えた。

「できるけど、引き受けるかどうかは、俺にも決めさせてくれ」

二人の間で、濃い青の湯呑みから湯気が上がっていた。

航は、修司の言いたいことが分かった。分かったので、別のことを言った。

「十二拠点を取ろうって言ったのは、お前もだろ」

「そうだよ。だから年末までやる。そのために二人採った。教えてる。途中で投げる話じゃない」

「この先のために採ったんだ」

「この先も、俺がずっといる前提だったんだな」

航は立ち上がった。

隣室を借りたときも、採用したときも、全部ここにいる人たちのためだった。自分だけのものを欲しがったわけではない。そう説明しようとした。

けれど修司はもう、その説明を知っている顔をしていた。

「お前まで出ていったら、俺は何のためにここを作ったんだよ」

修司は顔を上げた。

「俺は、ここで四年働いた」

「知ってる」

「知ってるなら、これから行く場所があることくらい」

「分かったよ」

航は遮った。

その先を聞けば、自分は頷かなければならないと思った。

前の会社から、と言おうとして、航は一度息を吸った。そこでやめられた。俺は寂しいと言うだけなら、修司がここで働いた四年間を取り上げずに済んだ。現場へ行った日も、自分が客へ出ている間に問い合わせへ答えた日も、二人で決めた会社の名前も、航は知っていた。

知っていることを脇へ置き、修司の目を見た。

「お前は、あの会社から逃げたかっただけなんだな。俺とここを作りたかったわけじゃなかった」

言葉が、机の上へ落ちた。

修司は湯呑みを持ち上げた。飲まずに置いた。

航は、もっと怒ると思っていた。椅子を蹴るか、声を上げるか。そうしてくれれば、言い過ぎた、と言えた。

修司は領収書を探すように、机の端を一度見た。

そこには、何もなかった。

「……そういうことに、できるのか」

そこまで言って、一度黙った。

修司はもう一度何か言いかけ、口を閉じた。湯呑みの横へ手を置いたが、指が落ち着かなかった。

「俺が教えたことも、作ったものも、分かってるだろ。給料をもらって、役割を持って、ここで働いたんだよ」

航は、そんな意味ではないと言った。

「そういう意味で言ったんだろ」

声が強くなり、修司は隣室へ目を向けた。まだ阿部と小池がいる。聞かせたい話ではなかった。

「戻りたくない会社だった。でも、それだけなら、ここで四年も作らない。俺がここでやったことまで、お前の言うとおりにしないと認めてもらえないのか」

航は答えられなかった。自分がどれだけ助けたかを数えれば、修司が働いた時間をまた小さくする。

修司は次の仕事の表を折った。

「引継ぎはする。年末までの仕事もする。その話と、今言われたことは、一緒にしないでくれ」

その夜、修司は引継ぎの資料を持って帰った。廊下から戻ってきて、忘れていた上着を取った。

二度目に出ていくときも、航は止めなかった。

＊

帰宅した修司は、鞄から引継ぎの資料を出した。

訓練所で使う実習の見本と、工場の保守へ持っていく道具の一覧が、その下にあった。どちらも百舎の仕事を投げるために決めたものではない。週の半分を教える仕事に使い、残りの日で必要な収入を作る。それなら、夕方に終わる日を自分で決められる。

前の会社を逃げたかっただけだと言われても、その予定が間違いになるわけではなかった。

修司は来年の収入を計算し直した。百舎の給与より減る。買い足すつもりだった工具を、一つ後へ回した。自分で選んだ費用だった。だからといって、創業の仕事をなかったことにされて平気なわけではない。

最初の客のために二人で組んだ画面を思い出した。航が説明し、自分が横で直した。階下の機械が止まったあと、ここは静かだなと二人で言った夜もあった。

一度だけ、航へ電話しかけた。今言ったことは本当なのかと、もう一度聞きたかった。

画面を閉じた。会社の仕事を終えて帰ったあとも、自分がここを作りたかった人間だと証明しに行くのは、今日したいことではなかった。

引継ぎの資料へ、阿部が迷っていた設定を一つ書き足した。阿部が一人で困ることと、航へ何も言いたくないことは別だった。

食事を温め直し、次の実習の準備をした。新しい仕事の楽しみまで、今夜の言葉へ渡したくなかった。

＊

翌朝、修司はいつもの時間に来た。

九月に入った阿部が、次の拠点に合わせて画面を直していた。修司はそれを見て、ひとつ質問をした。阿部が答えると、よく考えたな、と言った。

航には、仕事の話しかしなかった。

その週、澪が最後の手順書を渡した。航は実績掲載の確認も返した。遅くなった、と付け加えた。

確認済みという一語だけで済ませず、顧客が許可した範囲と、澪の用意した見本がその範囲に入っていることを書いた。返事の送付日も残した。まだ善いことをしたつもりになりたかったが、彼女が必要な日に返さなかった事実は、同じ文書の日付に残った。

澪は受け取り、ありがとうございました、と言った。

その言葉は丁寧だった。

昔よりも丁寧だった。

澪は小池に、説明する順番と、現場でよく聞かれる質問を書いた手順書を渡した。阿部とは画面の直し方を確かめた。二人だけではまだ判断できない部分は、修司が十二月の移行と一緒に引き受ける。澪がその翌月も同じ席にいなければ回らない、という状態にはせずに、最後の日を迎えた。

十一月三十日、澪は皆と写真を撮った。

岡野がタイマーを設定し、間に合わずに半分だけ写った。撮り直すと、今度は理恵が目をつぶっていた。三枚目で、ようやく全員が入った。

航も笑った。

澪は階段の下で振り向き、もう一度お辞儀をした。

新しい町の住所を、会社の連絡先一覧に残していった。

私用の欄だった。

航はそこを、しばらく開けなかった。

## 第十章｜乾杯のあと

十二月、追加の九拠点も正式に動き始め、発注元と導入の確認を終えた。これで「環」を使う現場は十二拠点になった。稼働後の様子を見る訪問は残っていたが、新しい仕組みで日々の出荷を進める段階には入っていた。

その仕事を祝う会には、十二人が集まった。

社員だけでなく、外で手伝ってくれた人と、顧客の担当者も来た。店の長い机には、人数分のグラスが並んだ。

航は、椅子が一つ余っているような気がした。

数えると、余っていなかった。

澪の分は、最初から予約していない。修司は、稼働後の確認で最後の一拠点を訪ねてから来ることになっていた。

黒崎が立って、百舎の仕事を褒めた。

最初に三拠点。その後十二拠点。前の拠点から届いた行き先と数量を、そのまま次の拠点で使えるようになった。表を一から打ち直したり、変更の電話を待ったりする時間が減った。予定された範囲を納めたという報告にも、現場が助かったという声にも、架空の成果は一つもなかった。

西尾からの問い合わせは、まだ閉じていなかった。今夜の完成報告に書かれなかった十月の一件を、航だけがグラスの向こうに置いていた。

小池は、自分が担当した箇所の話になると、隣の阿部の腕をつついた。阿部は、うん、うん、と大きく頷いた。

二人とも、春の危機を知らなかった。

ここは彼らにとって、初めて自分の仕事が客の前で褒められた会社だった。

航はそれを嬉しいと思った。

同時に、今夜そのことを修司と話せないのが寂しかった。

航の挨拶の番になった。

礼を言い、苦労を話し、来年の計画に触れた。

「ここなら、みんなが自分の居場所を持てる。そういう会社にしていきたいと思っています」

拍手が起こった。

小池はまっすぐ拍手をした。

航は、その信頼を受け取るのが怖かった。

店を出たとき、修司から連絡があった。現場の確認が延びた。終わったが、今日は帰る。

お疲れ、と打った。

続けて、今度ゆっくり、と打ち、消した。

黒崎が隣に来た。

「少し歩くか」

駅までの道で、全国展開の話をした。

発注元は、地方の十二拠点で使い始めた「環」を、全国の拠点でも使いたいと考えていた。そのたびに一から作り直すのでなく、共通で使う部分を整えて、全国の情報をつなぐ。百舎の仕事は、その土台にしたいと言われるほど評価されていた。

九拠点を追加したときは、百舎がいまいる人に二人を加え、自分たちで現地へ通った。次は同じやり方で回れる数ではない。黒崎の会社が各地の導入担当や専門の技術者を集め、発注元と工程ごとの前払いを交渉する。百舎は仕組みの設計と導入を担い、航には、その責任者として三年残ってほしいという提案だった。新しく株を買ってもらう話とは別で、黒崎がいま持つ二割はそのまま残る。

各地の要望をどこまで共通の仕組みに入れるか。新たな導入と、既に動いている拠点の手直しを、どの順番で進めるか。現場を回る人数が増えても、その判断はなくならない。航は各地の担当者と計画を決め、人を配置し、発注元と変更を話し合い続けることになる。

一方で、採用や開発の費用を、次の入金まで百舎だけで抱えなくて済む。岡野が手をつけたがっていた共通部分の作り直しにも、人と時間を割ける。現場から頼まれるたびに小さく直してきた仕事を、十分な体制で作り育てられる話でもあった。

「資金のことだけ考えれば、今よりずっと楽になる」

黒崎はそう言った。航にも、それは分かった。

「修司が辞めるんです」

黒崎に話すのは、初めてだった。

黒崎は、そうか、と答えた。

「成瀬さんもだったな」

「二人がいて、ここまで来たので」

「ここまで来たから、二人にも次があるんだろう」

航は立ち止まった。

黒崎にそのことを言われると思っていなかった。

「それでも会社は続く。君の責任も続く。立ち止まっていたら、今いる人間まで困る」

黒崎は自分の携帯電話を見た。着信はなかった。時刻を確かめただけだった。

「私も、最初の相棒は残らなかった」

「後悔してますか」

黒崎はしばらく考えた。

「しても給料は払えん」

答えになっていなかった。

だが、航はその答えに助けられたくなった。

全国へ進めば、いままで払ったものが大きな仕事のための代償になる。二人を失ったのも、孤独になったのも、そこへたどり着くために必要だったと言える。

そう考えると、歩き出せた。

駅の前で、黒崎は契約案を送ると言った。

「君ならできる」

航は、その言葉を欲しかった。

欲しいということが、もう、少し恐ろしかった。

## 第十一章｜何も起きない夜

十二月の残りの日々で、修司は「環」の引継ぎを終えた。プログラムと不具合の調べ方は岡野へ、拠点ごとの設定と現場での確認は阿部へ渡した。小池は問い合わせを受け、説明だけで済むものと、技術担当へ回すものを整理する。客と作業の範囲や日程を決める役目は、航が持つ。

分担表に名前を書いただけで、同じ速さでできるようになるわけではなかった。修司が受けていた連絡を、残る人が実際に受けてみる期間を設けた。航が修司に相談せず約束しかけた来年の研修も、退職することを先方へ伝え、百舎でできる内容と日程を相談し直した。

十二月二十七日、仕事納めの日に、修司は湯呑みを新聞紙で包んだ。

航はそれを見ないように、机の書類をそろえた。

小池と阿部が、一緒に何か贈りたいと言った。修司は、工具箱に貼る変なステッカーがいいと答えた。二人は本当に探してきた。目つきの悪い猫が、工具を持っている絵だった。

修司はその場で貼った。

彼の次の暮らしに、百舎で働いた人が贈ったものが一つ加わった。

航は、見送りの挨拶をした。

用意した言葉は最後まで言えた。

本当に言わなければならないことは、一つも入っていなかった。

皆が帰ってから、航は修司の机を開けた。会社の工具を確認するためだった。引出しは空で、底に消しゴムのかすが残っていた。

机の横の棚に、修司が戻した古い帳面があった。創業したころ、買った備品と立て替えた金を二人で書き留めていたものだった。航は手に取り、表紙を開いた。

四年前の領収書が挟まっていた。

百円の湯呑みが三つ。

航の字で、立替、と書いてあった。その横に、修司が、お祝いだから、と小さく書き足していた。

航は紙を置いた。

四年間に払った給料も、受け取った仕事も、ここには書いていない。まだ何も始まっていないころの、ただの祝いだった。

航は、修司を助けた話を何度もしてきた。人を採るとき、取引先に会社を説明するとき。前の会社で疲れ切った仲間と、新しい場所を作りました、と。

その話の中で、修司はいつもベンチに座っていた。

百円の湯呑みを買い、帰りに寄った店で割り箸を一本余計にもらい、航の肩から重い鞄を取ってくれた人のことを、航は話していなかった。

携帯電話を取った。

言い過ぎた。お前が必要なんだ。戻ってきてほしい。

そこまで打った。

読み返すと、今度は言葉を柔らかくして、同じことを頼もうとしていた。

航は全部消した。

その下の受信箱には、西尾へ送っていない返事があった。修司へは消した言葉を、顧客へは出していない言葉を、自分の都合で使っていた。相手が待っている間だけ、自分は決める側にいられた。

航は岡野の元の報告書を印刷し、年明けの予定表に挟んだ。印刷しただけでは、まだ何も相手に届いていなかった。

航は年明けに返す相手を、西尾と書いた。全国の打ち合わせを先に入れ、その合間へ差し込もうとしてやめた。問題が残っていないという紙へ、署名する前に渡さなければならない。

表紙に、原因、自分が知った日、出さなかった報告、と三つ書いた。途中で、説明が足りなかった、と直しそうになった。足りなかったのではなく、届かないようにした。元の語を残し、鞄へ入れた。

年末の休みに、彼は何度も会社へ行った。

誰もいないと、仕事は不思議なくらい進まなかった。問い合わせはほとんど来なかった。顧客も休んでいた。確認のための画面を開いても、動く数字がない。

一度だけ通知が来た。

小池からだった。

胸が軽くなった。助けが要るのだと思った。

写真が添えられていた。帰省先の店で、百舎が作ったものに似た画面を見つけたらしい。自分たちのほうが分かりやすい、と書いてあった。

航は椅子にもたれた。

良い休暇を、と返した。

それで会話は終わった。

自分が少しがっかりしたことを、今度はごまかせなかった。

夕方、印刷所の主人が二階へ上がってきた。

「まだやる？」

航は、何を、と聞き返しそうになった。

「下、電気落とすから。階段のほうだけ残しとく」

「いえ、帰ります」

主人はそれで下りていった。

帰りますと言ったのに、航は十五分動けなかった。

帰った先に、自分を待っている仕事はない。

真帆は講習先の友人と年越しをする。航にも前から伝えていた。彼はその予定を、今回は手帳に書いていた。

誰も困っていない。

それを確かめるために、もう一度受信箱を開きかけた。

開かずに、机の上の帳面を閉じた。

電気を消した。

階段の途中で戻りたくなったが、下りた。

外は、自分がいなくても年末だった。自転車に餅の箱を積んだ人が通り、歩道で子どもが手袋を片方落とした。

航は拾って渡した。

子どもは礼を言い、すぐに走っていった。

それだけだった。

## 第十二章｜署名する手

年明け、航は全国展開の契約案を読んだ。

仕事内容にも、前払いの条件にも、魅力があった。ただ、今回の契約案には、百舎に納品後の問題が残っていないことを確かめる書類も付いていた。

資金は入る。専門の人が増える。百舎の名前も残る。澪と修司が去り、航、理恵、岡野、小池、阿部の五人になった会社が、毎月の残高だけを見て仕事を選ばずに済む可能性があった。

三年間、航は責任者を続ける。

何よりも、その先にいる自分を想像しやすかった。現場へ行き、決め、頼まれ、いなければ困る人間であり続ける。

断った先は、うまく想像できなかった。

その日の午後、航は印刷しておいた岡野の報告書を鞄に入れ、黒崎に会った。十月の不具合と、その後の誤配送を話した。直すだけで済ませるよう勧めた件だと伝えると、黒崎は覚えていた。

「現場から上へ上がる前なら、止められるかもしれん。報告を扱う管理担当に、話のつく人がいる」

「止める、というのは」

「謝礼を払って、この件を審査に載せないよう頼む」

顧客への補償ではなかった。個人へ金を渡し、都合の悪い報告を消してもらう。航が賄賂ですかと聞くと、黒崎は否定しなかった。

「君が今、守ろうとしている人間の給料と比べて考えろ」

航は、守るという言葉を何度も使ってきた。西尾が電話で話した、二度数えたという人の顔は知らなかった。その人の給料を考えたことはなかった。

黒崎は全国の契約案を開いていた。航の名前が責任者の欄にあり、次の三年にも百舎の仕事が並ぶ。年内に実際に作ったものは役に立った。それを土台にすれば、社員の給与と、もっと良い開発の時間が作れる。

隠した報告をこの机だけで終わらせれば、予定はそのまま続く。西尾へは調査を進めたとだけ返せる。佐伯が書いた最後の一行を、今度こそ確定させることになる。

航は鞄から経緯書の写しを出した。佐伯の署名を見た。自分が署名する全国の書類には、納品後の問題が残っていないという欄がある。技術の修正は終わった。けれど、自分が止めた原因の報告と、目の前の経緯書は残っている。

「その謝礼を払えば、私が十月に知っていたことも、審査には出ないんですね」

「そういう話をつけるということだ」

航は確かめてから、紙を閉じた。分からずに聞いたのではなかった。何を買う金なのかを、自分に曖昧にしないために聞いた。

「払いません。原因と、知っていた日を出します」

「直ったものを、わざわざ戻すのか」

「直っていない人がいます」

言ってから、その人を自分の決心のための言葉にしてしまった気がした。航は持ってきた報告書を開いた。言葉を整えるより先に、十一月の電話へ返事をしなければならなかった。

席を立つ前に、西尾へ連絡した。手元で分かった原因と、十月に報告を止めた経緯を説明したい。担当者の経緯書の訂正に必要な資料も持っていく、と伝えた。

「いつから、分かっていたんですか」

西尾の声が低くなった。

「十月の第二週です」

通話の向こうで、人を呼ぶ声がした。西尾は少し待ってくれと言い、別の電話へ出た。航はその間、黒崎のいる机で待った。自分が連絡しなかった二か月も、西尾たちはこうして毎日の出荷を続けていた。

戻ってきた西尾は、水原にも時間を取ってもらうと答えた。航が分かりましたと言うと、もう原因は確認できているんですね、と確認した。

「技術の原因は確認できています。報告が遅れたのは、私が止めたからです」

航は電話でそう言った。送ってしまえば、あとから報告を出す前の状態には戻せないと思っていた。その状態は、自分が長く相手を待たせて得たものだった。

黒崎の前を離れ、会社へ戻ってから元の報告と日付を送った。件名を、追加の説明にしようとしてやめた。十月の報告の訂正、と書いた。送信を押すまで、契約案の責任者の欄が頭に残った。

翌日、発注元の業務責任者である水原と、西尾に時間をもらった。岡野が技術的な経緯を説明し、航は、十月に不具合を知ったこと、自分の判断で事故報告を出さなかったことを伝えた。

水原は、岡野が作った報告書の日付を見た。

「では、報告が上がってこなかったのではないんですね」

「はい。私が止めました」

西尾は、担当者の経緯書を机へ出した。欄の下には、今後は確認を徹底します、と書かれていた。

「本人には、私から説明します。この記録も訂正します。ただ、この人が書いた夜は戻りません」

航は頭を下げた。許すとも、二度と来るなとも言われなかった。追加便の費用、同じ不具合が起きた範囲の確認、顧客が使った調査時間について、百舎が負担する範囲を話し合った。

航は、自分が出した確認のお願いを訂正し、原因と発生期間を、同じ説明を受けた先へ送り直すと言った。西尾は、主任へ送れば現場の全員に伝わったことにはならない、と答えた。

「誰に渡したか、こちらで確かめます。個人の責任のまま残った紙がないかも見ます。その照合の時間まで、なかったことにはできません」

航は頷き、元の文を出した日から説明を受けた人を追うための記録を渡した。佐伯以外にも被害があったかどうかを、自分が決めつけてはならなかった。

「保守を、今ここで別の会社へ移すと、誰が引継ぎをすることになりますか」

水原が尋ねた。新しい会社が十二拠点の設定を調べている間も、毎日の出荷はある。直った仕組みまで取り替えれば、西尾たちはまた二つの表を使うことになる。

「契約期間の仕事は続けてもらいます。ただし、問題の報告は岡野さんからも直接受ける。毎月、現場側と変更の記録を照合する。次の契約を頼むかは、その結果を見て決めます」

航は頷いた。百舎への信頼が元に戻ったからではない。顧客が自分たちの出荷を守るために選んだ、条件のある継続だった。水原は西尾にも、現場で判断に困ったことを自分へ直接知らせるよう頼んだ。

報告を終えると、全国展開の審査は保留になった。借入を避けた十月より、返すべき金と費やす時間が増えた。

＊

その日の午後、西尾は川沿いの拠点で佐伯へ説明した。

画面から配送表へ数量を渡す部分の不具合だった。佐伯が数字を写し間違えたのではない。西尾はそう言い、経緯書の訂正案を机へ置いた。

佐伯は最後まで読み、紙を一度戻した。

「では、私が書いた確認を徹底するというところは、残すんですか」

「元の記録としては残します。原因があなたではないという訂正を、同じ記録に付けます。先に見た人へも渡します」

佐伯は、訂正を見てもらう相手の名前を確かめた。自分へ確認が足りなかったと言った人、別便の手配をした人、経緯書を受け取った人。西尾の名だけで終わらせたくなかった。

「二度確認したと言ったことも、書いてください」

西尾は加えた。佐伯は新しい文を読んでから、内容を確認した日を入れた。古い経緯書への署名を、納得していた証拠にしてほしくないと伝えた。

西尾は、自分が原因を調べる前に確認不足として書かせたことを謝った。佐伯は、次に同じことがあれば先に画面を見てほしい、と答えた。西尾が何度謝ったかではなく、次の仕事で何を確かめてもらえるかが必要だった。

終業前、隣の担当者が、数字を一緒に見ようかと声をかけた。佐伯は今日は自分で確認できると答えた。更新した画面と表を照合し、通常の出荷へ回した。

以前のように何も考えず仕事に戻れたわけではない。それでも、自分の判断で正しい数を渡せる席が戻った。その日の記録には、確認した佐伯の名が、反省ではなく担当者として残った。

取り消した友人との夕飯は、新しい日を決め直した。十月の夜が取り返せたのではない。次の約束まで、自分のせいではない仕事のために失いたくなかった。

＊

その日の帰りの電車で、岡野は外を見ていた。

「初めから出していれば、ここまでは」

航はそこまで言い、やめた。最初から出してほしいと言った相手が、隣にいた。

「止めて、悪かった」

岡野は、次からは技術上の問題を先方へ伝える担当と、金額を相談する担当を分けたいと言った。謝罪の返事ではなく、仕事の条件だった。

航は鞄から手帳を出し、その条件を書いた。

翌朝、事務所で、航は理恵に全国展開の契約を受けない場合の表を頼んだ。

同じ週、航は訂正した報告を、元の説明を送った先へ届けた。西尾から、現場で訂正を読んだ人の確認が返った。佐伯本人へも技術の説明をする機会を、西尾に相談した。本人が望むなら、という条件をつけた。謝る自分を見るために、仕事を止めてもらう権利はなかった。

翌週、佐伯は短い時間でよいと答えた。配送表を出す前の仕事の合間に、航と岡野が会った。

「私、間違ってなかったと言いましたよね」

佐伯は最初に言った。

「はい」

「会社には、間違っていない数が残ってたんですよね」

「残っていました。私たちは原因を知っていました」

佐伯の目が赤くなった。

「じゃあ、あの夜、私がずっと何を確かめてたか、知ってて待たせたんですね」

航は知っていた範囲を分けて答えた。十月に不具合を知った。経緯書を書かされたことは十一月に西尾から聞いた。その時点で原因を伝えれば、二か月待たせずに済んだ。

「今、知ったような顔で謝らないでください」

声が震え、佐伯は一度、口元を押さえた。ここは職場だった。横で別の出荷の話をしている人がいる。

航は、分かりましたと言いかけ、言わずに待った。佐伯が少しして、岡野へ同じ不具合が起きたときの確かめ方を聞いた。岡野は更新の記録と、画面だけで決められないときに照合する表を示した。

佐伯は必要な箇所を手元の紙へ写した。それから航に、訂正の写しは自分にも残す、と言った。

「仕事を続けるから、残しておきます。また忘れたことにされたら、困るので」

航はその紙を渡した。最後に謝った。佐伯は聞いたが、気にしないでくださいとは言わなかった。表を持ち直して、自分の仕事へ戻った。

帰り際、西尾は次の月次確認の日を決めた。航が顧客との関係を失いたくないと思ったとき、そこにはもう、相手が自分の仕事を守るための条件があった。守れば話し合える。許されるかどうかを尋ねるかわりに、その日を手帳へ入れた。

既存の「環」の保守は、水原と決めた報告と月次確認を行いながら契約期間まで続ける。移行時の不具合も直す。十二拠点の最後の入金を受けても、十月の件の補償と調査費用が出ていく。春の借金三百万円も残っていた。

数日後、航は理恵の表を持って黒崎に会った。

黒崎はもう一つの表を出した。岡野の作った自動処理とAIの下書きを使えば、確認や経理にかける人数を減らせるという。阿部と理恵の給与を外した列では、借入を増やさずに済んだ。

仕事を教えるために自動化したものが、教わる人を消す根拠になっていた。二人を残すには、給与を払いながら、確認の手順と仕事の分担を変える費用が要る。

航は阿部の名を見た。九月に入って、手順を覚え始めたばかりだった。明日の入金のために教える日を削れば、まだ一人でできないことが増える。その未熟さを理由にすれば、削る案へ簡単に戻れた。

理恵は、息子の靴を買いに行けた日だけ百舎で生活しているのではない。家賃も学校の費用も、自分の給与から払っている。彼女の行を消せば、入出金の表は軽くなる。次に彼女が作るのは、職探しをしながら暮らす自分の表になる。

それでも、二つの給与がない列は楽だった。新しい借入の利息も、来年から返す元金も増えない。

黒崎は紙を航へ向けた。どちらの表を持って帰っても、選んだのは自分になる。社員へ残ってほしいと頼んだ人間が、今度は辞める理由を効率として説明する。その最初の一行まで、航は思い浮かべた。

ペンで、二人の給与を外した列に線を引いた。

「この二人は辞めさせません。直す費用と、次の入金までの金を貸してください」

言っただけなら、会社で表を直すときに戻せた。航は融資の申込みへ、二人を残す支払い計画を添えた。給与の減った列は、返済できる根拠として使わなかった。

黒崎は春の三百万円の利息が払われているかを確かめ、保守の契約と、小口の受注予定を読んだ。

「追加は二百万円までだ。借入の上限が六百万円でも、残りの百万円をあてにするな」

利率と返済の原則は春と同じだった。借りてから一年は利息だけを払い、その後三年で元金を返す。春の三百万円は今年四月から元金を返し始める。今回の二百万円は翌年一月から返し始める。借入残は、合計五百万円になる。

「融資は受けるのに、私の話は聞かないのか」

航は顔を上げた。

黒崎は、契約を閉じなかった。

「そういう顔をすると思った。利息は払え。会社も潰すな。私もまだ二割を持っている」

金が入っても、黒崎が遠くなるわけではなかった。航は二つの日付を、返済表へ書き込んだ。

追加の契約へ署名した。四月の署名では、仕事を終えれば一つの借金が減る未来を考えた。今度は、自分が報告を止めなければ借りずに済んだ費用も含まれている。返すたびに、自分は良いことをしたと思える金ばかりではなかった。

それでも、阿部と理恵の名を残した表で署名した。二人へ感謝してもらうための紙にはしなかった。

翌朝、事務所では理恵が隣室を返す費用を計算していた。使い始めたばかりの机も、買った額では売れない。

理恵は計算を終えてから、航を見た。

「小さくすれば安くなる、という順番ではないです。先にお金が出ます」

「分かってる」

「あと、社員の給料を下げて成立する案にはしません」

「しなくていい」

理恵はそこで、ようやく続きを話した。

航自身が受け取る役員報酬を減らす。隣室を契約の区切りで返す。作りかけの展示部門は、見込みだけで人を採らない。保守の実際の作業時間を測り、従来の小口の仕事に使える時間を出す。既存の保守料だけで全員の給与と経費が賄えるわけではないから、その空けた時間で別の受注を取る必要がある。

航は自宅でも、減らす報酬と家へ入れる金を分けて真帆へ話した。工房へ払う分を戻してほしいとは頼まなかった。自分の買うものと支払いを変え、決めた生活費を守る表を見せた。

真帆は、二人で使う金は一人で変更しないでほしいと答えた。会社を立て直すために自分の報酬を減らすことと、妻へ負担を移すことは違った。航は家の表も、返事を聞いてから確定した。

会社は明日なくなるわけではない。

しかし一年後を、紙の上だけで約束することもできなかった。

航は皆を集めた。

全国展開を見送る方向で考えている。決める前に、仕事内容がどう変わるかを話したい。皆の同意があれば責任を分けてもらえる、という相談ではない。

岡野はすぐに反対した。

「大きい仕組みを作りたくて来ました。保守だけになるなら、考え直したいです」

航の口から、ここまで一緒に、という言葉が出かかった。

理恵が資料をめくる音がした。

航は、岡野に続きを話してもらった。

「環で、同じことを何度も手直ししてます。その部分をちゃんと作り直したい。全国に広げるからこそ、できると思ってたんです」

それは、百舎を足場にしたいというだけの話ではなかった。

航は初めて、彼が何を面白がっていたのか、十分に聞いた。

「全国の話を捨てることに、賛成したわけではないです」

岡野は言った。

「分かってる」

「でも、直すならここで直したい部分もあります。その時間がなくなるなら、僕は次を探します」

航は、後から忙しいからと減らさないよう、改善に使う半日を予定へ入れた。取れる仕事を一つ断る可能性も、一緒に計算した。岡野が受け取るのは、社長が耳を傾けたという話ではなく、実際に使える時間だった。

一週間かけて、必要な保守と、改善に使える時間を分け直した。岡野が望むことを全部は入れられなかった。彼も、残ると即答はしなかった。

最後に、三か月ごとに仕事内容を見直すことで、春までは続けると言った。

小池は客へ直接説明する仕事を増やしたかった。阿部は、急な予定変更を減らしてほしかった。理恵は水曜日を早く終える勤務を続けたかった。

阿部は、今日は戻れると思った日に、また遠い現場へ行くよう言われるのが困る、と話した。買った食材を使えずに捨てたことも、予約していた用事を取り消したこともあった。顧客へ行く仕事が嫌なのではない。緊急なら行く。その緊急と、予定を決める人の都合を分けてほしい。

理恵は、水曜を守るために前日の夜を毎週遅くする案なら同じだと言った。早い時間に終えたあと、息子と夕飯を食べるつもりでいた。帰ってから帳簿を開く暮らしへ変えたいのではなかった。

航は勤務の表へ、実際に引き受ける人と、間に合わないときに断る相手を書いた。残してやるという言葉だけで、その人の予定が守られるわけではない。

それぞれ違った。

同じ夢を持っているときより、話し合いに時間がかかった。

月末、航は黒崎と会った。

言う前に、岡野が作りたかった共通の仕組みを思い出した。自分も作りたかった。断れば良い人間になれるというだけの仕事ではない。そこへ進むために、西尾の返事と社員の予定をまた後へ置くことは、もうしたくなかった。

黒崎は、審査へ必要な訂正を出したうえで、改めて条件を相談する余地はあると言った。報告したから全国を諦めるしかない、と誰かに決められた話にはならなかった。

航は契約案の頁を開き、三年の欄を読んだ。自分が必要とされ続ける、その想像のしやすい道を置いた。

「今の百舎では、受けません」

全国展開の話を断った。報告を出したことで止まっていた審査を、再開してほしいとは頼まなかった。既存の十二拠点を支える仕事と、違う顧客を少しずつ増やす仕事を、自分たちで続けると伝えた。

断ったことが確認できるよう、全国の契約案を戻した。借入の契約は、同じ鞄に持ったままだった。

黒崎は怒らなかった。理由を聞き、資金の表を見て、既存の契約をどうするか確かめた。

「こちらから誰か回せば、引き受けられるか」

「人数だけの話ではないんです」

黒崎はペンを置いた。

航は、澪に同じような返事をされたことを思い出した。

「失ったものを、あとから成功した理由にしたくなっていました」

口にすると、いくらか格好のよい言い方になった。

航は言い直した。

「修司に、ひどいことを言ったんです。それが、必要なことだったと思えるくらい、先へ行きたかった」

黒崎は黙っていた。

航は、自分の湯呑みを両手で持った。ここには会社の薄い青ではなく、店の白いものがあった。

「既存の仕事は、契約どおりやります。それを終わらせても、あの言葉は取り消せないですけど」

「私が貸した金まで、受け取らなかった話にするなよ」

黒崎に言われ、航は首を振った。

「助けてもらいました。借りた金は返します。株を買い取る金は、まだありません」

黒崎はそれには頷いた。出資の取り決めは変わらない。買い取りの金を航個人で用意し、会社の支払いを守れるようになるまで、この席で話すことは続く。

黒崎は表へ目を落とした。

「この見通しなら、君が別の仕事も取りに行かなきゃならん」

「はい」

「帰れる日ばかりじゃないぞ」

「そうだと思います」

黒崎は、小口の営業先を一つ教えた。付き合いのある会社だが、紹介するのは名前だけだ、と言った。

航は礼を言った。

店を出るとき、黒崎が言った。

「私は、続けるよ」

航は頷いた。

それが全国展開のことだけではない気がしたが、尋ねなかった。

会社へ戻り、航は隣室の解約書類に署名した。

晴れやかな気持ちはなかった。

払わなければならない費用が増えた。電話をかける相手も増えた。皆へ説明したことが本当にできるか、まだ怖かった。

航は署名した書類を封筒へ入れ、解約費用の振込日を手帳に書いた。

その日の給与も、予定どおり振り込まれた。理恵は自分の入金を確かめてから、息子へ帰る時刻を送った。水曜の帰宅を守る仕事の分け方も、翌週の表に残っていた。

阿部は帰りに食材を買った。明日は小池と一緒に予定した現場へ行く。今日の夜から出直す連絡はない。買ったものを、今日の夕飯に使えた。

航はそういう小さな予定を、全員の幸福として代わりに語らなかった。岡野には失った仕事への悔しさがあり、理恵には次の支払いへの心配もある。それぞれが会社の外へ持って帰る一日を、勤務の表で壊さずに済んだ。

## 第十三章｜返さなくていいもの

修司に会う約束は、二月の土曜日にした。

約束をする前に、航は水原へ、顧客への訂正がどこまで届いたか確かめていた。修司が十二拠点で説明した仕組みの原因報告を、航が止めたと知らせるためだった。担当した人の確認不足という話へ変わらないよう、報告を止めた代表の名を残した。

西尾から、経緯書と現場で共有した説明の訂正を照合したと返事が来た。月次の確認で新しく分かったことは、岡野からも直接知らせる。その決め方を、航は修司にも送った。会って許してもらうことを、顧客へ伝える条件にはしなかった。

航は会社へ来てほしいと言わなかった。修司が指定した駅の、改札の外で待った。

先に来た修司は、小さな紙袋を持っていた。

「工具、一本混ざってた」

会社の刻印のあるドライバーだった。

航は受け取り、すぐには鞄へ入れなかった。

喫茶店は混んでいた。向かい合わせではなく、窓に沿った席へ並んで座った。

修司はコーヒーに砂糖を入れた。前は入れなかった。

航はそれだけのことで、この二か月を知らないのだと思った。

「あのとき言ったことを、謝りたい」

修司はカップから手を離した。

「辞めるって言われて、お前がここでしたことまで、なかったことにした。俺が困る終わり方を選んだから」

言葉は、家で何度も考えてきたものだった。

途中で、用意した順番が分からなくなった。

「お前は、ここを作りたかった。俺、知ってたんだ」

窓の外で、バスが止まった。

修司は何も言わなかった。

「知ってて、言った。ごめん」

続けて、十月の不具合を隠した件を話した。修司は年明けに岡野から経緯を聞いていた。移行を急ぎたい気持ちは自分にもあったが、顧客へ何を隠すかを航と決めた覚えはない、と言った。

「俺が現場へ行って、あの仕組みで大丈夫ですって言ったんだぞ」

航は頷いた。

「年明けに原因を聞いたとき、俺が説明した人の顔、順番に思い出したよ。辞めたから知らないで済む話じゃない。でも、知らされてないことを、知ってたようには言えない」

修司は紙袋の端を指で折り、また伸ばした。

工場の保守を始めたばかりだった。新しい客へ、今まで何をしてきたか説明した。百舎の十二拠点も、その実績だった。隠した事情を聞いたあと、自分が正しく説明できる部分と、自分が知らないまま話した部分を分けて考え直したという。

「俺が作ったものは、役に立ったと思ってる。お前が報告を出さなかったことを、その仕事の成果に混ぜないでくれ」

「混ぜない。訂正にも、俺が止めたと書いた」

航は送った文書の写しを出した。提出日と、現場で訂正を確認した日があった。修司は技術の原因より、誰がいつ報告を止めたかを読んだ。

「これを渡したから、あのとき俺が言った大丈夫ですまで、正しくなるわけじゃないからな」

航は頷いた。

修司は紙を自分の鞄へ入れた。次に説明を求められたとき、自分の推測ではなく日付のある文書を示せる。そのために持っていくものだった。

「報告を止めたことは、俺にも言わなかったんだな」

「止められると思った」

修司は返されたドライバーの袋を見た。

「止めるよ。そういうときは」

ようやくそこまで言えた。

修司は長く黙っていた。冷め始めたコーヒーをひと口飲んだ。

「俺も、途中で何回か、言えばよかったと思ってる」

「いや、お前は」

「俺の話だから、聞けよ」

航は口を閉じた。

「十二拠点、面白かったんだ。大変でも、航とならやれると思った。澪にも頼んだし、岡野にも無茶させた。あとから全部お前のせいにはできない」

修司は、指で紙のコースターを少し回した。

「でも、出ていったら、あの四年まで嘘になるとは思わなかった」

航は頷いた。

謝罪が届いたか、聞きたかった。

聞けば、修司に返事をさせることになるので、聞かなかった。

「一緒には、もう働かない」

「訓練所と、工場の仕事が始まってる。百舎の空いたところを埋めるために、そこを空けたくない」

修司は言った。

航は戻ってもらう条件を、一つも出さなかった。役職を変えれば、給与を守れば、週に一度でも来てもらえれば。用意していた案はあった。出せば修司は、今の仕事を選んだ理由をもう一度説明しなければならない。

「分かった」

航はその返事をしてから、しばらく顔を上げられなかった。

航はもう一度、頷いた。

体の中で何かが、小さく沈んだ。

分かっていたつもりでも、つもりでしかなかった。

沈黙のあと、航は訓練所の仕事を尋ねた。

修司は、難しい、と答えた。

何度教えても間違える人がいる。自分がやれば五分で終わる作業を、四十分待つ。待ったからといって、その日にできるようになるとは限らない。

「腹、立たないのか」

「立つよ。立つから、外で水飲んでくる」

修司は少し笑った。

航も笑った。

「前は帰っても、明日の客のことばっかり考えてた。今は、今日できなかった人が次にどうするか考える。考えるのは同じなんだけど、夜に呼ばれる前提じゃなくなった」

修司は来週の実習の話をした。仕事を減らしたから楽なだけではない。収入に合わせて買わないものを決め、工場へ行く日を自分で調整する。それでも、自分が引き受けた仕事で一週間を作れることが気に入っている、と言った。

昔のような笑い方ではなかった。笑ったあとに、何を話していいか迷う時間があった。

帰り際、航は湯呑みのことを思い出した。

「あれ、まだ使ってる？」

「青いの？　使ってる。向こうで」

「そうか」

「縁が欠けたから、そこに口が当たらないように回して」

航は、新しいものを買えばいい、と言いそうになった。

言わなかった。

修司の電車が先だった。改札の向こうで、紙袋を持っていた手を一度上げた。

航は見送った。

戻ってくる人を見るのとは違う見送り方を、まだ、うまくできなかった。

帰りの電車で、返されたドライバーを鞄の底へしまった。

湯呑みの領収書は、会社の古い帳面に挟んだままだった。

## 第十四章｜一人分の夕飯

航が最初に覚えたのは、米を一合だけ炊くときの水加減だった。

二人分を作る癖が抜けず、何度も余らせた。冷凍しておけばいいと真帆に言われ、平たく包むようにした。丸いままだと、温め直しても真ん中が冷たい。

そんなことを、三十六歳で覚えた。

真帆は月の半分を、向こうの工房で過ごしていた。戻る日に駅へ迎えに行くこともあったが、航はその予定を先に尋ねた。

二月のある夜、真帆は九時を過ぎて帰ってきた。

玄関へ入るなり手を洗いたいと言い、鞄を置く前に流しへ行った。糊を使ったまま電車に乗ったのだという。

航は食事を済ませていた。

鍋に残してある、と伝えると、真帆は、ありがとう、と言った。

二人で食卓につき、航はお茶だけを飲んだ。

真帆が講習の写真を見せた。破れた紙を直した跡が、斜めの光でうっすら見えていた。

「跡は消さないんだ」

「なくすと、元の紙との境目が分からなくなるから。あとから別の人が直すとき、困る」

「へえ」

彼女は、使った紙をどう薄くしたか話した。航には半分くらいしか分からなかった。それでも、どの説明のとき彼女が嬉しそうになるかは分かった。

携帯電話が鳴った。

航は一度手を伸ばし、止めた。

真帆はその手を見ていた。

「急ぎじゃないの？」

画面だけ確かめた。翌月の打ち合わせ候補日の連絡だった。

「明日で大丈夫」

それから、紙を漉くときの道具の話に戻った。繊維をすくい上げる簀という道具で、真帆はさっきから、その目の細かさを指で示そうとしていた。

真帆は、さっきと同じところから話さなかった。少し先から始めた。航は分からなくなり、一つ前のことを聞き直した。

彼女は説明し直した。

そのやり取りの途中で、ようやく肩の力が抜けた。

「前に、紙を包んでしまったときも、この話をしたかった？」

航が尋ねると、真帆は少し考えた。

「似た話。でも、あの日は最初に自分で漉けた日だったから」

今日なら道具の説明ができる。その日の驚きを、そのまま今日へ戻すことはできない。航は聞いていなかった話を、後から全部聞けば取り返せると思いかけていた。

「あのとき、見てるつもりで、次の電話を考えてた」

真帆はうんと答えた。

「私が、話をやめたのは分かった？」

「分かった。でも、また聞けばいいと思った」

「そうなると、次に何ができても、まず今話していいかを考えるんだよ。紙のことより先に」

真帆は食べかけの魚へ箸を戻した。航に会社を辞めてほしかったわけではない。自分の仕事を喜ぶ前に、夫へ遠慮する暮らしを続けたくなかった。

航は、次から全部大丈夫だと言いそうになった。言わずに、今日は続きを聞いていいか尋ねた。

「うん。聞きたいなら」

その返事のあとで、真帆は薄くした紙の写真をもう一枚見せた。航は違いが分からず、隣の写真とどこを比べるか聞いた。初めて、彼女が使っている道具を順番に知った。

食後、航が皿を洗っていると、真帆が台所の入口に立った。

「向こうの机、夏まで借りたい」

「うん」

「今の修復、もう少し続くから」

航はスポンジを握り直した。

分かった、とすぐに答えればいい。そう思った。だが、答える前に一度、湯を止めた。

「寂しいとは思う」

真帆は黙っていた。

「でも、こっちへ戻ることを、俺が変わった証拠にはしなくていい」

真帆は少し眉を寄せた。

「証拠にしたこと、ないよ」

「俺が、しそうだった」

航はそれ以上、うまく説明できなかった。

真帆は、そう、と言った。

翌朝、二人は帰宅の予定を卓上の暦へ書いた。真帆のいない日に、航の仕事の予定が入るとは限らない。何も書かれていない日が、いくつかできた。

航はそこを埋めなかった。

空いた日を、妻を待つためだけの日にもしなかった。自分の洗濯をして、食べるものを決め、散歩へ行った。夕方に真帆から写真が届いたら、帰ってくる日を聞くより先に、今日何を直したのか尋ねた。

真帆は仕事の区切りで返した。すぐ返ってこなくても、航は会社の連絡で埋め直さなかった。

会社では、新しい小口の仕事が一つ決まった。

黒崎に教わった会社には断られたが、以前付き合いのあった工具屋から、注文の抜けを減らしたいと相談された。電話で受けた注文のメモが別々の場所に置かれ、どれを手配したか分からなくなるのだという。

受けた注文を一つの一覧へ入力し、手配したものに印をつけて、残った注文を確かめる。百舎はそのための画面を作った。小池が現場を見て説明の手順をまとめ、阿部が設定と動作の確認をした。

航は最初の説明だけ同行した。

帰り道、小池が言った。

「私、さっきの説明、ちょっと間違えました」

「どこ？」

聞くと、まだ手配していない注文が、自動的に一番上へ集まると説明してしまったらしい。引き受けたのは、印の有無で注文を確認できるところまでで、自動で並べ替わる画面にはなっていなかった。

航は、自分が先方へ電話をすれば、と考えた。

「どう直す？」

代わりにそう聞いた。

小池は、今日中に訂正すると答えた。画面の印を順に確かめるか、一覧を印刷して未手配の注文を拾うか。いま使える方法を見せたうえで、自動の並べ替えまで必要なら、別の相談として持ち帰る。

夕方、報告が来た。相手は、まず画面で確認する方法を使うと言った。小池はその手順を阿部にも伝え、説明に使う紙を直した。

航は安堵した。

少しだけ、出番を失った気もした。

その両方の気持ちのまま、ありがとう、と返した。

窓際には隣室から戻した机が二つ置かれていた。一つはまだ引き取り手がなかった。高く買って安く売ることになり、航は運び出すたび後悔した。

過ぎたことを正しいことにはできなかったが、机は少しずつ減った。

二月の水曜、取引先が夕方の打ち合わせを求めてきた。理恵が早く帰る日だった。航は明日の午前なら一緒に数字を見られると答え、その日は自分が確認できる範囲だけを引き受けた。

会社に残っていてくれるのだから、少しくらいという考えが浮かんだ。自分が断れば時間がかかる。その時間を、理恵が家で夕飯を食べる予定へ押し込めることはしなかった。

岡野の改善の半日にも、急がない修正を入れなかった。金曜には直った共通部分を見せてもらい、問い合わせのたびに直していた箇所が一つ減った。守った時間は、作りたい仕事に変わっていた。

## 第十五章｜冬の海を聞く

澪から届いた展示会の案内は、会社宛てだった。

厚い紙に、波の線が一本だけ印刷されていた。裏には、展示が一部公開になりました、と短い字があった。

理恵は目立つところに貼った。岡野は開催期間を確かめた。

航は三月の土曜日に、一人で行った。

会いに行っていいか、事前に連絡した。澪は、その日は受付と案内があるのであまり話せないかもしれません、と返してきた。

航は、展示を見に行きます、と返した。

船を下りると、風が強かった。

港からの道には、小さな案内板があった。坂を上る経路と、距離は長いが段差を避けられる経路が、別々に示されていた。

航は、澪の仕事かと思った。

案内板の端には、作った地元の中学生の名前があった。

資料館は、古い網の倉庫を使っていた。

入口に寄付の箱があった。航は小銭入れから百円玉を出し、箱へ入れた。硬い音がした。

中では、子どもが地図に両手を置いていた。

低い台の上に島の立体地図があり、海の部分には、外せる薄い青の板が重ねてある。子どもが板を一枚外すと、下にあった道の凹凸に触れられた。潮が引いたときだけ渡れる道だった。

子どもは近道を見つけ、隣にいる父親へ教えた。

「帰りには通れないかもね」

父親が板を戻すと、子どもは、じゃあこっち、と指を動かした。

澪は少し離れて見ていた。二人が別の展示へ行ってから、はまりにくくなった板の位置を直した。

航に気づくと、こんにちは、と頭を下げた。

「来たよ」

「遠かったでしょう」

「船、思ったより揺れた」

澪は笑った。

すぐに住田に呼ばれ、受付へ戻った。

航は展示室を一周した。

木工職人が作った模型。漁師が録音した船の音。澪が配置を何度も変えたという案内。作った人の名前が、それぞれの場所に書かれていた。

百舎の名前は、なかった。

航は最後の壁まで見た。

ないことを確かめている自分に気づき、少し恥ずかしくなった。

壁際のヘッドホンを耳へ当てた。

冬の浜の音だった。

最初はただ風が鳴っていた。しばらく聞くと、その奥で、小石が引かれていく細い音がした。波が来て、ほどけて、また来た。

説明には、録音した日付が書いてあった。

十二月二十七日。

航が会社で、修司の引出しを開けていた日だった。

同じ日に、澪はここにいた。

寒い浜で、誰かとマイクを押さえていた。

航の一年の中では、いなくなった人だった。

彼女には、そのあとの日があった。

＊

十二月、澪は着任したばかりの部屋で、下がった給与に合わせた暮らしを始めた。荷物を全部は運ばず、先に必要な紙と道具を机へ置いた。次の週には冬の浜へ行く予定ができた。百舎から持ってきた手順表を実績として紹介する機会は、準備が済んだ最初の打ち合わせでは使わなかった。

後から届いた確認は、必要な記録として残した。自分の仕事が認められていないわけではないと確かめられた。それでも、提出するものを作り直した夜や、昼休みに引越しの電話をした時間が戻るわけではなかった。

今は、住田と別々のやり方を試し、木工職人へ細い道をどう作るか聞きに行ける。給料が下がっても選びたかった仕事は、会社の外で実際の一日になっていた。

＊

三月の展示室で、航はまだヘッドホンを着けていた。

ヘッドホンを外し、もう一度つけた。

今度は日付ではなく、音を聞いた。

閉館前、澪と少しだけ話せた。

「海、夏と違うね」

「違いました？」

澪の顔が明るくなった。

「石の音がした」

「そこ、何回も録り直したんです。風のほうが大きくて。地元の人が、壁の陰で録る場所を教えてくれて」

彼女は手帳を出した。

仕事の相談をするときと同じ手帳だった。濡れて乾いた頁が、少し波打っていた。

「でも、触る地図のほうはまだ迷ってて。ここの道、実際は細いから、そのまま作ると指で追えないんです」

航は、拡大すればいい、と言いかけた。

代わりに、どこで迷っているのか尋ねた。

澪は、形を正しくすることと、歩く人が分かることの違いを話した。

航は聞いた。

途中で住田が来て、備品を運ぶ相談をした。澪はそちらを向いて、明日の朝でいいですか、と返した。

戻ってきたとき、航は立った。

「そろそろ船だから」

「すみません。あまりお構いもできなくて」

「いや。面白かった」

澪は一瞬、返事を探した。

「よかったです」

それから、百舎で教わったことに、今も助けられています、と言った。

航は、ありがとう、と答えた。

その先に続けられる言葉はいくつもあった。いつでも戻ってこい。何かあれば頼れ。ここまで育ってくれて嬉しい。

どれも、半分は本当だった。

航は手帳の地図をもう一度見た。

「あの道、どうするか決まったら、また見たい」

澪は頷いた。

航は、実績紹介の確認を意図して遅らせたことを話した。忙しかったという説明を使わず、出ていくのが寂しく、返事を待っていてほしかったと伝えた。

澪は手帳を閉じずに聞いた。

「待ってるあいだ、私の聞き方が悪かったのかと思いました」

「悪くなかった。俺が返さなかった」

「もう準備をやり直したので、あのときの紹介には使えません。でも確認は残しています。私が作った仕事として、あとで見せられるので」

航は頷いた。彼女が感謝を言ったあとでも、遅らせたことを認める用事は残っていた。感謝を受け取ったことで、返さなくてよかった話にはしなかった。

「今度、社長にお願いすることがあったら、駄目なら駄目と、いつ分かるかは返してください」

「そうする」

澪は手帳へ船の時刻を書き、港へ行く道を確かめた。彼女の明日の仕事は、この話が終わったあとも続く。

帰りの船で、航は窓際に座った。

資料館の灯りは、港からは見えなかった。

見えなくても、今ごろは誰かが片付けている。澪がいて、住田がいて、自分の知らない明日の話をしている。

航は携帯電話を出し、感想を一行だけ送った。

冬の海の音が、まだ耳に残っています。

返事を待たずに、鞄へしまった。

## 終章｜灯りを消したあとで

三月の最後の金曜日、百舎には、引き取り手のなかった机がまだ一つあった。

阿部がその上へ、小さな鉢を置いていた。家で増えすぎたのだという。理恵が、土をこぼさないならいい、と言った。

会社の借金は、なくなっていなかった。元金は五百万円。三百万円の分は来月から元金も返し始める。理恵が作った表には、利息と、顧客への補償の残りと、毎月の給与が別々の行にあった。

今月の給与と支払いは済み、翌月分も口座に残っていた。既存の保守に加えて、小口の仕事が三つ動いていた。全国展開を受けた場合の売上には、遠く届かない。

工具屋の次の相談は、黒崎を通さずに届いた。その小さな契約が続けば、返済に充てられる分が少し増える。黒崎の二割を買い取るための金はまだない。創業時の書類を、理恵は来年も使う棚へ戻した。

航は、その紙の上へ、湯呑みの領収書を重ねなかった。返す金と、返せば済むわけではないものを、同じ封筒には入れられなかった。

岡野は春の間も残ることにした。改善の時間が約束どおり取れたからで、航への恩ではないと言った。

「分かってるよ」

航が答えると、岡野は、念のためです、と言った。

理恵が笑った。

航も笑った。

二月の照合で見つかった小さな設定の違いは、岡野から直接、発注元へ報告されていた。航は費用と日程の相談を引き受け、原因の報告を途中で止めなかった。三月の月次確認では、現場の記録と百舎の変更が一致した。

補償の支払いも、決めた期日で進んでいた。相手へ報告を届け、費用を払い、約束した時間に仕事をする。年明けに言ったことは、三月にも別々の人が確かめられる行為になっていた。

夕方、全員で翌週の予定を確かめた。

月曜の現場には小池と阿部が行く。航は別の見積りを持って客先へ行く。岡野は保守の問い合わせを確認してから、自分の作業を進める。理恵は水曜に早く帰る。

特別な予定ではなかった。

ひとりずつ鞄を持ち、階段を下りていった。

航は最後の湯呑みを洗った。薄い青だった。濃い青のものは、もうここにはない。

机へ戻ると、画面に翌月の売上の見込みが出ていた。

手元に翌月の支払い分があることと、これから先も必要な売上を作れることは、別だった。受注の目標に足りないところはある。相談すれば取れるかもしれない仕事もある。今日のうちに一通送っておこうかと、手が動いた。

真帆と夕飯を食べることになっていた。

航は時計を見た。

間に合う。

それでも、少しだけ座っていた。

誰かから呼ばれれば、帰らずに済む。

そんな気持ちがまだ残っていることを、もう驚かなかった。

画面を閉じ、椅子を戻した。

月曜に使う資料が、机の端に積んであった。

灯りを消した。

道路を渡って、窓を見上げた。

四年前、あの窓が明るいことが嬉しかった。

今夜は暗かった。

航は鍵を鞄へ入れ、駅へ向かった。

途中で、修司から写真が届いた。

訓練所の作業台に、修司の工具箱が載っていた。目つきの悪い猫のステッカーが見えた。その横に、青い湯呑みが置いてある。

今日、一人で最後まで組めた人がいた。

短い文だった。

航は立ち止まって見た。

おめでとう、と打った。

それから、よかったな、と打ち直した。

少し迷って、二つとも送った。

返事は、うん、だけだった。

それで充分な気がした。

スーパーで豆腐と葱を買った。

真帆から、卵も、と連絡が来た。かごへ入れたあと、前にも卵で失敗したなと思い出した。

家へ帰ると、真帆は食卓で紙を広げていた。

航が荷物を置くと、彼女は紙を箱へしまった。

「ただいま」

「おかえり。卵あった？」

「あった」

航は冷蔵庫へ入れ、葱を洗った。

真帆は来月も向こうの工房へ行く。二人の暦には空白がある。一緒に行けなかった海は、そのまま残っている。

今夜は二人で食べる。

鍋が煮えるまで、航は島で聞いた音の話をした。真帆は、あの場所なら冬は寒かっただろうねと言った。

「澪ちゃん、楽しそうだった？」

「うん。難しいって、ずっと言ってた」

真帆は笑った。

卵を割ると、小さな殻が器へ落ちた。

航が箸で取ろうとして、何度も逃がした。真帆が器を受け取り、割った殻の端ですくった。

「こっちのほうが取れるんだ」

「そうなの」

教えてもらって、器を返してもらった。

食べ始めて少ししたとき、携帯電話が鳴った。

取引先の名前だった。

画面には、そのあとすぐ、来週の相談です、というメッセージが届いた。

航は、月曜の午前にお電話します、と短く返した。

少し迷い、それから携帯電話を伏せた。

真帆は食事を続けていた。感心も、拍手も、しなかった。

「豆腐、もうひとつ食べる？」

航は、食べる、と答えた。

鍋の底で、葱が柔らかくなっていた。

誰かにとって特別な日だったのかもしれない。誰かが仕事を終え、誰かが始め、誰かはまだ帰れずにいた。

航には、その全部は分からなかった。

目の前で真帆が、熱い、と言って笑った。

食器を洗い終わると、台所の小窓が少し曇っていた。

航は、明日の分の米を研いだ。
