# すべての灯り

100円タイクーン 小説稿・HELL

選択の重さ・被害・余韻 全面改稿／2026年9月30日。四年目の春、未完了の調査を完了と報告したところから始まる物語です。人物・会社・出来事は創作です。

## 序章｜お祝いだから

湯呑みの底に、小さな値札が残っていた。

相良航は爪で端を起こし、半分だけ剥がした。白い紙が薄い青の釉薬に残った。水につけたほうがいい、と倉田修司が言った。

修司の湯呑みは、三つのうちでいちばん青が濃かった。安いものほど個体差があるのだと、妙に満足そうだった。

「百円でその説明ついてくるの、得だな」

「説明は俺がつけた。追加料金だ」

航は笑い、財布を開いた。修司は手を振った。

「お祝いだから」

印刷所の二階には中古の机が二つあり、組み立てていない棚が壁に立てかけてあった。階下の機械の振動が床を伝ってきた。窓を閉めても止まらなかった。

二人はその振動を気に入った。誰かが下で働いている。自分たちもここで働ける。

百舎という名前は、階下の主人の冗談から決まった。百まで仕事をしたら、あとは数えなくていい。修司が笑い、航がそれを書類に書いた。

百舎は印刷会社ではなかった。客先の注文や出荷を扱う画面を作り、配送表を整え、現場で使えるまで説明する小さな会社だった。航が代表になって仕事の範囲と代金を決め、創業社員の修司が仕組みを組み、導入の責任を持った。修司は株を持たなかった。給料を受け取って働く仲間であることを、二人は設立前に話し合っていた。

夕方、黒崎征一が延長コードを持ってきた。

物流の営業や導入支援をする会社の経営者で、独立前から二人の取引先だった。最初の客を紹介し、さらに個人で二百万円を出資した。百舎は株式会社になり、航が八割、黒崎が二割の株を持った。

黒崎は設立書類の横に、もう一枚置いた。

「いつか私の分を買いたくなったら、これで計算する。最初の二百に、利益に応じた分を足す。上限は四百だ」

返す期日のある借金ではない。黒崎が持分を保つあいだは、株主として会社の成果を受け取る。航が文書の条件を満たして買い取るなら、黒崎の気分で引き止めることもできない。新株を出したり会社を売ったりするには双方の合意がいるが、普段の受注や採用を決めるのは航だった。

「二割持ってるからって、君の椅子に座るつもりはない」

黒崎はそう言い、壁の差込口が二つしかないのを見て、鞄からもう一本コードを出した。

「あとで足りなくなる」

「そこまで仕事が来ますかね」

「来させるんだよ」

帰り際、まだ取り付けていない看板の前で、彼は航の肩を叩いた。

「おめでとう。君はこれで、平凡な努力で平凡な幸せを手に入れる権利を失った」

冗談の調子だった。航も笑った。そう言われるだけの場所まで来たのだと思った。前の会社では、自分が休んでも机の上の紙は動いた。ここでは自分の名前で注文を受け、自分の名前で失敗する。

失敗の可能性まで、誇らしかった。

夜、妻の真帆が、本を修復する工房の仕事を終えて来た。百舎の社員でも役員でもなく、会社の借金を保証する約束もしていなかった。二人の机探しにつきあったのは、夫が毎日座る場所を見たかったからだった。

真帆は三つ目の湯呑みを洗い、残った値札に気づくと、濡れた布でこすった。きれいに取れた。

三人は駅前で買った焼きそばを広げた。取り皿になるものがなかった。修司が未使用の伝票を持ってきて、真帆に、油がしみるよ、と言われた。

航は階下へ皿を借りに行った。

上ってくる途中、二階から笑い声がした。ドアを開ける前に、一度足を止めた。

自分がまだ部屋にいないのに、ここはもう良い場所になっていた。

そのことが、嬉しかった。

## 第一章｜動いている画面

四年目の四月、食品卸の配送管理を納めた翌日に、翌月の代金を払えないと連絡が来た。

電話の営業担当は、最初に何度も礼を言った。倉庫の人たちは助かった。本当に良いものを作ってもらった。そのあとで、会社が事業を止めることを告げた。いつ、いくらなら払えるかも答えられないという。

修司が処理を組み、画面と利用者向け手順を担当する成瀬澪が、作業員の使う順に配置を直した。百舎は完成までの給与や交通費を既に払っていた。不具合で検収を拒まれたのではない。納めた仕事の代金が入らなくなるのだった。

航は画面を見た。夜に入力された配送先が、朝の表へ正しく反映されていた。動作を確かめるほど足先が冷えた。

経理と日々の運営を担う高瀬理恵は、入金予定を空白にした。給与と家賃は、その下に残った。ほかの小さな仕事が予定どおり入っても、一か月ほど先から金が足りなかった。

「来週の給与は大丈夫です。その次を考えます」

澪が、自分の賞与はなくてもいいと言った。航は首を振った。誰より先に取り分を減らそうとする、その癖が嫌だった。そういうことをしなくていい場所を作ったつもりだった。

三十六歳の航には、何もないところから会社を始めたときより、失うものの輪郭がよく見えた。三十八歳の修司は電話する支払先を並べ、二十六歳の澪は問い合わせへ返事をしていた。四十四歳の理恵は、息子の学校から来た連絡を伏せて帳簿を開いた。

翌日、五十八歳の黒崎が「環」を持ってきた。

事業を止める食品卸とは別の発注元が、三つの配送拠点をつなごうとしていた。同じ荷物の行き先を別々の表へ写し直し、変更を電話で伝え、夜に紙と画面を合わせ直している。それを一度の入力から引き継げるようにする仕事だった。

黒崎は紹介と条件調整をする。何が必要かを示し、検収して払うのは発注元。百舎は画面と配送表を作り、現地で説明する。試用と正式稼働は別で、動く画面を見せただけでは導入完了にならなかった。

契約案には、正規の着手金、三拠点の調査を完了した際の代金、拠点ごとの正式稼働後の代金が分けてあった。理恵が計算すると、着手金だけでは調査中の資金不足を埋められなかった。

航は修司と発注元へ行き、どの表を誰が最後に持つかを説明した。先方は試作と日程を確かめ、契約を結んだ。正規の着手金で調査を始めても、三拠点の条件がそろう前に、次の支払いが来る見込みだった。

黒崎は二つの紙を出した。

一枚は個人から百舎へ貸す三百万円の案だった。年六％、最初の一年は利息を払い、元金は据え置く。そのあと三年で分けて返す。最大六百万円までは検討できるが、追加には返せる計画が必要だった。創業の出資とは別の契約で、真帆の貯金も保証も入っていなかった。

「環がなくても貸す、とは言えない。だが、この仕事と今ある保守なら返せる。貸す代わりに私の持分を増やせという話でもない」

もう一枚は、調査工程の完了報告だった。

航は三拠点の表に目を落とした。川沿いの倉庫には昼間しか行っていない。南の拠点では夜便と返品の扱いをまだ聞けていなかった。修司の確認表にも、未確認、と赤く残っている。

「来月には終わるんだろう」

黒崎は言った。

「先に調査完了を出せば、その工程の分が入る。借金はしなくて済む」

「終わってないものを、終わったことにするんですか」

「そうだ。あとから追いつかせる」

黒崎は笑わなかった。見込みを書いてよい書類ではないことも、発注元が完了を信じて払うことも、航には分かった。

「三百を借りるほうでも、紹介は取り消さない」

二枚は並んだままだった。

航は借入の紙を持ち、ひと月の利息を指でなぞった。返す金を作るための仕事が、まだ終わっていない仕事の上に乗る。来年の自分にも、再来年の自分にも、その欄が残る。

利息は月に一万五千円だった。払えない金額ではない。元金を返し始めるまで一年ある。航は鞄から理恵の資金表を出し、正規の調査を終える予定の日まで、その金を置いた。来月の給与も家賃も払えた。

「借りれば、未確認のまま出す必要はないんですね」

「ない」

黒崎は即答した。

航は借入案の署名欄へペンを置いた。ここに名を書けば、明日、修司へそのまま説明できる。澪の賞与を断った言葉も、嘘にせずに済む。

だが、最初の客の未入金がもう一度起きたら。来年も別の仕事が止まったら。三百万円は、今日の不運が去っても消えない。黒崎へ支払う日が、先の手帳に何年も続く。

会社を作ったとき、航は給与のために人が頭を下げなくてよい場所にしたかった。自分だけが下げるなら構わないと思っていたはずだった。署名欄を前にすると、その自分だけが、ひどく重かった。

完了報告のほうを引き寄せた。南の夜便という字を見た。夜に品物を受け取る人は、昼の人が確認したと思って表を使うだろう。自分が倉庫の事務員なら、調査済みと書かれた会社へ同じことを聞き直さない。

「試用中は、前の表も使ってもらいます」

「そこは君たちで決めることだ」

黒崎の返事は、二枚のどちらも選ばなかった。前の表を残しても、未完了が完了に変わるわけではない。航は報告の端を押さえた。紙が爪の下でへこんだ。

「今日は持ち帰ります」

そう言える時間があった。黒崎は時計も見なかった。航は借入案を裏返した。

「報告は、俺から出します」

黒崎は、分かった、と言った。

その晩、航は修司へ、調査工程分の請求を進める、と伝えた。修司は顔を上げた。

「南の夜便は、まだ見てない」

「確認は続ける。支払いだけ先に動かす」

「それ、先方にもそう言ったのか」

「まだ」

答えると、修司は自分の確認表を持ってきた。

「借りられるんだろう。俺が一緒に行って、調査の日程も説明する」

責める声ではなかった。そのほうが航にはつらかった。修司は、彼が止まるための理由をまだ増やそうとしていた。

「借りるのは簡単に言える。返すのは、この会社だ」

「この会社には俺もいるよ」

航は確認表を受け取った。修司の字で、聞く相手と時間が書いてあった。未確認の一つ一つに、確かめに行けば答える人がいる。終わっていないのは、彼らの仕事をまだ聞いていないからだった。

「今日は送るな。明日の朝、理恵さんも入れて考えよう」

航は頷かなかった。修司は帰る前に、紙を彼の机へ残した。

一人になると、航は会社の代表名を入れた報告を開いた。三拠点の調査と現場確認を完了した、と書いてあった。その下に、現場条件を確認済みという欄があった。確認していない二つの夜が、その短い文でなくなっていた。

いったん未完了に書き換えた。送付文にも、残る調査の日程を入れた。この文なら修司に見せられる。これで出して、融資の紙へ名を書けばいい。

航は椅子を離れ、流しで水を飲んだ。食器棚に三つの湯呑みが並んでいた。戻って、来月の給与の総額を見た。数字の向こうに、理恵が伏せた学校の連絡と、澪が遠慮した賞与があった。

この一回だけ先に払ってもらう。調査は必ず終える。現場の人に損をさせなければ、最後には同じことになる。

同じではないと、修司の紙は言っていた。航はその紙を画面の横からどけた。

未完了と直した文を消し、完了に戻した。添付する前にもう一度開いた。訂正するなら、まだ一度の操作で済んだ。

航は送付先を確かめ、自分の名を確かめた。修司の名ではなかった。送信のボタンへ指を置いたあとも、手を離せた。

「終わらせるから」

誰もいない部屋で言い、押した。送信済みの時刻が出た。航はそれを見てから、机に残した二枚のうち、借入案だけを鞄へ戻した。

翌週、その工程の代金が入った。新たな借入はなかった。来月の給与と家賃に届き、買うのを止めていた澪の作業用画面も注文できた。

「助かりました」

理恵の声に、航は頷いた。彼女には、代表が承認した完了報告と入金が渡っていた。未確認の表は修司の机に残っていた。

航は二つを重ねなかった。

修司は入金を聞いても、よかったな、とは言わなかった。未確認の表に次の訪問日を書き足した。朝の会社では、いつものように誰かが茶をいれ、問い合わせの電話が鳴った。航のしたことを知っている紙と、知らない人の朝が、同じ机の上で動いていた。

その午後、理恵は息子の学校へ折り返した。澪は届く画面の寸法を測った。金が入ったからできることだった。航はその二人を見て、間違えたという言葉を、必要だったという言葉へ少しだけ寄せた。

真帆と連休に海へ行く約束を、電話で取り消した。彼女が修復した日誌を返す旅で、航は初めてその仕事を見るはずだった。

日誌は海で働いた人がつけたもので、遺族から工房へ預けられていた。真帆は破れた頁をつなぎ、返す前に見てほしいと言っていた。航の隣で写真を見せるだけでは伝わらない紙の厚さを、現地で一緒に触るつもりだった。

航は調査の遅れを取り戻したいと話した。正規に借りていれば社員と分担できた二日を、自分が今すぐ埋めなければならない二日にしていた。

「一日だけでも来られない？」

真帆が聞いた。

「落ち着いてから、ちゃんと行きたい」

今なら宿までの片道だけでも一緒に行けた。航は暦の空いた午後を見ながら、秋にはもっと楽になると続けた。

「私の予約だけ残せるか、宿に聞くね」

航は秋の話をしようとした。真帆は、今は決めなくていいと言った。

連休の朝、真帆は二人分買ってあった駅弁の予約を一つに変えた。日誌を入れた箱を抱えるため、航に持ってもらうはずだった鞄の中身を減らした。ホームへ着いてから、航へ写真を送ろうとしてやめた。返せるようになった本の話が、夫の仕事を待つ話になるのが、その朝は嫌だった。

日誌を受け取った遺族は、読めなくなったと思っていた頁をゆっくり開いた。真帆はその横で、ほどけやすい箇所の扱いを伝えた。航がいなくても彼女の仕事は届いた。一緒に見せたかった相手がいないことは、別に残った。

旅を断った晩、航は給与の完了通知をもう一度見た。

誰かが安心して眠れる夜を、自分が一つ作った。それは本当だった。その夜の下に置いた紙については、誰にも説明しなかった。

## 第二章｜七分早い午後

六月、試作を持っていった川沿いの倉庫で、澪は配送表を裏返した。

裏には翌日の持ち物や、台車の不調が書いてあった。荷物の送り先と、その日の人へ渡したいことは、一枚の紙に載っていた。澪は新しい表へ手書きの余白を残した。

発注元の担当者は、説明の見本と違うと言った。入力を減らすはずなのに、手書きが残っている。

澪が、直します、と言いかけた。航はいったん座りましょうと椅子を引いた。

「同じ情報を写す回数は減っています。ここに書くのは、その日の人に渡したいことです」

彼は自分の説明資料と澪の紙を並べた。事務員をもう一度呼び、何を書くかを聞いた。予定を一時間越えたが、余白は残った。

帰りの車で、澪が、自分の説明が足りなかったと言った。

「見本を作ったのは俺だから。あの余白は、消さなくてよかった」

澪は手帳へ何か書いた。翌週、その頁を見てから一人で説明に立った。航はそれを頼もしく見た。

同じ週、南の拠点で試用中の配送表から、返品の荷物が抜けた。

夜の最終便に間に合わなかった品は、翌朝の通常便へ回してよいものと、冷蔵車で戻すものに分かれていた。百舎の試作には、その区別がなかった。四月に聞けず、五月にも日程が合わなかった項目だった。

従来の表と見比べるはずの試用だったが、昼の担当者は、調査済みの仕組みなら夜便の条件も入っていると思った。二つの表を別々の人が確認し、抜けた荷物を互いに相手が扱ったと考えた。

品物の一部が傷み、運び直しが必要になった。夜勤の須田という事務員が呼び戻され、母親を迎えに行く時間に間に合わなかった。修司は現場で旧表と試作を並べ、その区別がないことを確かめた。

須田は迎えを頼んだ施設へ、事務室の隅から電話をかけていた。あと十五分、が二度続いた。最後は近所の人へ頼み直した。母は一人で長く歩くのが難しく、玄関まで連れていってもらわなければならなかった。

謝る相手を一人増やしたあとで、須田は荷物の番号を読み直した。従来の表には冷蔵で戻す印があり、新しい表にはその印を入れる欄がない。彼女は見落としたのではなく、別の担当が済ませたと思っていた。

「この欄の代わりは、どこですか」

修司へ聞いた。彼が、まだ入っていません、と答えると、須田は唇を噛んだ。

「調べてあるって。夜の分も、調べてあるって聞いたから」

同じことを二度言った。修司は、こちらから説明します、と返した。須田は彼の紙へ、戻した荷物の数と、誰からどの表を受け取ったかを書いた。まず荷物を正しい場所へ戻し、その次に自分の仕事を説明できるようにしたかった。

「こちらの未確認が原因だ。そう書いて出そう」

航は修司の報告を読んだ。その一行を出すと、四月の完了報告が間違いだったと伝わる。調査工程の代金を返す話になるかもしれなかった。

「先に直せないか」

「直す。それと、何が起きたかは別だ」

修司の報告の末尾には、須田の書いた受渡しの順があった。航は、迎えの変更にかかった費用を会社で負担できないかと言った。

「それも聞けばいい。でも、何を直すかの説明を先にしよう」

修司は翌朝、発注元の本部へ一緒に行くと言った。必要なら調査工程の支払いを戻し、その金が足りなければ黒崎に借りる。春に避けた借入は、今も相談できた。

航は資金表を開いた。返還となれば次の給与の余裕がなくなる。理恵に相談し、調査の残りと返品対応の費用を出せば、何を借りるかは決められる。会社がその晩なくなる話ではなかった。

それでも、画面の代金を払ったあとで、理恵へ何と説明するのか。助かりましたと言われた入金を、自分が嘘で得た金だったと話す。澪に新しい画面を返せとは言わずに済むだろう。返せないものは、代表を信じた二人の顔だった。

航は、調査未了の条件が試作に含まれておらず、と書き始めた。自分の承認を一行加えれば、須田の書いた順に説明できた。書くことがないのではなく、書いたあとの自分を見たくなかった。

黒崎へ相談すると、発注元全体への報告を止め、現場の手順の行き違いとして収める案が返ってきた。いま認めれば、追加の仕事の話も止まるだろう、と彼は言った。

「ただ、現場は百舎の不備だと言ってます」

「その説明を採るかどうかは、君が決める」

通話が終わっても、航は消しかけた一行を戻したままにした。修司へ渡せば、翌朝には二人で出せる。須田は今夜も、迎えを人に頼んで働いているかもしれない。その負担を自分の説明で終わらせられる。

画面の下に、追加九拠点の相談という件名が見えた。航は原因の一行を選び、消した。運用上の混乱と入力した。誰が何を知らなかったかを尋ねなければ、読めてしまう文だった。

修司に見せる連絡の宛先から、修司の名を外した。確認を頼めば止められるからだった。航は送る前にそれを知っていた。

航は翌日、発注元の本部へ、試用時の運用上の混乱であり仕組みは修正済み、と報告した。未調査の項目を省き、四月の完了報告には触れなかった。修司に確かめさせず、自分の名で出した。

本部からは修正内容の確認だけが来た。工程代金を戻せという話は出なかった。航は昼までに返答を終え、追加の相談の日程も決めた。最初の嘘は、もう一つの説明を変えるだけで守れた。

現場では須田が手順を守らなかったという扱いになった。彼女は当面、夜勤から外された。主任からその話を聞いた航は、本人の働きぶりに問題があったとは言っていない、と答えた。

夜の手当がなくなると、須田の月の収入は二万数千円減った。母の昼間の介助を頼む分に充てていた金だった。昼の勤務へ変われば、その時間に須田が家にいることもできない。

勤務表を渡された帰り、須田は施設の窓口で、利用する曜日を二つ減らせないか相談した。減らした日は親族に頼み、迎えの時刻を早くする。金を節約するために、人へ頭を下げる回数が増えた。

母は、仕事はもう済んだの、と聞いた。須田は勤務が変わったとだけ答えた。あの表を見た誰かが、仕事の間違いを家まで持ち帰る人を決めた。その人に自分がなったことを、母へ説明したくなかった。

主任との電話では、航の返答のあと、向こうが静かになった。

「それなら、そう伝えてもらえますか」

航は確認すると言った。確認の電話は、かけなかった。

数日後、修正した表を説明するため、航も南の拠点へ行った。須田は昼の事務室にいた。壁の勤務表で彼女の名前だけ、先月とは違う列へ移っていた。

説明が終わると、須田は彼を出口まで追ってきた。手には、事故の経緯を書いた紙があった。

「私が勝手に省いたんじゃないと、会社から言ってください」

航は、仕組みはこちらで直しました、と答えた。

「それは見ました。でも、この紙は変わってないんです」

須田は自分の名前の横を指した。航は、本人に問題があったと言ったわけではないと、主任へしたのと同じ説明をした。

「じゃあ、何で私の勤務が変わるんですか」

声が大きくなり、事務室の中で誰かが顔を上げた。須田は口を閉じてから、低い声で続けた。

「母の世話と合わせて、この時間で働いてたんです。別の時間にすれば同じってことじゃない。給与の紙を見てから、一週間の予定を全部、組み直しました」

航は母の迎えの費用を負担できると話しかけた。須田は首を振った。

「あの日の分だけ払ってもらって、私が間違えたことはそのままですか」

彼女の指が紙をきつく挟んでいた。航は、発注元と話します、と答えた。何を話すかも、いつまでに返すかも決めなかった。

帰りの車で、助手席の修司が言った。

「今の話を、本部へ出せる」

航は前を見たまま、もう少し状況を見たいと答えた。

「何が分かれば出すんだ」

その問いには返事をしなかった。須田から受け取った紙は鞄に入っていた。家へ戻った彼女は翌朝の迎えを頼む電話をした。航は会社へ戻り、予定どおりに進んだ打ち合わせを手帳で消した。同じ日の用事だった。

翌週、須田は新しい勤務で使う弁当箱を出した。夜に食べていたものより小さかった。少し早く昼休みを出て、母の帰宅先へ確認の電話をするためだった。会社の表が直った日を、彼女は自分の問題が終わった日として覚えなかった。

七月、技術担当の岡野蓮が入社した。二十九歳の岡野は、仕組みの最初から最後まで見られる会社を探していた。航、修司、澪、理恵の四人だった職場が五人になった。

岡野は現場の修正と並行して、拠点ごとに違う試用報告をそろえる仕事を見直した。AIが整理する部分と人が原文を見る部分を分け、似た会社名を取り違える欄には確認の印をつけた。澪が試しの画面へ丸い顔を描き、修司が百円ちゃんと呼んだ。

一枚を整理し、元の報告と照合するまで、七分短くなった。

木曜の夕方、十枚を終えても窓の外が明るかった。理恵は定時に片付け、息子の靴を買いに行った。今朝になって、つま先がきついと言われたのだという。

「言われた日に買えるなんて、今日はよくできました」

澪も勤務を終えて退勤を記録した。それから航の許可を取って、空いた机に私物の板を広げた。休日と退勤後に、私費で材料を買って作る個人の地図だった。会社の受注でも、残業でもなかった。

真帆が修復の仕事を通じて知る学芸員、住田を紹介してくれた。島の資料館で、指で道をたどれる展示を作れないか、澪はその人と相談していた。真帆は紹介者で、百舎の営業として話を運んだのではない。

透明な板を動かすと、潮が満ちたときに沈む道が覆われた。

「帰りは、ここ通れないんだ」

「来た道を覚えているだけだと、帰れないんです」

航は机の端に肘を置いた。百舎の仕事ではないものが、ここにある。それを誇らしいと思った。

その晩は早く帰り、オムレツを作った。裏を焦がし、ひっくり返して皿へ載せた。三十五歳の真帆は食べてすぐ気づいた。二人で黒いところを除け、修司が左右違う大きさの長靴を借りた話で笑った。

食後に黒崎から電話が来た。三拠点の評判がよいので、次の相談を早めたいという。

八月、南の返品も含めて試用の問題を直し、三拠点は実際に正式稼働した。発注元が通常の出荷に使えると確認し、導入代金が入った。今度の完了は本当だった。百舎には次の給与と家賃を越える金が残った。

川沿いの主任から、六時に帰れた、と電話があった。帰る頃には閉まっている弁当屋が、今日は開いていた。魚の種類の話を、航は笑って聞いた。

修司が帰る支度をしていた。航は電話の内容を伝えた。修司も笑った。

「南の人にも、それが届くといいな」

航は頷いた。須田に何があったかを確かめる代わりに、三拠点の完了の印を見た。

今度は本当に役に立った。航はそう思った。須田へ出すべき説明も、いつかこの結果と一緒に伝えれば、春の判断まで分かってもらえる気がした。

須田が求めていたのは、会社の成功を聞くことではなかった。彼女の手順違反という一行を変えることだった。航はその紙を開かずに、完了の画面を開き直した。

三つとも、緑だった。

## 第三章｜外へ続く道

八月の正式稼働後、同じ発注元から、九拠点を追加する相談が来た。既存の三か所と合わせて十二。年末までに使い始めたいという。

春の支払いを越えるために、どうしても取らなければならない仕事ではなかった。保守と小口の仕事を続ける案もあった。九拠点へ広げれば、導入代金に加え、その先の保守も増える。人を採り、現場と制作を同じ一人に抱えさせずに済む。

修司も仕事そのものには賛成した。ただ、南の件を正式に直した説明にすることと、現場を見る時間を見積もりから削らないことを求めた。

航は、先方とは話す、と答えた。

航、修司、理恵、岡野は机へ日程と費用を並べた。既存の三拠点を支えながら九拠点を調べるには、二人を増やす必要があった。その給与と教育の時間を含めて見積もり、追加の仕事を受けた。

九月、説明と導入を担当する小池、設定と確認を担当する阿部が入社した。二人は百舎の社員として給与を受け取り、修司と澪の横で現場の条件を覚えた。七人になっても、最初から二人分の仕事が軽くなるわけではなかった。

隣室を借り、地図を片付けずに置ける台も用意した。私物を置いてよいというだけの台だったが、運び込むときに脚へつけた傷まで、航には自分のしたことの証拠に見えた。

その台の前で、澪が十二月から島の資料館で働きたいと言った。

住田や地元の人たちと、触れて分かる展示を作る。二年の雇用契約で、最初の公開は翌春。そのあとも来館者の反応を見て直していく仕事だった。十一月三十日を百舎の最後の日にしたい、と彼女は言った。

「展示なら、ここでも始められる」

航は給料を下げずに部門を作る案を話した。澪は最後まで聞いてから、向こうでやりたい、と答えた。

「ここへ来たから、自分で選べる気がしたんです」

彼女は以前、自分の説明は人を困らせると思っていた。航は慌てず一つずつ見ようと励まし、実際に彼女の紙を顧客の前で守った。その先に澪が選んだ道は、航の台から離れていた。

黒崎は地図の写真を見て、これを会社の提案に入れればいいと言った。

「会社の金で作ったものではありません」

「君が場所を用意した。仕事を早く終えられるようにもした」

それは事実だった。作品の持ち主が変わる理由にはならなかった。

航は写真を使ってよいか、澪に尋ねる文を書いた。会社の仕事とは分けて紹介したい、と添えればよかった。二階で生まれたものが外で認められる。その嬉しさを、そのまま提案にすればよかった。

資料には、百舎の研究開発例という見出しを先につけていた。澪が読めば、違います、と言うだろう。地図を作る部門を任せれば彼女は残るかもしれない、という見込みも、その一言でなくなる。

航は見出しを一度、成瀬澪の個人制作、と直した。写真の中には自分が用意した台があった。その部分だけを見ていると、彼女が離れていくことを、不当に奪われることのように感じた。

「会社がやったことも、あるだろう」

画面へ言った。彼女に言って相談する代わりに、許可を尋ねる文を閉じた。見出しを元に戻し、提出先へ送った。彼女の返事を待つ必要のない資料を、航が選んで作った。

澪は写真の横へ指を置いた。

「私のお金と、休みの日に作ったものです。会社の作品にしないでください」

「まだ売ったわけじゃない。仕事になるなら、君にも払う」

「売る相談を、してないです」

澪は写真の横の、研究開発という字を指でなぞった。

「住田さんには、私が試しに作ったものを見てもらうって話しました。向こうの人も、そのつもりで手伝ってくれてます。会社の仕事なら、私から言い直さなきゃいけないんですか」

「だから、そうなったら条件を」

「そうなってないです。私に聞いてないから」

声が途切れた。澪は息を吸い、航から目をそらさず続けた。

「ここで作ってもいいって言われたとき、嬉しかったです。終わってから自分のこともやっていい会社だって思った。でも、そういう場所を借りたら、作ったものまで出さないといけないんですか」

航は、そんな意味じゃない、と言った。

「じゃあ、戻してください。これを受け取った人にも、会社の作品じゃないって」

その要求なら、今からでも実行できた。提出先へ連絡し、掲載の許可を取っていないと伝えるだけだった。航は、せっかく提案した会社の新しい力を、自分から取り消す文を頭の中で作った。そこで次の打ち合わせの時刻を見た。

航は次の打ち合わせが終わったら差し替えると言った。提出を取り下げれば、会社にはまだない力を見せようとしたことまで伝わる。

澪はその夜、退勤後に板を箱へ入れた。航の許可を得て使ってきた机から、自分の作品を持ち帰った。台だけが残った。

家の机は、透明な板を全部置くには狭かった。澪は床へ布を敷き、道を一本ずつ外して箱に収めた。寝る前に続きを作るつもりだったが、住田へ電話をかけるほうが先になった。

「私のほうから、変な説明が届くかもしれません」

自分のしていないことを、自分の口で説明した。住田は百舎の会社員であることと、地図を作った人であることを分けて聞いてくれた。澪は、ありがとうと言ったあとで、会社でもそうしてほしかった、とこぼした。

その晩は一本も道を足さなかった。航へ知らせるための写真を撮るのもやめた。見せるのが楽しかった場所で、見せたらどこへ使われるかを考えるようになった。

翌朝、澪はいつもどおり百舎の画面を直した。勤務中の仕事を投げ出すつもりはなかった。航が台の前で待っても、退勤後に箱を出すことはなくなった。彼は彼女が島へ行く準備で忙しいのだと思うことにした。

十月、九拠点の準備中に、発注元が過去の試用事故を調べ始めた。

南の返品の損失を、現場の費用として済ませてよいのか。四月に調査済みなのに、六月に初めて条件が追加されたのはなぜか。担当者は二つの日付を並べて尋ねた。

南では須田も、聞き取りの予定を渡された。母の迎えを頼める日を選び、勤務表と、自分が書いた経緯の写しを揃えた。三か月、手順を守らなかった人として働いていた。何が未確認だったのかを、今度は担当者へ直接話せる。

彼女は施設へ、勤務がまた変わるかもしれないので、減らした曜日の空きを教えてください、と電話した。戻れると決まったわけではない。それでも、一人で調整してきた予定を、元へ寄せることを初めて考えられた。

航は黒崎の会社へ行った。黒崎は、調査を受け、代金の返還や補償を相談する道があると先に言った。受注を減らしても会社は残せる。必要なら通常の融資を改めて検討できる。

「もう一つは」

航から聞いた。

黒崎は、調査を取りまとめる先方の幹部が、個人的な金銭の見返りに、この件を本部の審査へ上げない意向を示している、と答えた。正規の検査費ではなかった。誰に頼めばよいかという説明を、航は途中で止めた。

「賄賂を渡して、調査を消すんですね」

「そういう話だ」

航は窓の外を見た。七人の来月の席、隣室、買ったばかりの椅子。まだ仕事を覚えている阿部の声を思い出した。契約を止められたら、誰から事情を話せばよいのか。

黒崎の示した普通の融資には、金を返す日があった。調査に応じれば、返還と補償の額を確かめ、九拠点を小さくしても七人の仕事を探すことになる。航は手帳に、返還額確認、融資相談、と二行書いた。

その下へ、須田、と書いた。六月に渡された紙は、まだ鞄の内側にあった。彼女は調査が進めば、自分の名前の横の一行を直してもらえるかもしれない。

「止めたら、現場の責任という説明が残ります」

航は言った。

「そうなるだろう」

黒崎は否定しなかった。航が知らずに払う話には、してくれなかった。

七人の給与と、一人の手当を比べたくなった。比べていいものではない。調査を受けても直ちに七人全員を切ると決まっていない。それでも、人数を並べると、自分の選ぶ側に重さをつけられた。

「あとで、彼女の分は何とかできますか」

「金を渡すことと、調べなかったことにするのは別だ。今、何を頼むかを決めてくれ」

航はペンを置いた。返還額確認という字は、まだ二重線で消していなかった。そこから始めると言えば、この部屋を出て修司に事情を話せる。須田が聞き取りの日を待っていることも、その予定の中へ戻せる。

「一度、社内へ持ち帰ります」

口の中でその文を作ったあとで、航は、九拠点の納期が止まる期間を考えた。契約を続けるために自分が働くことと、自分のしたことを人に説明することなら、働くほうがずっと楽だった。

「払います」

航は言い直した。

「調査を本部へ上げない話で、進めてください」

何のための金かを、今度は相手の言葉に任せなかった。手帳の二行を消し、九拠点の日程を囲んだ。

会社の金を使う承認も、航がした。理恵は支出の目的を問い、説明どおりの正規の業務が見当たらないと伝えた。航は、自分の判断と責任で行う、と答えた。彼女はその返答を消さずに記録した。

調査は打ち切られた。九拠点の契約は止まらなかった。

理恵はその朝、阿部の研修費を予定どおり払った。小池は現場から帰り、初めて一人で説明を終えたと話した。航は彼女の手順表を見て、よく順番を変えたね、と褒めた。彼女が一瞬困った顔をしてから笑うのを、彼は嬉しく見た。

同じ午後、南の聞き取りは取り消された。

須田は事務室で、手順の整備が済んだので調査の必要はなくなった、と告げられた。用意した紙を出し、手順違反という扱いも変わるのかと聞いた。主任は、本部からそこを変える指示はない、と答えた。

「私には、まだ何も聞いてないですよね」

「決まったことだから」

「何が決まったんですか。表に欄がなかったって、倉田さんも見てくれたんです。私の説明を聞いてから決めてください」

最後の声が震えた。須田はもう一度紙を出したが、主任は受け取っても次に渡す先がないと言った。彼の机には、新しい表で減った作業時間の報告があった。

帰宅してから、須田は施設へ、勤務は変わらないので先ほどの相談は取り消します、と電話した。母の前では、夕飯にするね、と普通の声を出した。流しで米を研いでいる途中、水を止め、縁へ両手をついた。

半年後に戻れるなら、半年の予定を組める。自分の間違いだったと決まるなら、それを言い直さなければならない。説明の機会までなくなった今、いつまでこの暮らしを続けるのか、誰も彼女には答えなかった。

その週末、須田から修司へ連絡が来た。手順違反という扱いを訂正してほしいと願っていたが、調査がなくなったと聞いたという。夜勤に戻れず、手当が減ったままだった。

修司は航に、その話を伝えた。

「君は何を払って、何を止めたんだ」

「会社を止めないためだ」

航は答えた。春には、終わらせるから、と誰もいない部屋へ言った。今は、目の前の修司へ説明できた。

「須田さんのことは、会社を止めなくても話せる」

「全体を見てくれ。一つの現場だけの話じゃない」

修司の顔を見て、航は初めて、その言葉を言った。彼が何を見ていたかを知っている。見たものが足りないことにすれば、自分の判断を動かさずに済んだ。

修司が出ていったあとで、航は新しい拠点の予定を開いた。そこには予定どおりという文字が並んでいた。鞄にある須田の紙は、外側の折り目がほつれ始めていた。何度も出すためではなく、出さないまま持ち歩いているためだった。

その秋、真帆は古文書の修復を学ぶ半年の講習に通い始めた。別の町の工房にも机を借り、自分の依頼者の本をそこで直した。航が百舎の展示部門とつながるかもしれないと言うと、彼女は工具をしまう手を止めた。

「仕事を頼みに来たんじゃないよ。来月どこにいるか、話してるの」

航は予定を聞き直した。聞いているあいだも、空いた台へ何を置けばよいかを考えていた。

## 第四章｜二つの青

十一月、修司の湯呑みの縁に、小さな茶葉がついていた。

航は取ってやろうと思い、そのままにした。机には岡野がまとめたAI導入後の作業時間があった。同じ項目を書き写す時間は減っていた。現場で例外を判断した時間や、新人へ説明した時間は、別の欄だった。

修司はその表を読み、阿部が一人でできるようになった設定へ丸をつけた。

「ここまで覚えた。次は実際の荷物と合わせるところだな」

阿部が、まだ一人では怖いです、と言った。修司は、怖いところが分かってれば聞ける、と答えた。航も頷いた。新人が何も分からないまま、大丈夫ですと言う会社にはしたくなかった。

黒崎が数字を見に来たのは、その日の午後だった。

「高い人件費を固定したままでは、仕事が増えても利益が薄い」

彼は修司の給与の欄へ指を置いた。

「倉田君の記録も、若い二人へ渡った。君自身が客へ出られる。役職を一つ減らせるんじゃないか」

岡野は別の案を出していた。修司を次の拠点の調査と新人育成へ移す。AIで減った作業を人が繰り返す必要はないが、減った時間で、まだ見ていない現場へ行ける。小池と阿部が一人で判断できる範囲も、広げられる。

収支はその案でも黒字だった。解雇すれば、さらに多く残る。

黒崎は二つを並べ、あとは君が決める、と言った。修司を残せば融資や紹介を引き上げる、という話はなかった。

帰ったあと、航は育成の案をもう一度開いた。修司の給与を残し、現地へ行く交通費を入れても、来月の給与は払える。春に入金の空白を見たときとは違った。

隣室では修司が阿部へ、表に載らない返品をどこへ戻すか教えていた。まず、戻す人に聞く。帳簿が合っていても、荷物がそこにあるとは限らない。その声は、航が最初の仕事を取ったころから変わらなかった。

修司が現場で待っているあいだ、航は客と価格を話せた。夜の電話を彼が受けてくれた翌朝、航は新人へ手順を教えられた。今日、自分の仕事が回っている理由を、表から一つずつ拾えば、修司の名は何度でも出てきた。

失うのは一人分の作業だけではない。そんなことは、航にも分かっていた。

それでも給与の欄を消すと、下の利益が増えた。

その金を残せば、新しい開発に手をつけられる。黒崎の持分を買う日にも近づく。誰かの意見を聞いて、自分の会社の形を決める時間を短くできる。

南の報告を出し直せと言われたときの修司の声が、戻ってきた。

修司を調査へ回せば、未確認を必ず見つける。その人間が、秋の調査はなぜ消えたのかと尋ね続ける。航はそれを、有能さと同じ欄に置けなくなっていた。

席を減らす案を印刷し、通知の文面まで作った。まだ修司へは渡していない。岡野の案へ戻し、来年の調査を頼むと言えばよかった。三十分前にも、そうするつもりで修司の予定を見た。

航は紙を裏返した。

自分が払う給与だけでなく、それを受け取る人の来年が変わる。家賃も食費も、この表からは消えない。会社の外に移るだけだ。

手を止めたまま、隣室の説明が終わるのを待った。

「修司、少しいいか」

呼びかけた声は、思ったより普通だった。

修司は阿部の手順表へ最後の一行を書き、来た。向かいの椅子へ座ると、湯呑みを机の内側へ寄せた。二人で次の仕事の日程を話すときと、同じ動作だった。

航は育成案を見せなかった。解雇の案だけを表にして渡した。

「AIで共通の作業を回せるようになった。年内で雇用を終える」

修司は紙を受け取った。辞めたいと言いに来たのではなかった。その朝まで来年の導入のことを考え、日程へ自分の名を入れていた。

一度読み終え、通知の日付へ目を戻した。

「十二月まで、ってことか」

「そうだ」

「俺が今持ってる現場は、どうする」

「引き継いでもらう」

「現場の確認も、百円ちゃんがやるのか」

「岡野君たちに任せる。お前でなくても、できるようにしたい」

修司は紙を置いた。右手だけが、置いたあともそこに残った。

「誰でもできるようにするために、俺が教えてるんだろう。教え終わってないところもある。AIで減ったのは、写す時間だ」

「それは分かってる」

「分かってるなら、なんで同じ紙で辞めさせる話になる」

航は利益率と、今後の体制を説明した。修司は途中で口を挟まずに聞いた。その沈黙で、航は説明が届いていると思いかけた。

「赤字なのか」

修司が尋ねた。

「赤字ではない。先のために、残せるものを残したい」

「だったら、俺を残す先もあるだろう」

航は答えなかった。隣室で阿部が椅子を引いた。修司はそちらを一度見た。

「あの報告を出し直せと言ったからか」

航は効率の話へ戻した。人件費を抑えれば、もっと良い仕組みを作れる。そういう仕組みが、さらに多くの人を早く帰す。

修司は額へ手を当て、短く息を吐いた。

「俺は、残って直すと言ってたんだけどな」

その声に、航は腹が立った。目の前の相手は、自分が守った会社に座り、自分より正しい場所から話せる。春の給与も、追加九拠点の仕事も、守らなければここにはなかった。その全体を見ずに、一枚の報告だけを指してくる。

「お前は、前の会社から逃げたかっただけなんだな。俺とここを作りたかったわけじゃなかった」

前の会社、と言ったところで、修司の顔が変わった。そこでやめられた。疲れて駅のベンチで眠っていた話を、二人のあいだでしか知らない話のままにできた。

航は最後まで言った。

修司は湯呑みを持ち上げ、口をつけずに戻した。茶葉が水面へ落ちた。

「そういうことに、できるのか」

しばらくして、もう一度言った。

「俺がここでやった仕事、そういうことにするのか」

声が大きくなった。修司は自分でも気づいたように口を閉じた。薄い壁の向こうに阿部と小池がいる。

「逃げたかったよ。あの会社には戻りたくなかった。でも、だからお前が全部作ったことになるのか。俺は助けられたまま、何も返してないのか」

航はそんな意味ではないと言おうとした。どの意味で言ったのか、すぐには別の言葉にできなかった。

修司は通知を持ち直した。

「ここを、俺も作ったと思ってた。良くないところがあったら、残って直せる会社だと思ってた」

その先を言わず、立ち上がった。阿部には、続きは明日な、と言ってから帰った。航はその声を聞き、さっきより落ち着いていると思った。落ち着いたことと、傷つけた言葉が消えたことを、一瞬、同じにしたかった。

翌日、理恵は給与や退職に伴う支払いを計算し、通知と理由に関する書類を航へ返した。金を用意すれば判断への異議がなくなるわけではない、と言った。修司は解雇の理由を認めない旨を残した。

「育成へ移す案は、予算から外すんですね」

理恵は確認した。

航はペンを持った。理由の欄には、自分で書いた業務の効率化という文字があった。昨日言ったことを取り消し、通知を出さないと伝えることはできた。気まずい対面をもう一度するだけで、来月も修司へ仕事を頼めた。

署名欄の上へペン先を下ろした。

「外してください。決定は変えません」

航は自分の名を書いた。

理恵は書類を受け取った。利益の見込みは増えた。航はその数字を開き、今度はすぐ閉じなかった。

＊

その夜、修司は自宅の机で、年明けから必要になる金を書き出した。

家賃、電気、食費。百舎の給料がなくなっても、月が変われば同じように払うものだった。退職に伴う支払いで何か月しのげるか計算し、仕事を探す交通費をあとから足した。

最初の計算より、余裕が減った。

来年は工具を少し買い足し、阿部に現場で使わせようと思っていた。買う候補を写した写真を閉じた。もう会社のために揃える必要はない。必要がないことが、節約だと思えるまでに時間がかかった。

知人へ仕事を探していると書いた。百舎を年内で離れることになった、と入れたあと、なぜと聞かれたときの説明を考えた。

効率化で役職がなくなる。そう書けば話は早い。航が言ったことを、そのまま自分の経歴の説明にすることになる。

いったん全部消した。

会社から雇用を終えると通知された。自分は理由に納得していない。それでも、年明けから働けるところを探している。

書き直して送ると、長い文になった。まだ何も尋ねられていないのに、先に弁解しているようだった。

知人から返事が来た。職業訓練所で、実習を手伝う人を探しているという。修司は予定を聞いた。週に二日。作業ができる人より、できない人を待てる人に来てほしいと書かれていた。

その仕事はしたかった。

二日分の収入を家計へ入れた。家賃は払えても、そのあとに並んだ全部には届かなかった。残りの日の仕事を探す必要があった。

修司は知人へ、詳しく聞かせてほしいと返した。航の言葉を思い出しながら、仕事にまで嫌な顔をしたくなかった。

画面を閉じると、来年の現場予定を自分の手帳へ写した頁があった。先週まで、その日の一番早い電車を調べるつもりでいた。

線を引こうとして、やめた。

会社で引継ぎが済んでからにしよう。誰が行くのか決まっていない日を、自分の手帳だけ先に消すのは、落ち着かなかった。

＊

澪の十一月三十日の退職は、それとは別だった。島の仕事を自分で選んだ彼女は、引継ぎを済ませ、作品の権利を百舎へ渡す書類には署名しなかった。会社の道具を返し、自分の板を持って出た。

航が最後の写真を提案すると、澪は皆との写真は欲しいと言った。台は写さなかった。岡野がタイマーに間に合わず、全員で一度笑った。その笑いまで嘘だったことにはならなかった。

十二月、修司は残りの勤務で導入を続けた。彼が確認した九拠点も順に正式稼働し、発注元が実際の出荷と新しい表を照合した。三つと九つ、合わせて十二拠点になった。

来年の現場判断は岡野、説明と導入は小池、設定の確認は阿部が持つ。全員が迷ったときには航が決める。そう書かれた表を、修司は壁へ貼った。

仕事探しは、勤務の外で続けた。面談へ行く日は理恵へ休みを伝えた。航は一度、来年の小さな導入を頼めるか尋ね、言い終わる前に、もう社員ではなくなることを思い出した。

修司は客先への道を手順表へ足した。建物の裏へ回らないと夜便の受付に入れない場所がある。そこは画面の説明には出てこない。小池は地図を見ながら、入口にも印をつけてよいですかと聞いた。

「つけたほうがいい。俺も最初、正面で待ってた」

修司は笑った。その話は自分の失敗で、今なら若い人を待たせずに済む。

最後の週、阿部が返品の一覧を見て、なぜこの印がいるのか聞いた。修司は表を閉じず、実際に荷物を戻す人の順番から説明した。阿部は自分の手順表へ書き足した。

「辞めるのに、ここまでしてもらって」

阿部が言った。

修司はしばらく手を止めた。

「したくない日もあるよ」

阿部は顔を上げた。

「今、ここの電話が鳴ると、俺が取らなくてもいいかと思う。でも、取らないとお前が分からないまま答えることになる。それは違うから」

そう言って、例外を誰へ確かめるか、名前を二つ足した。退職した自分へ電話を戻す欄は作らなかった。教えることと、会社の決定を受け入れることは別だと、阿部にも分かるように言った。

小池と阿部が猫のステッカーを贈った。修司は工具箱へ貼った。仕事がすぐ見つかったのかと阿部に聞かれ、知人の職業訓練所で年明けから実習を手伝えるが、最初は週に二日だと答えた。残りの日の仕事は探していた。

「全部見つかってから辞めるわけじゃないんですね」

小池が小さく言った。

「そうだな」

修司は道具をしまい直した。二人の前で平気なふりをして、自分で辞めた話にしてしまうのも嫌だった。

「教える仕事は楽しみだよ。それだけじゃ食べていけないから、ほかも探す」

航はその話を隣室で聞いた。紹介できる工場が一つあった。自分から言えば、また助けたことになる。そう思って口を閉じた。紹介するか本人に尋ねるという、その間のことはしなかった。

修司は明日から収入が全部なくなるのではない。払うものは払う。その言い方を、航はもう何度か自分にしていた。週二日の仕事では足りないという声が聞こえたあとも、支払いの済む範囲だけを考えようとした。

最後の出勤日、修司は濃い青の湯呑みを新聞紙で包んだ。鍵を机へ置き、返却した道具の一覧を指で確かめた。

「全部あるな」

航は頷いた。

修司は鞄を持ち、少し待った。航から何か言うのを待っていると分かった。仕事を探している相手へ、良いところが見つかるといいなと言えば、送り出した人間の言葉になる。

「引継ぎは、助かった」

航は言った。

修司は鞄の持ち手を握り直した。

「引継ぎに困らなかったからって、これでいいことにはしないでくれ」

返事を待たず、隣室の二人に挨拶した。小池は廊下まで出て、もう一度頭を下げた。修司は彼女に、外では普通に呼んでくれ、と言った。

階段を降りる足音が止むまで、航は鍵を見ていた。

十二拠点からの連絡は、決めた担当へ届いていた。壁の表には修司の字が残り、その横の来月の給与には修司の名がなかった。仕事が渡ったことを見れば、判断は成功したと言えた。

航は誰にも尋ねず、修司の椅子を机の下へ入れた。

薄い青の湯呑みは、航の机に残った。

## 第五章｜誰も困っていない

年末、皆が休みに入った会社で、航は古い帳面を開いた。

修司の机から引き取った書類をしまう場所を探し、創業時の帳面まで取り出していた。そこに、百円の湯呑みを三つ買った領収書が挟まっていた。

会社から返すつもりで航が、立替、と書いた横に、修司の字があった。

お祝いだから。

航は折り目を伸ばした。紙はまっすぐにならず、手を離すと少し浮いた。

彼は修司を救った話を、何人にしただろう。前の勤め先で疲れ切った仲間と新しい場所を作った。その話をすると、人は頷いた。苦労が分かると言った。

航が語るとき、修司はいつも、帰れず駅のベンチで眠っていた日の姿で登場した。湯呑みを選んだり、伝票を皿にしようとしたり、航が上ってくる前から良い部屋を作ったりはしなかった。

昨日まで使われていた鍵を手に取った。二階の扉に合う、同じ傷のついた鍵だった。会社を守るために誰かを切ると決めたとき、こういう小さなものが手元へ帰ってくることを考えていなかった。

携帯電話で文を書いた。

言い過ぎた。戻ってきてほしい。

二つの文の間に、四年間ありがとう、と入れた。何を変えても同じ頼みになった。送らず画面を閉じた。

小池から、帰省先の店で自分たちのものに似た画面を見つけたと写真が来た。岡野は年明けの休日対応を減らす設定を終え、実家へ戻っていた。澪は島で冬の浜の音を録っているらしかった。真帆は講習で知り合った修復仲間と年越しをする。航を誘ったが、彼が仕事を理由に断っていた。

携帯電話は静かだった。

十二拠点は動いていた。修司の引継ぎと岡野の改修が、その役目を果たしていた。呼び出されないことは、皆が得るべき成果だった。

航は南の主任の名前を探した。須田の手当のことを聞く電話は、いまからでもできた。元の調査を求めれば、あの幹部へ渡した金の話になる。金が無駄になるだけでなく、自分が何を止めたかも説明することになる。

彼は名前を閉じた。

階下の主人が、階段の電気を落とすぞ、と声をかけた。

「帰ります」

答えてから、受信箱を開いた。

黒崎の契約案があった。「環」の全国展開。十二拠点の仕組みを土台に、三年かけて各地へ広げる。最初の期は、新たな六拠点を翌年三月末までに導入する。

黒崎の会社が営業網と導入支援の担当を出す。百舎は共通の仕組みを育て、画面と手順の制作、現地説明を担う。発注元は各社の範囲を確かめ、正規の着手金と工程ごとの代金を払う。全国すべてを一度に作る仕事ではなかった。

航は見積もりを開いた。既存の保守と蓄えに新しい着手金を合わせれば、人を先に増やせる。春のような架空の完了報告をしなくても、開始できる計画だった。

そこまで来た。

その言葉を口にすると、昼から空いていた胸のあたりに、形のあるものが収まった気がした。

四月の報告も、六月の沈黙も、修司の最後の日も、小さな会社を守るためにしたことだけではなくなる。多くの現場を変えた道の途中になる。もっと遠くまで行ってからなら、何を背負っていたかを分かってもらえるかもしれない。

契約案の下には、現状の十二拠点を保守して続ける場合の収支もあった。利益は小さくなるが、給与は払えた。黒崎が比較のためにつけたものだった。

航はその頁を閉じて電話をかけた。

「進めたいです」

黒崎は条件を読んだかと聞いた。航は、読みました、と答えた。

「年明けでいい。二日に来られるか」

「行きます」

通話が終わると肩が軽くなった。領収書を帳面へ戻し、手帳の二日の欄に黒崎と書いた。

返すべき返事を一つもしないまま、明日の仕事は増やせた。

## 第六章｜三年後の席

一月二日、黒崎の会社は正月の飾りだけが新しかった。

守衛に名を言うと会議室へ通された。机には資料が二部あり、黒崎が自分で茶をいれていた。湯を注ぐときだけ眼鏡を外した。

「年末に決める話じゃなかったな」

航は顔を上げた。

「澪さんは自分の仕事へ行った。倉田君は君が雇用を終わらせた。同じ辞めた、にして考えるなよ」

黒崎は二つの茶碗を置いた。航は熱い縁を持った。あの判断を勧めた人に区別されることが、不当に思えた。

「役職を減らすのは、黒崎さんも」

「利益は出ると言った。君が選べないとは言っていない」

窓の外で立体駐車場の床が動いた。車を載せた場所が別の高さへ運ばれ、空いたところへ次の車が入った。

航は全国展開の数字を示した。既存の保守、新しい導入代金、人件費。新たな借入はしない計画で、黒崎に創業時の出資を返す日もなかった。黒崎の二割は今も株として残っていた。

「この仕事を終えたら、持分を買えるでしょうか」

「利益が予定どおり積み上がって、会社に残す分を残せればな」

黒崎は創業時の取り決めの写しを出した。二百万円に利益に応じた上乗せ、上限四百万円。条件は変わっていなかった。

「これは君個人が買う話だ。百舎の着手金をそのまま私へ払う話じゃない」

「分かっています」

航は紙の端をそろえた。自分が何に安心したいのかを言葉にすると、そこから逃げるように聞こえそうだった。

黒崎は全国契約の頁へ戻った。三年の途中でも、合意して百舎側の責任者を交代できる。規模を広げない場合にも、十二拠点の保守を続ける道はある。株を買い取っても、この仕事の契約まで自動で消えるわけではない。

「私が株主だから、いつまでも君が責任者をやれと言ってるんじゃない。必要な人を育てれば、代われる」

そのための育成費も入っていた。

航は出口の頁を長く読んだ。出口があると分かると、入ることが容易になった。

三年あれば、修司の解雇に関する話を終わらせられる。須田の扱いも、余裕ができてから改善できる。黒崎の株を買い、自分の言葉だけで会社のことを決める。それから謝れば、誰かに動かされた人間の言い訳ではなくなる。

そう順番を置くと、今するべきことが一つになった。

「三年、やらせてください」

黒崎は署名用のペンを出さなかった。

「今日は条件を直す。社員に話してからだ」

二人は昼まで、地域ごとの導入順を確かめた。黒崎は遠い拠点へ二度行く費用が抜けているのを見つけ、見積もりへ戻した。航も直した。彼は実際に仕事を知っていた。適切な指摘が来るたび、航の肩から少しずつ力が抜けた。

帰り際、黒崎の携帯電話が鳴った。彼は名前を見て、あとでかける、と答えた。

「お正月なのに、すみません」

「いや。私も、会社のほうが話が早い」

冗談の調子だった。航は笑い、同じ形に折った契約案を鞄へしまった。

外へ出ると、閉まった食堂の前に家族連れがいた。営業日の紙を読み、誰かが別の店を知っていると言った。全員がそちらへ歩いていった。

航は一人で駅へ向かった。真帆から年始の写真が届いていた。どの人が誰なのか分からなかった。いいね、と返し、明日の資料を開いた。

## 第七章｜新しい椅子

仕事始め、百舎に集まったのは航、理恵、岡野、小池、阿部の五人だった。澪は十一月末に退職し、修司の雇用は十二月で終わっていた。

全国へ広げる三年計画の第一期は、三月末までに新たな六拠点を使えるようにする。十二拠点の保守は続く。新しい六つも、準備のできたところから試用し、発注元が確認して正式に切り替える。

岡野は仕事に賛成した。夜間窓口を百舎だけで持たないこと、共通部分を作る人を途中で全員現地へ回さないこと、試験の日を削らないことを条件にした。

航は三つとも黒崎と発注元へ伝えた。現地へ入る日は少し遅くなったが、契約はなくならなかった。夜間の一次受付は専門の会社へ任せられることになった。

「言っても、仕事はなくならないんですね」

阿部が日程表を見て言った。

「必要なことなら、言ったほうがいい」

航は答えた。前の契約でも、それができた場面はあった。今回は実際に、皆が休める条件を取れた。岡野は夜の当番表を消し、まとまった開発の時間を入れた。

一月の着手金が入ると、理恵は、これから六拠点のために使う金を分けた。未払いの費用や、修司へ払うことが決まっている分も残した。

「入ったものが全部、余ったものではありません」

航は頷いた。彼女はその言葉を言うたび、前よりゆっくり帳簿を見せるようになっていた。

開発と現地導入のために二人を採り、在籍する社員の給与も上げた。阿部には、問い合わせの転記から、実際の設定を確かめる仕事へ進んでもらうと話した。

最初は岡野と一緒に見る。似ている設定のどこが違い、どの違いが荷物の行き先に関わるか、一つずつ覚える。半年後には、一つの拠点の確認を持てるようにする。

「途中で分からなくなったら、戻って聞いてください」

航が言うと、阿部は手帳に半年と書いた。

賃貸の更新を機に、阿部は駅へ歩いて行ける部屋へ移る契約をした。前の部屋より家賃は上がるが、バスを待たずに済む。遅く帰った日も、もう一本乗るか、歩くかを考えなくてよかった。昇給分と交通費を並べて決めた。

窓を開けると壁だけでなく木が一本見え、宅配ボックスもあった。

「その木、何の木？」

小池に聞かれ、阿部は、葉が出たら調べる、と答えた。携帯電話の写真を少し大きくして、窓の下の枝を見せた。

「帰ってから、何か勉強する場所が欲しくて。机、窓のそばに置こうと思ってます」

航も写真を見た。新しい生活を選べるだけの給与を払えている。会社を広げてよかったと思った。

新しい社員は予算の範囲で椅子を選べた。背の高い人の椅子が思ったより大きく、後ろの机にぶつかった。全員で配置を変えた。航も端を持ち上げ、少しずつ横へずらした。

床に机の脚の跡が残っていた。修司が座っていた場所へ新しい人が来た。椅子を引く音は、もう違っていた。

小池は新しい六拠点向けの説明会を任された。他社の経験が長い新入社員より先に話すのが怖いと言った。航は予行演習へ二時間つきあい、紙を配る順番を変え、客の位置へ椅子を置いた。

小池が途中で言葉を失うと、航は最初からやり直させなかった。直前に相手が何を聞いたかを一緒に確かめ、その質問から続けた。

「全部覚えているところを見せなくていい。その人が、次に何をできるようになるかで話そう」

本番のあと、小池は使わなかった資料を抱えて帰ってきた。

「前より、人の顔が見えました」

航は受けてよかったと思った。彼女が言い直すところも、聞く人が頷くところも、自分はまだ手伝える。小池は翌日の説明に使う紙を減らした。残した一枚には、質問の出たところに鉛筆の印があった。

一月最後の週、岡野が問い合わせ整理の新しい結果を出した。AIが分類する範囲が広がり、阿部が繰り返していた転記が大きく減っていた。そのぶん、設定の現物確認へ時間を回せる。

航は人件費の表を開いた。

黒崎は今度、誰の名も言わなかった。利益率が改善しているとだけ伝えてきた。航はその数字に阿部の給与を重ねた。新人を現地へ出し、問い合わせは小池、設定の例外は岡野へ戻す。忙しくはなるが、回せない量ではなかった。

岡野は、阿部に教え始めた設定の仕事がこれから役に立つと言った。

「半年置けば、そこを一人で持てます。次の地域を始めるときに、僕が全部見なくて済みます」

阿部を残す案の収支も黒字だった。夜間窓口の費用も、新しい二人の給与も含まれていた。春のように、支払日までに足りない金を作る話ではない。

航は二つの案を印刷した。阿部を設定確認へ移すほうには、本人と話した半年の育成日程が載っている。席をなくすほうには、手元に残る金がさらに増えると書かれていた。

「その半年分で、できることもある」

「育て終わった阿部さんで、できることもあります」

岡野は言った。口調は穏やかだった。事実を一つ、表へ戻すような声だった。

航は阿部の新しい部屋を思い出した。葉が出たら調べると言っていた木。これから覚える仕事があるから、通いやすい場所を選んだ人間だった。

いま席を消せば、何を信じて借りたのかと問われる。給与を上げたことまで、相手には違う意味になる。

午後、小池と阿部が新しい社員に、前の拠点の例外を説明していた。阿部は自分が修司に教わった順で、画面を開く前に紙を見るよう言った。最初の一回に間違えたことを話すと、新しい社員が笑い、同じところへ印をつけた。

まだ必要な人間だ、と航は思った。

だから残す、と岡野へ伝えれば終わる話だった。契約を失うわけでも、会社を閉じるわけでもない。黒崎へ相談する必要もなかった。

航は自分の机へ戻り、増える利益の欄を見た。

決算で会社に残す金を残し、正式に分配を受ける。その先に、自分の金で黒崎の株を買う日がある。買い取りを早めれば、自分の判断だけで順番を変えられる。人の暮らしを守る仕事を、もっと自由にできる。

阿部を残した場合、その日が少し遠くなる。

航は育成の案をもう一度開いた。取り消し線も、欠陥を示す赤字もなかった。採用時に約束した仕事が、そのまま続く案だった。

夕方、理恵へ送る決裁の文を作った。阿部の役割を廃止し、二月末で雇用を終える。岡野の測定表を添えかけ、転記の減少と役割全体の廃止は同じではないと言われたことを思い出して外した。

自分の名前だけを決裁者の欄へ入れた。

まだ送らなければよかった。紙を閉じ、明日、阿部と半年の予定を確かめられた。

航は送信を押した。廊下では阿部が、説明はこれで分かりますか、と新しい社員に聞いていた。

翌日、阿部へ、二月末で雇用を終えると伝えた。本人から退職を求めたのではない。給与を上げ、新しい役割を覚えてもらうと言ったあとだった。

阿部は通知を机へ置いた。読み終わっても、席を立たなかった。

「設定の仕事は、やらないんですか」

「仕事はある。岡野君と、新しく入った人に振り分ける」

「僕が、できないからですか」

「そういう評価ではない。全体の配置を考えた」

阿部は頷きかけ、止めた。

「だったら、僕もやれますよね。遅いところは、教えてもらって。半年って、この間」

最後の言葉が小さくなった。航は育成にかかる費用と、仕事の減った部分を説明した。阿部は紙へ目を落として聞いていたが、転記という言葉が出ると顔を上げた。

「それだけをやってたんじゃないです。昨日も、二人に説明しました」

「分かってる。助かったと思ってる」

「助かったら、もういいんですか」

航は返事に詰まった。阿部の指が、通知の同じ角を何度も押していた。

「部屋、借りたんです。給料の話と、これからの仕事の話があったから。ずっと絶対に大丈夫なんて、思ってないです。でも、来月なくなるなら」

息を吸ったが、続きが出なかった。

理恵は、書類の説明はあとでもできると言った。阿部は首を振り、鞄から住所変更の紙を出した。

「これ、今も要りますか」

「書類を送るので必要です」

理恵が答えた。阿部は新しい住所を指で押さえた。会社へ通うために選んだ部屋が、会社から雇用終了の書類を受け取る場所になった。

航は紙を受け取った。今なら決定を戻せた。採らなかった案も、阿部の席も残っている。

彼は、最後まで給与は払う、と言った。

阿部は、それは分かりました、と答えた。安心した声ではなかった。

その夜、阿部は引っ越し業者に、日を変えた場合の費用を尋ねた。新しい部屋の契約を解けば、前の部屋の更新もやり直す必要があった。既に払った金と、もう一度払う金を書き出し、予定どおり移ることにした。

窓際に置くつもりだった机は、いまある小さなもので済ませることにした。設定の勉強用に買おうと調べていた画面も、一覧から消した。まず家賃を何か月払えるかを数えた。

母親へ、引っ越しは予定どおりだと電話した。会社に近くなるから安心した、と言われ、阿部はしばらく返事ができなかった。

「仕事は、探すことになった」

「何か、あったの」

「会社の配置が変わって」

航の説明と同じ言葉を使った。それしか、まだ人に伝えられる形になっていなかった。少し置いてから、辞めたいと言ったわけではない、と付け加えた。母親は分かったと言い、無理なら戻っておいでと言った。

戻りたいかどうかを考える前に、仕事を続けたいと思った。百舎で教わったことを、もう少し自分でできるようになりたかった。部屋を借りたことが間違いだったと、今すぐ決めたくもなかった。

翌週、応募先との最初の面談で、五か月ほどで離れる理由を聞かれた。阿部は会社の判断による雇用終了だと答え、転記のほかに設定確認や新人への説明もしていたと話した。

「設定は、単独で担当した拠点がありますか」

そこは、まだなかった。半年かけて覚える途中だった。

面談の相手は、では補助の経験ですね、とメモを取った。間違いではない。それでも阿部には、自分が昨日までしていたことが、さらに小さくなったように聞こえた。

勉強するつもりですと言いかけ、何をできるかを先に答え直した。現場の紙と設定を照合できること。未確認の項目を残し、人に聞けること。その二つなら、実際にやっていた。

二月初めまでに引継ぎをし、その後は給与を払ったまま出勤を求めないことになった。

阿部は最後の数日、応募の連絡が来ると廊下へ出た。戻ってから、次の人へどこまで説明したかを確かめた。会社の仕事を適当に終わらせたら、次の面談で話せることまでなくなる。その思いもあった。

航は廊下から戻った彼に、良いところが見つかるといい、と言った。

阿部は航を見た。

「ここで続けるつもりだったんです」

航は、今回の変更は会社全体のためだと答えた。阿部の部屋の費用まで決めたわけではない。その言葉は口にしなかったが、そう考えると、胸の痛む場所が少し狭くなった。

最後に出勤した日、阿部は猫のステッカーの余りを小池へ渡した。小池は受け取ったあと、引継ぎの終わった机を見た。

「まだ、聞きたいことあるのに」

「紙に書いてあります。分からなかったら、岡野さんに」

阿部はそう言ってから、教わったこと全部を紙にできたわけではないと思った。けれど、会社を離れたあとも無料で答える約束はしなかった。

会社の鍵を航へ返した。二月の給与を受け取るために、鍵を持っている必要はなかった。

帰ったあと、理恵は給与表から翌月分の阿部の行を外した。航の決裁した配置で、予定利益は増えていた。問い合わせは分類され、電話には小池が出た。誰も仕事を投げ出していなかった。

航は新しい椅子を見た。阿部がまだ、自分の体に合う高さを覚えていない椅子だった。次に使う人が、座面を一段下げた。

その晩、阿部は新しい部屋の小さな机で、面談の予定を二つ書いた。窓の外の木には、まだ葉がなかった。何の木か調べるために開きかけた画面を閉じ、次の募集の勤務時間を読んだ。

## 第八章｜写真の外側

二月、全国展開を知った業界誌から取材が来た。

小池は会議室の花瓶を洗った。阿部は引継ぎを終えて出勤していない。花をどこで買うか、去年なら隣の席へ聞けたことを、小池は一人で決めた。

記者は、倉庫で見た紙の余白の話をよく聞いた。画面を作る会社が紙をなくさなかったこと。使う人の手順から考えたこと。航は澪と岡野の名を出した。自分一人の手柄にするつもりはなかった。

創業の話になり、前の会社で疲れていた仲間と独立した経緯を話した。携帯電話に、机が二つ、湯呑みが三つ写った写真があった。修司はカメラへ何か言おうとして、口を半分開けていた。

良い写真ではなかった。良い夜の写真だった。

記者が、いまその方は、と聞いた。

「育成の仕事へ進みました。本人に合う道です」

航は言った。訓練所で週二日働いていることは本当だった。百舎を去ることを本人が選んだ、とは言わなかった。記者が自分の道を選べる会社なのですねと受け取ったとき、訂正しなかった。

校正が届くと、修司は自ら後進へ席を譲ったことになっていた。阿部については名前がなく、AI活用で人員を柔軟に配置するとあった。

航は二つの文を読んだ。直すなら、いま直せた。

校正の返信欄へ、倉田は自ら退職したのではありません、と書いた。続きを書けば、役職の廃止を決めたのは自分だと説明できる。阿部の配置も、本人が柔軟に動いた結果ではなく、航が雇用を終えると決めた結果だった。

記者が不正を調べに来たわけではない。会社がどう仕事を良くしたかを話していた。その記事でわざわざ、人を切った話をする必要があるのか。航は書きかけた訂正を消した。二人の名前を入れずに良い会社を説明できる、その形を残した。

写真だけを、現在業務に参加している社員のものへ差し替えるよう頼んだ。創業の写真は掲載されなかった。

澪の紹介には、百舎の支援から島の展示が生まれたと書かれていた。小池は本人へ確かめましょうかと言った。

「地図の写真は使わない。仕事の紹介だから、今回はこれでいい」

「でも、会社の研究開発という提案を、取り下げてほしいと言ってました」

航は営業資料の写真を既に外していた。ただ、以前の提出先へ、会社の作品ではないと知らせてはいなかった。その相手には、展示も手がけられる会社として覚えられていた。

「写真はもう外したよ」

小池は画面を見た。

「何のために外したのかも、伝えないと」

取材の返送期限が近かった。航はその話はあとにしようと言った。校正へ承認を送り、小池の確認する画面を閉じた。

同じ午後、発注元から、全国契約のために旧三拠点の体制変更を説明してほしいと依頼があった。解雇した修司の名前が、最初の調査責任者として残っている。新しい担当への引継ぎで問題がないかという確認だった。

航は、旧担当者の確認不足を、担当交代と共通処理の整備で解消した、と書いた。

四月の未確認を知って完了にしたのは、自分だった。修司は報告を止め、事故のあとも訂正を求めた。書いた文は、その順序を逆にした。

指が止まった。

旧担当者は未確認を報告し、代表が工程の完了を承認した。航はその文を、いったん説明の末尾へ足した。二つの文が画面に並ぶと、最初の文が誰を守っているかがよく分かった。

いまからでも後の文を残し、最初を消せた。訂正を求めた修司に、この説明を出したと伝えられた。

解雇した人を理由にすれば、いまいる人の体制は問題なく認められる。ここで自分の承認を説明すれば、前年の調査がなぜ終わったかまで戻る。

航は末尾に足した自分の承認を消した。本文に修司の名があることを確かめ、提出を押した。夜を越して考えることはしなかった。修司がこの説明を読んだときの返事より、先方の確認がいつ済むかを考えていた。

数日後、黒崎から、先方の確認が済んだと連絡があった。

「これで進められる」

航は礼を言った。電話のあと、記事が公開されたという通知が来た。前の会社の知人からも祝いが来た。あの頃から人を大事にしていた、と書かれていた。

返事をする前に、小池が花の水を換えに入った。茎の先を少し切り、短くなった花を花瓶の縁へ寄せた。

「まだ、持ちますね」

航はそう言った。小池は、はい、と答えて、切った茎を包んだ。

## 第九章｜机の高さ

二月、家の中の真帆の荷物が減っていることに、航は引っ越し用の箱を見てから気づいた。

本が一段、棚からなくなっていた。修復に使う薄い紙の箱もなかった。真帆は講習に通う町の工房に近い部屋を、生活の拠点にすると言った。講習が終わっても、そこで受ける修復の仕事が続く。

「半年だけの机じゃ、仕事が置ききれなくなったから」

「費用は大丈夫？」

「払えるものを借りたよ」

そのあとにも聞けることはあった。どんな窓があるのか。駅からどれくらいかかるのか。修復している紙は、もう貼り合わせたのか。

航は会社にも人が増えたと話した。三月の最初の導入が終われば、少し予定を空けられる。向こうへ行って必要なものを買おう。机は良いものがいい。

「机は、もう選んだよ」

「もっと丈夫なのがあるかもしれない」

「手の高さに合うのを選んだの」

真帆は箱の蓋を折り込んだ。白い紙へ工房と書いた箱と、寝具を入れた箱を分けた。夫が仕事を失敗したから罰として出ていく、という話ではなかった。自分の仕事と一日を、航の次の区切りまで預けないという決定だった。

彼女は工房で引き受ける本を、半年の講習だけで終わる件数にはしなかった。修復途中の本を置き、自分の体に合う椅子へ座り、明日の依頼者を迎える。そこから毎回この家へ戻れば、翌朝また早く出なければならない。航と食卓に座るために急いで帰った夜も、彼が帰るのは食事を温め直したあとだった。

真帆は一人なら一人の時刻に食べたいと思った。一緒に食べられない日があることより、一緒に食べるつもりのまま待つ日が続くことに疲れていた。

「引っ越したら、いつ戻るかは決めてないよ」

航は箱から顔を上げた。

「講習が終わったら、考えればいいだろう」

「終わっても、私の仕事はあるって、今言った」

真帆は折り込んだ蓋を一度開いた。入れるつもりの本が膝に残っていた。

「あなたが落ち着く日まで、こっちを仮の暮らしにしたくない」

二人は結婚を終える話をしているわけではなかった。同じ家で暮らす予定を、当然のようには持てなくなった。その話を航は、繁忙期をどう越えるかという相談へ戻そうとした。

航はそのことを聞いていたはずなのに、会社の経営がよくなったことをもう一度説明したくなった。

中古の板を二人で運び、真帆の机にしたことがあった。今なら新品でも買える。配送日も指定できる。できることは増えたのに、してほしいことを一つも言われない。

「俺、何かできることないかな」

ようやくそう聞いた。

真帆は少し考え、土曜に本棚を運べるよう分けるのを手伝ってほしいと言った。

土曜の朝、二人で本を箱へ移し、重ねた棚の上半分を持ち上げた。棚そのものは軽く、重いのは本の入った箱だった。真帆が床へ敷く布を取るあいだ、航は両手で支えて待った。

電話が鳴った。航は棚を置いて出ようとした。

「そこを持っていて」

真帆が言った。

電話は鳴りやんだ。布の上へ置くと、二人で下半分も壁から離した。裏から短い鉛筆が出てきた。真帆はずっと探していたと言って笑った。航も笑った。

昼はうどんを食べた。真帆は修復中の帳面の写真を見せた。水で墨が流れた頁に、あとから別の筆跡で文字が足されていた。どちらも残すつもりだという。

「もとの文字だけに戻さないんだ」

「その後で読んだ人も、ここを使ってるから」

彼女は指で写真を広げた。上から貼られた紙が薄く、下の字が透けていた。

航は四月の報告を思い出した。作り直した最終版なら、いまはすべて調査済みになっている。最初の版を残して何の役に立つのかと、以前は思った。誰がいつ信じたかを残すものなのだと、写真の前では分かった。

「仕事で、直したいことがある」

航は言った。

真帆は写真を閉じず、彼を見た。

「修司に、ひどいことを言った」

「うん」

「それだけじゃないんだけど」

彼女は待っていた。聞かれなかったせいにはできなかった。

航はうどんの汁を飲み、全国の仕事が一段落したら話すと続けた。真帆は箸を置いた。

「私に話すのと、修司さんへ返事をするのは、別にしてね。ここで話して終わったことにはしないでほしい」

航は分かっていると答えた。

午後は空いていた。近所を歩ける。そう思ったところで、未読の連絡が気になった。火曜の説明会に別の部署の責任者も来る。急ぎの返事は不要と書かれていた。

「少し確認してくる。今やれば火曜が楽になる」

真帆は、散歩に行こうと思っていた、と言った。

「行こう。三十分だけ待って」

真帆は玄関の棚から鍵を取り、まだ靴は履かずに待った。航は暦の午後を見た。次の説明会は火曜。今、返さなければ止まる人は誰もいなかった。

端末を閉じれば、二人で出られる。続きを月曜の朝にすると決めればよかった。

航は担当者へ、今日中に修正版を出します、と返信した。頼まれていない期限を自分で作った。真帆と歩く時間を減らす仕事が、送った一文で、相手を待たせてはいけない仕事になった。

三十分では終わらなかった。画面から顔を上げたとき、彼女は上着を着ていた。

「一人で行ってくる。夕方には戻る」

「待って」

玄関で彼女は振り向いた。

「今、無理なら、私の予定で行く」

「あと少しなんだ」

航は言った。真帆は鍵を握ったまま戻ってきた。

「今日、一緒に歩きたいって言ってるの。次の仕事が終わったら、じゃない」

「それは分かる。でも、こっちにも待ってる人がいる」

「さっき、急ぎじゃないって言ったでしょう」

「今終わらせれば、来週の全体が楽になる。目の前の三十分だけで決められないんだよ」

口にすると、いつもの説明だった。全体を考えれば、一人の待つ時間を後にしてもよい。航は須田の勤務を説明したときとは違うつもりで、同じ順番を使った。

真帆は端末へ目を向けた。

「私が会社の事情を分かってないから、そう言ってると思う？」

「経営のことは、全部は見えないだろう」

言い終わる前に、真帆の顔が変わった。航はそこで止まることもできた。違う、と言い直し、端末を閉じられた。

「給与を払ってる人数も増えたんだ。今は、そういう時期だって分かってほしい」

最後まで言った。

真帆はしばらく、鍵を握る自分の手を見ていた。やがて、私も今日、仕事はあったよ、と言った。

「棚を運ぶ日だから、依頼者へ返すのを別の日にした。あなたと話せると思ったから。そっちの給与の人数より少ないけど、私にも待ってる人はいる」

声は怒鳴るほど高くならなかった。途中で息が詰まり、言い直すほうが長かった。

「会社が良くなった話、私も嬉しかった。誰かが早く帰れたなら、よかったと思った。だから、もう少し待てるって、何度も思った。でも、そのよかった話をされるたび、今日嫌だったって言えなくなるのは、もう嫌なの」

航は、そんなつもりはなかった、と答えた。

「うん。そうだと思う」

真帆は頷いた。納得した顔ではなかった。

「悪気がないのは分かった。それで、今日も私は一人で行くんだね」

謝れば、今からでも一緒に行けた。航は仕上げてから追いつくと言った。何分で仕上がるかを、まだ考えていた。

「今日は、追いかけてこなくていい」

真帆は鍵を持って出た。航は会社へ行かなかった。棚のあった壁の前に座り、彼女が帰るまで待った。待っているあいだに、火曜の資料を仕上げた。

真帆は近所の公園を歩き、ベンチで引っ越しの予定を開いた。夫と行くつもりだった店を、一度閉じた。一人で別の店に入り、好きなものを頼んだ。食べたい時刻に食べられた。そのことにほっとした自分を、航へどう話せばいいのか、もう考えたくなかった。

家へ戻ると、航は資料が終わったと言った。真帆は、お疲れさま、と答え、寝具の箱を閉じた。

翌日、彼女は新しい部屋へ最低限の荷物だけを運ぶつもりを変え、普段使う服も運ぶ一覧へ加えた。航へ見せると、買い直せると言われた。彼女は、持っていきたいものだから持っていく、と答えた。

その週、真帆の選んだ机の代金を贈りたいと言うと、彼女は受け取らなかった。代わりに、棚を最後に運ぶ日を一緒に決めた。

航は暦へ丸をつけた。丸の周りに仕事の予定が増えたが、その日は消さなかった。棚は約束どおり運んだ。真帆はありがとうと言った。

一つ守れたことを、ほかの返事の代わりに使いかけた自分に、その夜、航は気づいた。

真帆は新しい部屋で、本の箱を開いていた。航が持ってくれた棚へ、自分の使う順に置いた。ありがとう、と送ることはできた。同じ家へ戻りたい、と続けることはできなかった。

航の家では、食卓の椅子が一つ空いていた。真帆が忙しい日にも見慣れていた景色だった。以前は帰りを待つための一脚だった。今は、帰る日を約束していない人の一脚だった。

## 第十章｜君に任せたい

二月の終わり、岡野が第一期の試験結果を持ってきた。

各拠点から受け取った出荷の例で、情報を引き継ぎ、必要な表を出せるか確かめていた。共通の部分は安定していた。返品のような例外は、人が条件を確かめて追加した。AIが整理を速くし、新しく加わった社員も手順を覚えた。三月の切り替えまでに、残る修正を終えられる。

航は立ち上がり、ありがとう、本当に助かった、と言った。

岡野は嬉しそうにした。夜間の当番に追われず、共通部分をまとまった時間で作れたことが大きいという。交渉で守った条件が、仕事に返ってきていた。

航には次の話があった。開発を一つの部署にし、岡野へ責任者を任せる。採用にも参加してもらう。最初から最後まで見られる仕事を望んでいた彼に、任せられる範囲を増やす。

「やりたいです」

岡野は答えた。それから資料を一枚、机へ置いた。問い合わせ整理の効果を計った表だった。

「阿部さんを切る理由に、これを使ったと聞きました」

航は椅子へ座り直した。

「仕事が減ったのは事実だろう」

「転記が減りました。設定を確認する仕事まで、なくなったとは書いていません」

「新しい二人もいる」

「その二人へ、阿部さんが教えたところもあります」

航は採用時の役割の違いを説明した。岡野は理解していた。全員が同じ能力で交換できるとは思っていない。それでも阿部に半年かけて教える選択を、利益が薄くなるという理由で捨てたことを聞いていた。

岡野は表の右端を指した。

「次に僕が十時間減らしたら、また誰かを切りますか」

航はすぐに答えられなかった。

「そうと決まったわけじゃない」

「皆が手順を出さなくなるのが、怖いんです」

廊下で、新しい社員が小池へ、前の画面では何を確かめていたのか聞いていた。小池は一度、自分の席へ戻って説明を始めた。机の横に立つ二人を、岡野はガラス越しに見た。

航は新しい部署の予算を出した。試験に使う時間も、設定を確かめるための人もつける。欲しい人の条件を聞くと、岡野の答えは航が考えたものより具体的だった。

二人は三十分、採用の話をした。実際に必要な話だった。予算も、紙の上だけではなく使えるものだった。

「だから、君に任せたい」

航は言った。

岡野は頷き、表を重ねた。帰る前に、阿部へ説明する資料には自分の名前を使わないでほしいと言った。

「効果の測定は僕がしました。解雇を提案したのは僕ではありません」

「分かってる。こうやって言ってくれる人がいて、よかった」

航は笑った。岡野は笑わなかったが、部署の話を断らなかった。

会議室を出た岡野は、理恵の机で立ち止まった。彼女は阿部の最終給与を確かめていた。二月末で雇用が終わる。書類の送付先は、先月選んだ部屋だった。

「僕だけ残って、部署を持つんですよね」

理恵は画面から目を離した。

「その仕事をやりたいのは、嘘じゃないでしょう」

「はい」

「私も給料が要ります。ここで続ける理由があります。でも、何を決めたのが誰かは、消さないほうがいい」

彼女は阿部の書類を封筒へ入れた。角が曲がらないように押さえ、閉じる前に宛名をもう一度見た。

岡野は自分の席へ戻った。挨拶案に航が書いた、ここまで来た以上、前へ進むしかない、という一行を消すよう提案した。航は翌日の説明会でその文を読まなかった。

代わりに、さらに多くの現場へこの時間を届けたい、と言った。

言葉はよくなっていた。岡野は社員の席で聞きながら、質問への答えを受け取ったかどうかを考えた。

## 第十一章｜一時間の用事

三月の最初の水曜日、修司から連絡が来た。

久しぶりに会えないか、という文ではなかった。航が発注元へ出した体制変更の説明について、訂正を求める文だった。日付と該当箇所があり、四月の完了報告を承認したのは誰か、と書かれていた。

航は最初の二行を読んだところで、携帯電話を伏せた。

全国の第一期は、もう切り替えに入る。いま、その話を持ってくるのかと思った。解雇を知らせる前には、修司の顔を思い浮かべて何度も表を開き直した。今日は通知を閉じ、先に試験の日付を確かめた。

三月末までに六拠点を終える。その予定は変えたくなかった。

昼になって電話をかけた。修司は土曜の昼なら一時間あると言った。会えば、書いた文より柔らかく話せるだろう。航は店を決め、自分の予定へ入れた。

＊

修司がその説明を見たのは、二日前の月曜だった。

「環」の発注元にいた担当者が、近くの工場の保守を紹介してくれることになっていた。工場へ行く前に、受け持てる範囲を話す約束だった。

修司は古い仕事の画面を、顧客の情報が見えない形で説明できるようにしていた。壊れたあとで呼ばれるだけでなく、同じ不具合を繰り返さないために何を見るか。訓練所の二日と重ならない日に、現場へ行ける。その予定も書いた。

担当者は資料を受け取ったが、なかなか最初の頁を開かなかった。

「先に、これを聞いておきたいんです」

出されたのは、百舎の体制変更の説明だった。旧担当者の確認不足を、担当交代と共通処理の整備で解消した、と書いてあった。

「南の返品の件は、倉田さんが確認していなかったということですか」

修司は文を読み、もう一度読んだ。

「未確認と書いて、報告しています。完了だとは言っていません」

「百舎さんの説明と、違うんですね」

「違います」

相手は困った顔をした。修司が声を強めたからではなかった。これから別の工場へ、自分が良いと思う人を紹介する。その人の元の会社が、確認不足を担当交代で解消したと言っている。

修司は四月の表と、事故のあとに提出を求めた報告について説明した。担当者は知らなかった。彼が受け取っていたのは、代表名で出された百舎の文書だった。

「こちらで、どちらが正しいかを判断するのは難しいです。いったん紹介は見送らせてください」

修司は反論の最初の一語で止まった。

この人に、自分を信じろと頼んでも足りない。自分に仕事を任せるために、百舎の代表の説明を否定してほしいと頼むことになる。

「訂正を求めます。確認してもらえたら、そのときはもう一度、話を聞いてもらえますか」

担当者は頷いた。仕事が決まったのではなかった。再び話す余地があるというだけだった。

持ってきた説明資料は、半分も開かないまま鞄へ戻した。

帰りの電車で、修司は家計の表を見た。訓練所の収入を先に入れる癖がついていた。週二日の仕事は続いている。生徒が作ったものが動くと嬉しい。もう一日増やせないかと尋ねたが、いまは担当する実習がなかった。

足りない分は、退職に伴う支払いと蓄えから出していた。家賃を払う日は変わらない。食費を減らしても、足りない月が足りる月にはならなかった。

工場の保守が取れれば、減っていく残高だけを毎月確かめずに済む。まだ契約してもいない金を、確定した収入として入れたことはない。それでも、次の月の欄へ試しに足した数字は覚えていた。

その数字を消した。

別の仕事への応募も続けた。創業から導入を持っていたなら、なぜ今その会社を離れたのかと聞かれる。人を教える実習に移ったことだけを話せば、説明は簡単だった。けれど、自分が望んで席を譲ったとは言えなかった。

雇用を終えると通知された。理由には異議がある。

そう答えるたび、相手は少し身を引いた。揉めている人間を引き受けるかどうかも、相手には判断の一つだった。

自分が働いた四年間を説明しに行き、その四年間が終わった事情を長く話す。どこまで話せば、仕事ができる人間に見えるのか、修司にはまだ分からなかった。

家へ戻ると、訂正を求める文を作った。

最初に、こんなことをするのか、と書いた。自分の文を読み、削除した。怒りが間違っていたからではない。航が気持ちの問題として受け取り、悪かったとだけ返したら、紹介する人の手元の説明は一字も変わらない。

提出の日付、誤っている箇所、求める訂正を順に書いた。

修司が欲しかったのは、航がつらそうにする顔ではなかった。確認不足を理由に交代させられた人間として、次の現場へ紹介される状態を変えてほしかった。

翌日読み直し、水曜の朝に送った。

＊

土曜、駅前の喫茶店へ行くと、修司は先に来ていた。工具箱はなく、薄い鞄と、いつもと違う上着だった。航は元気かと聞いた。

「朝が早い」

修司は答えた。職業訓練所の実習前に部品をそろえる。足りないと、生徒が自分のやり方が間違っていると思う。だから最初に確かめる。

始まったあとは、手を出さず待つ。一つの接続に十分かかる日もある。

「俺がやれば、すぐ終わるんだけどな」

「向いてると思うよ」

航は言った。修司はそれには答えなかった。

コーヒーへ砂糖を入れた。百舎では入れていなかったことに、航は気づいた。

修司は鞄から紙を出した。全国契約の体制変更説明だった。旧担当者の確認不足という文に、線が引かれていた。

「この先方から、近くの工場の保守を紹介してもらう話があった。いったん見送ると言われた」

「それは、うちの説明だけが理由なのか」

口にしてから、相手の顔を見た。疑う言葉が、確かめる言葉より先に出ていた。

修司は紙を押さえた。

「この文は何かと聞かれた。確認してなかった人を紹介していいのか、判断できないと言われた。だから、まずこれを直してほしい」

「そこまで、言われたのか」

「今、話しただろ」

修司は言い直さなかった。航は水を飲んだ。

相手が話しているのは、去年の気持ちではなかった。今月、受けられるはずだった仕事が止まっている。十二月分までの給与や、退職に伴う金を払ったことでは、その文は消えなかった。

「訓練所のほかには」

「探してる。週二日じゃ足りないから。そこで働けてるから大丈夫、って話にはしないでくれ」

航は頷いた。そう言うつもりだった自分に、気づいた。

「悪かった。お前のせいだと全部言うつもりじゃ」

「全部じゃないなら、何を俺のせいにした」

修司の声が上がった。近くの席で、スプーンが止まった。彼はそちらを見て、顔を紙へ戻した。

「俺は、足りないところを残した。誰かが見てないって分かるように。それを埋めたことにしたのは、俺じゃない」

最後の言葉が、少しかすれた。修司は喉を鳴らし、コーヒーを飲もうとしてやめた。

店の奥で皿が重なった。

修司は、四月に未確認と書いた表の写しも出した。角に二度折った線があった。現場で鞄へ入れやすい大きさにした紙だった。

「調査は終わってないと言った。事故のあとも、こちらの不備だと出そうと言った。お前が完了で出し、お前が報告を変えた」

「分かってる」

「だったら、それを書いてくれ」

修司は紙を航の側へ向けた。

未確認という青い字の横に、航が見た日付があった。忘れた話ではない。見てから完了で送った。六月には修司の報告を使わず、運用上の混乱という別の報告を自分で作った。

何を書くべきか、航はすぐに分かった。訂正文の一行が、頭に浮かんだ。

「代表が未確認を承知で完了報告を承認した。旧担当者は未確認を指摘し、事故後も訂正を求めた」

そう書いて提出先へ送る。一枚の説明についていえば、できることはそれだけだった。

そのあとで発注元へ呼ばれ、なぜ虚偽の報告をしたかを答える。秋に調査が止まった理由まで聞かれるかもしれない。走り始めた六拠点を、止めずに説明できる保証はなかった。

航は携帯電話へ手を伸ばした。提出先の担当者の名前は入っている。この場で、体制変更の説明に誤りがあり、訂正を送ると知らせられた。

修司がその手を見た。

航は携帯電話を机に置かず、ポケットへ戻した。

「第一期が終われば、落ち着いて話せる。今は六拠点が」

「俺の仕事は、今、決まらないんだよ」

修司は背もたれへ体を預けず、前へ身を寄せた。

「今月の予定を空けて、工場のことを調べて、話をしに行った。その席でこれを出された。お前の仕事が終わるまで、俺の仕事も家賃も待つと思ってるのか」

航は目を伏せた。

「ここで全部認めたら、今いる社員にまで影響する」

「俺のせいにしたままなら、俺に影響する」

そこで会話が止まった。修司は紙を引き戻さなかった。

航は全国の契約なら、修司へ外注できる仕事があると言いかけた。受けてくれれば損を埋められる。説明の訂正を急がずに済む。そこまで考え、修司に見られているのに気づいた。

「百舎の仕事を渡すから、待てって話にはしないでくれ」

「そういうつもりじゃない」

実際に、その話をしかけていた。

修司は提出先へ訂正を出し、その写しを自分にも送ってほしいと言った。解雇に納得したことも、説明を認めたこともない。これからの対応は、相談している人とも考えるという。

「ここで話して済むなら、それがいいだろう」

航は言った。

修司は口を開き、いったん閉じた。

「何が済むんだ」

声はもう大きくなかった。

「俺がお前に怒ってる話だけ、済むのか。俺がここで、もういいよって言えば、紹介する人の手元には確認不足の説明が残る。分かるだろ。それを直してほしくて、来たんだよ」

修司は一時間しかないと言っていた。航はそのあいだに、昔の仲間と会った話へ戻せると思っていた。仕事の文書を直すという用事のほうを、横へ置こうとしていた。

航は水のグラスを離した。

「今、提出先へ訂正文は出さない。第一期を止める危険は、取れない」

言ったあと、修司が紙を見下ろした。そこで、やはり出す、と言い直せた。自分の承認した報告が誤りで、目の前の人間に責任はない。それを知らせるほうが先だと、口にできた。

航は続けた。

「会社を続けるための判断だ。お前も、全体の事情は分かっているはずだ」

修司は顔を上げた。

「俺が困ってることは、その全体に入らないんだな」

航は答えなかった。

修司は二枚を揃えた。紙の端がうまく合わず、二度直した。

「待つことには同意しない。今日の答えも、文でくれ」

一時間が近づいていた。修司は訓練所へ行くと言って立った。航が支払おうとすると、自分の分を置いた。

改札まで一緒に歩いた。以前なら現場への道で話したのと同じ距離だった。猫のステッカーは工具箱に貼ったままか、航は聞きたかった。それを聞けば、仕事の外にも残ったものがあると確かめられる。

聞く前に、修司が立ち止まった。

「送ったら、届いたとだけ返してくれ。返事を待ってるのか、読んでないのかまで、俺が考えなくていいように」

航は分かったと答えた。

修司は改札を通った。一度も振り向かなかった。

＊

午後の実習で、修司は生徒の手が止まるのを待った。

接続の位置は合っていた。確かめる順番だけ、途中を飛ばしている。間違っていると先に言わず、どこまで見たか尋ねた。生徒は一つずつ指を置き、飛ばしたところへ戻った。

夕方、その装置は動いた。修司は隣で見ていた。生徒が小さく両手を上げ、すぐ下ろした。

「今のところ、自分で直せたな」

修司が言うと、もう一度やってよいかと聞かれた。もちろんと答え、片づけの時間を少し後ろへずらした。

ここで役に立てることはあった。航に向いていると言われたからではなく、自分がしたい仕事だった。

家へ戻り、靴を脱いでから、鞄を持ったまま玄関に座った。

昼の会話を思い出すと、今ごろ声が震えた。もっと短く、もっと落ち着いて話せば、航は聞いただろうか。いや、書く内容は分かっていた。自分の確認不足という一文を直せばいいのだと、あの顔は分かっていた。

説明の仕方を変えればよかったという考えまで、引き受けそうになった。

「違うだろ」

一人で言った。声にしたら、少し涙が出た。

百舎へ戻してほしいと頼んだのではない。新しい仕事を探せるよう、していないことをしたと言うのをやめてほしい。そのために、四年間一緒に働いた相手へ、日付を揃え、証拠を持って、一時間の用事として会いに行った。

修司は顔を手で拭いた。泣いたあとも、保守の紹介は保留のままだった。

鞄を机へ置き、相談している相手へ今日の回答を伝えた。自分の記憶だけにしないため、航の言葉をまだ覚えているうちに書いた。紹介を保留した担当者にも、訂正を求めていることと、まだ出してもらえていないことを短く知らせた。

それから実習の記録をつけた。今日動いた装置と、次に生徒が自分で確かめるところを書いた。

濃い青の湯呑みへ茶を注ぐ。新聞紙の包みを解いて以来、家で使っていた。自分が選んだ色だった。捨てたいとは思わなかった。

翌週の空いた日に、もう一つ面談の予定を入れた。

＊

喫茶店を出た土曜、航は会社へ向かった。階段で、謝った、と心の中で確かめた。

会うこと自体を断らなかった。訓練所の話も聞いた。外注できる仕事を考えた。そう数えると、冷酷なだけの対応ではなかったと言えた。

修司が求めた一つだけは、断った。

机へ戻ると岡野の試験結果が届いていた。すべての問題に担当と日付がついている。航は承認を返した。こちらには今日返す意味があり、返せば仕事が進んだ。

修司へ書く返事の欄も開いた。

本日は時間をありがとう。

その文の下へ、現時点では訂正を出さない、と入れた。自分が喫茶店で言ったことだった。文書にすれば、拒んだ人間の名と日付が残る。

航は下の一行を消した。

改めて連絡する、と書くと、まだ考えている人間の返事になる。修司は返答を文で求め、待つことに同意しないと言った。読んだかどうかまで考えさせないでくれとも言った。

航は受け取りました、とだけ送り、会社の予定へ戻った。

試験表では最後の二つが、確認待ちから完了へ変わっていた。航はその担当者へ礼を返した。返事を受けた社員から、来週もお願いします、と届いた。

修司の文書を訂正する日付だけは、空いたままにした。

## 第十二章｜花を送る

三月、澪から島の資料館の展示案内が届いた。厚い紙に波の線が一本だけ入っていた。

十二月から仲間と作っていた展示のうち、立体地図などに来館者が触れられるようになったという。次の土曜なら、金曜の夜に港まで行って、朝の船で着けた。

航は予定を開いた。社員の研修があったが、自分の説明は金曜に済ませられる。岡野は土曜の連絡を引き受けられた。急ぐ出張もなかった。

行けた。

資料館の写真には、住田と木工職人、名前を知らない人たちがいた。澪は端で台を動かしていた。百舎に置いたものより、低く、横からも手を入れられる台だった。

航が以前作った台が、間違っていたわけではない。別の人の手で、先へ進んでいた。

彼は船の時刻を閉じた。公開したばかりで忙しい。行けば気を遣わせる。まだ話しにくいこともある。そう考えると、花を送るのがよい気がした。

阿部がいたころは頼めた事務を、今は小池が引き受けていた。航は彼女へ届け先を渡した。小池は先方へ確かめ、島へ大きな鉢を送ると手入れに困るので、小さな花束なら置けると教えた。

「それにして」

送り主を百舎一同にする案に、小池は、自分の言葉は個人名で添えてよいかと聞いた。航は構わないと言った。

岡野は、動きの硬い箇所があれば見に行きます、と書きかけ、仕事の提案みたいだと笑って直した。理恵は見たい展示の名前を書いた。新しい社員は澪と働いていないので、地図の写真を見た感想を書いた。

小池は、教えてもらった説明の順番を今も使っています、と書いた。

集まった言葉を、小池が一枚のカードへ貼った。

航は、君の成長を誇りに思います、と書いた。読み返して会社の挨拶らしすぎると思ったが、社長の言葉としては、そのくらいがよい気がした。

花の届いた翌日、写真が来た。子どもが地図の道へ指を置き、隣の大人が潮の板をゆっくり動かしていた。道は太くなり、途中へ指を置いたまま迷える場所が増えていた。

写真の下に、展示の協力者が一人ずつ書かれていた。百舎の名前はなかった。真帆も会社としてではなく、住田を紹介した個人として澪とやり取りしていた。

航は、会社にいた時間も役立っているはずだ、と思った。

航が返事を書く前に、小池は写真を見て、ここから曲がれるようになったんですね、と返していた。岡野は子どもの手が届く高さを尋ねた。二人の文には、百舎へ戻ってくる話がなかった。

その土曜、航は会社へ行った。研修で若い社員が驚き、少しだけ質問したいと言った。航は三十分、顧客への説明の話をした。相手の紙を取り上げず、何を書いているか聞くように教えた。

社員は頷いた。教えたことは、いまも正しかった。

帰りに小池が、助かりました、と言った。航は来てよかったと思った。

船はもう島から戻ってくる時刻だった。

小池の机に、澪から届いた別の連絡が開いていた。百舎の営業資料を見た協力先から、島の展示の権利も会社にあるのかと聞かれたという。写真を外すだけでなく、提出先へ訂正してほしい、とあった。

その週、澪は資料館の打ち合わせに、自分で買った材料の記録と、百舎へ渡していない制作の記録を持っていった。協力者が安心して次の板を作れるよう、どの部分を誰が作ったかを説明した。

相手は澪を疑って責めたのではなかった。会社の研究開発だという資料が残っているなら、使ってよいかを一度確かめる必要がある。澪はその判断が分かった。分かるからこそ、自分が毎回説明しなければならないことに疲れた。

打ち合わせが終わると、住田が展示室の戸を開けた。澪は案内を頼まれていた親子へ地図を見せた。子どもが潮の板を動かし、今度は別の道を探した。大人が急いで教えようとすると、澪は、ここで考えても大丈夫です、と椅子を引いた。

しばらくして指が別の道へ進んだ。澪は見ていたかった時間を、仕事として持てていた。それでも閉館後には、営業資料を受け取った相手の名前を小池に確かめる文を書いた。

航のカードは花束のそばにあった。成長を誇りに思う、と書いてあった。澪は嬉しかった頃のことも思い出せた。彼が余白を守ってくれた日の帰り道を、悪い思い出に変える必要はなかった。

カードの端には、理恵と小池たちの文も並んでいた。澪はそれぞれを読み、自分の手帳へ、百舎から訂正の連絡待ち、と書いた。祝いを受け取ることと、作品を会社のものとして扱わせることは、別にしておきたかった。

小池は次の会議で話すため、日時を手帳へ書いた。

## 第十三章｜会議の終わり

三月半ば、第一期の六拠点を順に切り替えていた朝、一つの拠点で出荷準備を終えたという確認の印がつかなかった。

画面は動いていたが、印刷した紙の端が切れていた。プリンターの設定が違っていた。小池は現地へ電話し、岡野は別の機種で同じ表を出した。

航は自分が責任者へ連絡すると言った。

小池は受話器を押さえた。

「もう話しています。朝の便は前の表で確かめてもらえます。こちらの設定の問題だと伝えました」

「そうか」

航は手を引いた。現地では従来の表で必要な情報を確かめ、便を予定どおり出せた。昼までに修正し、同じ機種を使うほかの拠点も、切り替える前に設定を直した。

小池は相手が表を確認できるまで電話を切らなかった。慌てた担当者が、一度聞いたことをもう一度尋ねても、先ほど言いましたとは答えなかった。どの紙を持っていますか、と聞き直した。

昼、現地から、間に合いましたと返事が来た。小池はその文を岡野へ見せ、それからようやく席を立った。冷めた茶を飲むと、自分が朝から一度も飲んでいないことに気づいた。

夕方、会議で航は二人を褒めた。

「俺がいなくても、ちゃんと回せるようになった」

小池は朝は焦りましたと言い、ようやく背もたれへ体を預けた。岡野は次の導入で試す項目を増やしたいと言った。半日増やしても全体の納期は変わらない。航は承認した。

新しい社員は、現地へ行く担当を毎回変えないでほしいと求めた。名前を覚えた頃に交代になる。航は二人一組で継続できる配置を提案した。

会議はよく進んだ。小池は朝の問題も、次に役立つ形で話せたと思った。ここでは、できなかったことを持ち寄り、仕事を直せる。航が自分に教えたのも、そういう説明の仕方だった。

小池が澪の連絡を読んだのは、そのあとだった。

「前の営業資料が、まだ会社の作品として残っています。提出した先へ、個人の作品だと伝えてほしいそうです」

航は既に写真を外したと答えた。

「今ここにないだけでは、向こうは知らないので」

「分かった。今後は本人にも確認しよう」

「今後ではなくて、今あるものを直す話です」

部屋が静かになった。

小池は膝の上の手帳を開いた。頁の端が手の汗で曲がっていた。澪の文には、作品を一緒に作っている人へ、百舎の権利が及ばないことを何度も説明している、とあった。澪が説明を続ければ済む話ではなかった。百舎から出した説明を、百舎が戻してほしいという依頼だった。

「倉田さんの説明も、本人が選んで辞めたことになっています。私たちまで、その話に頷いたように見えます」

航はそこで、会社の対外説明を社員が一人ずつ訂正していては混乱すると言った。客へ返す言葉はそろえる必要がある。それは導入の仕事では大切なことだった。

「そろえる前の内容を、直してほしいんです」

小池の声が少し高くなった。向かいの新しい社員が顔を上げると、彼女は声を落とした。

「私、倉田さんが育成の仕事へ行ったと、お客さんに話しました。社長がそう言ったからです。解雇だったのに、自分で選んだことにしてしまった」

「訓練所で働いているのは事実だ」

「その前のことを、違う話にしています」

小池は手帳へ視線を戻した。辞めた人の話をするために、今ここで働いている人へ失礼をしているのだろうか。一瞬そう思った。けれど、今朝のプリンターの設定については、こちらの問題ですとその場で言えた。同じように、間違っていた内容を伝えるだけなのに、なぜこれは言えないのか。

「次に聞かれたら、私は何て答えればいいんですか」

航は資料を閉じた。理恵が次の支払いの表を持って待っていた。新しい社員は膝へ目を落とし、岡野は手を机に置いたままだった。

今、訂正の担当と期限を決めればよかった。提出先を小池に確かめてもらい、自分の名で訂正文を出す。修司へも、求められている説明の返事をする。

航にはその手順が分かった。小池が求めているのは会社を壊すことではなく、会社が出した二つの説明を直すことだった。

それでも、六拠点を終えようとしている今に、その話を持ってくることが腹立たしかった。これだけ良い仕事をしている。朝の問題にもきちんと責任を取った。そのことより、いない人間の名前が会議の最後に残る。

「その件は、ここまでにしよう」

航は言った。

小池はまだ顔を上げていた。航が理恵へ次の表を求めると、彼女は手帳を閉じた。返事を得たからではなかった。

会議のあと、航は自分の机で説明と導入の配置を開いた。

AIの案内と録画した教材がそろえば、同じ説明を繰り返す時間は減る。新しい担当と岡野で例外を受け、導入の窓口を集約する。小池の席をなくせば、給与分が残る。

次の地域の教育を小池に任せる欄もあった。説明を覚えていない人はまだ多い。現地の人へ話を聞き、分からないところから教える仕事は、録画を一度見せて終わるものではなかった。今朝、小池の対応が必要だった理由も同じだった。

航はその欄を、今回の体制から外した。

時計を見ると、会議を終えてから八分しかたっていなかった。阿部のときに並べた二つの案を、今度は印刷しなかった。小池を残す場合にも仕事が回り、黒字になることは、既に分かっていた。

黒崎へ削減案を送ると、削減分は確かに残る、と返ってきた。

「ただ、彼女を次の地域の教育へ回す案はどうした」

「必要ありません」

航が答えた。外から否定された案ではなかった。

廊下から、小池が新しい社員へ、今朝は慌てたよね、と話す声がした。航は戸の向こうへ行けた。さっきの件は時間を取ろう、と呼び戻せた。

代わりに、理恵への指示を作った。AIによる案内の拡充と組織変更を理由に、小池の雇用を終える。三月末を区切りとし、必要な書類と支払いを準備する。

確認画面で、小池の名前を一度読んだ。今朝、荷物を予定どおり送り出せた相手だった。夕方には、その相手の声を会議からなくす手続きをしている。

航は指示を送った。

席を立つと、もう一つ仕事を終えたあとのように、次の日程を考えられた。

通知を渡すとき、小池は最初、朝の不具合に関する評価だと思った。紙を読んで、組織変更という言葉の下へ指を置いた。

「朝は、任せられると言ってくれましたよね」

「仕事ができなくなったとは、思っていない」

「だったら、どうしてですか」

航は教材と窓口の集約を説明した。新しく入った社員が担う仕事と、小池が担っていた仕事はまったく同じではない。それも本当だった。ただ、彼女を次の地域へ移す案があることは言わなかった。

小池は紙を伏せた。

「訂正してほしいと言ったからですか」

「組織の判断だ。個人の発言を一つずつ理由にしているわけではない」

「今日、決めたんですか」

航は答えるのをためらわなかった。

「今日、最終的に決めた」

小池の顔が赤くなった。口を開いたが、すぐには言葉にならなかった。

「それで、発言と関係ないって……。私、仕事をしなかったわけじゃないでしょう」

声が大きくなり、彼女は戸のほうを見た。廊下に誰かがいるかもしれない。少し声を落としたが、怒りは収まらなかった。

「間違ってると分かった説明を、私にも続けさせるんですか。直してと言ったら、次の日から、私の席がなくなるんですか」

「次の日ではない。給与や引継ぎの期間は用意している」

「そこを言ってるんじゃないです」

小池は目を閉じた。まぶたの下に涙が溜まっていた。ここで泣けば、感情的だから話にならないという説明まで付くのだろうか。そう考えると、頬を拭くのも嫌だった。

航は、今まで助かったと思っている、と言った。本心だった。彼女の説明で顧客が落ち着き、新しい社員が仕事を覚えた。

小池は目を開けた。

「じゃあ、ここで役に立たなくなった人として、外へ出さないでください」

「そういうことは言わない」

「倉田さんにも、全部あの人のせいだとは言わなかったんですよね」

航の顔が硬くなった。小池はそれを見たが、目を伏せなかった。

彼女は相談先へ持っていくため、理由と通知した日、雇用を終える日を書面にしてほしいと言った。自分から辞めると申し出たことにはしないでほしい。通知を受け取ることと、判断を認めることも分けてほしい。

理恵がその要望を書き留めた。金を用意しても、異議が消えるわけではなかった。

航は、書面は出す、と答えた。席を残すとは言わなかった。

その帰り、小池は駅の階段で一度止まった。さっきは怒って話せたのに、電車の行き先を確かめるだけで、目の焦点が合わなくなった。後ろから来る人を先に通し、手すりのそばへ寄った。

朝、間に合ったと返ってきた文を携帯電話で開いた。自分がした仕事だった。役に立ったことも、相手が安心したことも、なくなってはいない。

それが、ここで働き続けられる理由にはならなかった。

家では鞄を床へ置いたまま、しばらく上着を脱げなかった。応募用の職務経歴を書こうとしたが、最初に指が止まった。九月から三月。新しい仕事を一人で説明できるようになり、そのあとを覚える前に終わる。

AIで説明業務が減った、とだけ書けば、教材を読むだけの仕事をしていたように見える。小池はその文を消し、問い合わせに応じて説明の順を変えたこと、現地の切り替えを支えたことを書いた。今朝の対応も、一つの経験として入れた。

通知後の休み、紹介会社の担当者から、次も同じ給与を希望するかと聞かれた。小池はまず、その額で探したいと答えた。すぐ決まらなければ、条件を広げる相談をしなければならない。

月ごとの支出を並べ、次の定期券の更新をやめた。会社へ通うために払う金は減る。その代わり、面談へ出向く交通費が、一度ずつかかる。空いた時間を自由な休みにする余裕はなかった。

澪へ、島へ行ける日をまた連絡すると送った。雇用が終わる話も書いた。澪は、話せるときに電話しようと返した。小池は電話で最初、会社で何を言ったかを説明したが、途中で、自分はあそこで教える仕事を続けたかった、と繰り返した。

澪は、続けたかったんだね、と答えた。怒った言葉を整理してもらいたかったわけではない。小池はその声を聞いて、ようやく泣いた。

航が見ていない夜に、彼女は翌日の面談のため、泣いた顔を冷たい布で押さえた。

残る勤務で、小池は引継ぎの資料を整えた。成瀬澪、倉田修司、阿部。この手順を教えてくれた人の名前を残した。連絡先ではなく、誰が考え、誰から伝わったかを記す欄だった。退職した人へ仕事を押し戻さないよう、現在の担当は別の欄にした。

航が、今の担当だけ分かればよいのではないかと言うと、小池は名前の欄を閉じなかった。

「この人たちがやったことまで、配置が変わったから消えるわけじゃないので」

航はその場では削除を求めなかった。資料を受け取り、よくまとまっていると言った。小池は、残してください、と答えた。

最後の出勤日、彼女は新しい担当へ、相手が一度聞いた質問をもう一度しても、同じ言葉を強く繰り返すだけにしないでほしいと話した。緊張している人は、前の言葉を聞き取れていないこともある。

担当者が頷き、ノートへ書いた。小池はその行を確かめてから、会社の道具を返した。

花瓶を洗い、水を切って棚へ戻した。理恵が送付書類の住所を確かめ、岡野は会社の外でも連絡してよいか聞いた。小池は頷いた。

航へ返した鍵には、小さな猫のシールがあった。阿部にもらった余りだった。

「訂正は、待っている人がいます」

小池は最後に言った。自分の通知を引っ込める代わりに、その人たちの依頼を消してよいという話はしなかった。

航は受け取った鍵を机へ置いた。彼女が帰ると、新しい担当から導入の連絡が来た。説明の窓口は動いていた。予定利益は増え、会議で二つの説明を直せと言う人は、いなくなった。

三月末で、小池の雇用は終わった。

次の朝も、いつもの時刻に目が覚めた。洗った会社用の服を手に取り、面談は明日だと思い出した。台所で一人分の茶をいれ、応募書類の控えを読み直した。まだ決まっていないという現実が、朝になるたびにあった。

会社では、岡野が次の会議の議題を作っていた。

会社の進め方について、と書いて止まった。その下に、試験の時間、次の地域への配置、導入後の休日対応と並べた。三つとも必要な話だった。航はそのどれについても考えて答えてくれる。

小池が朝の電話で何をしたかも、会議のあと何を言ったかも、岡野は見ていた。自分は阿部を残す案を出し、いまも部署と予算を持っている。意見を言えば、必ず切られるわけではない。どの意見なら席を失うのかを、考えるようになっていた。

岡野は最初の行を消し、次の導入の準備、とした。

AIの丸い顔が画面の端で、入力を待っていた。岡野は残った三つの議題を読み、送信した。

## 第十四章｜完全勝利

四月最初の土曜、三月末で終えた第一期の報告会に、花瓶が三つ並んだ。

取引先から届いた花だった。一つは会議室へ入らず、廊下に置いた。小池が洗った花瓶を、新しい社員が棚から出して使った。

新たな六拠点は通常の運用へ移っていた。現地の担当者が、画面と配送表で出荷を続けられることを確かめていた。昨年の十二拠点も動いている。全国へ広げる三年の仕事はまだ先が長いが、最初の六つを終え、次の地域の準備に入れた。

百舎にはしばらくの給与と、開発を続ける金があった。新たな借金をせず春を越え、利益は創業以来もっとも大きかった。

理恵は報告会の前、口座の残高だけを利益と呼んでいないことを航と確かめた。まだ終わっていない仕事の着手金は分けてある。支払う費用と税、継続する保守、退職者との争いで必要になりうる支出も見込んでいる。それでも、実際に終えた仕事から残る金は増えた。

「決算と分配を確認してから、個人の買い取りの話を進めてください」

理恵は言った。黒崎の持分を買いたいという航の意向を、彼女は聞いていた。

「もちろん」

航は答えた。その道が数字で見えることに、体の内側から熱が上がった。

川沿いの倉庫の主任も来た。背広は落ち着かないと言い、入口でネクタイを緩めた。新しい社員へ、小池さんは、と聞いた。

「三月末で会社を離れました」

航が答えた。

主任は驚いた。電話での説明が分かりやすかったので、礼を言いたかったという。航は伝えると答えた。会場に小池はいなかった。二月末に解雇した阿部も、昨年末の修司もいなかった。

岡野は新しい開発担当と次の試験の話をしていた。途中で切り上げ、紙皿を二枚取った。新入社員の一人が、毎月同じ日に給与が入る会社へ移れてよかった、と隣の人に話した。

航はその声を聞いた。

守れている人はいた。

主任は、いまは週に何度か家族と夕食を食べられると言った。澪の残した余白には、相変わらずその日の連絡が書かれている。岡野の共通処理は現場の転記を減らし、新しい社員の説明で、初めて使う人も仕事を覚えた。

拍手を頼んだ人は、一人もいなかった。

黒崎が挨拶した。昨春の資金危機を越え、実際に使えるものを作り続けたことを話した。四月に何を完了と書いたか、六月の損失を誰が負ったか、十月になぜ調査が止まったかは話さなかった。

航は自分の番が来るまで、机の下で指を組んだ。

真帆は来ていなかった。工房で修復した帳面を依頼者へ返す日で、先に決まっていた予定だった。澪からは、皆さんによろしく、と返事が来ていた。修司から来ていたのは、訂正に関する返事を求める文だった。

名前を呼ばれて立った。

「ここまで来られたのは、皆さんのおかげです」

本当にそう思った。目の前の社員は仕事をし、顧客は代金を払い、その仕事を使っている。

航は次の地域の話を始めた。さらに多くの人が早く帰れるように、自分たちにはできることがある。

話すうちに喉が楽になった。部屋にいない人の名を入れずに、ここまでの道を説明できた。

会のあと、主任が窓辺へ来た。

「最初の余白を作った方は、島で展示をしているんでしたね」

航が頷くと、あれを今も使っていますと伝えてほしい、と頼まれた。航はその言葉を携帯電話へ書いた。本人へ知らせるべき良いことだった。

南の拠点のことも聞こうとして、主任が来たのは別の倉庫だと思い直した。聞く相手の名前は分かっていた。今日の席にはいないだけだった。

黒崎が隣へ来た。

「勝ったな」

「まだ、最初の六つです」

「去年の春に怖がっていたものには、勝った」

その通りだった。給料は払えた。会社は続いた。役に立つ仕事があった。借入の紙は、署名しないまま終わった。

「株のこと、決算の確認が済んだら進めたいです」

航は言った。

黒崎は頷いた。

「約束どおりでいい。君の会社になる」

窓に二人の姿が映っていた。航は、やっとここまで来たと思った。黒崎は携帯電話を見てから、しばらく外を見ていた。

「昔の相棒に、電話しようと思ったことがある」

「かけたんですか」

「用事がないと、何を言えばいいか分からなくてな」

部屋の奥から写真を撮りませんかと声がした。二人は窓を離れた。岡野、理恵、新しい社員たちと並び、黒崎は航の肩を一度叩いた。

航はレンズへ顔を向けた。いまここにいる人は、一枚の写真に収まった。

## 終章｜明日の欄

報告会の夜、社員が帰ったあとも航は会社にいた。

打ち合わせの場所と執務机の灯りは別になっていた。人のいないところから順に消え、最後に航の机の周りだけが残る。新しい設備は必要な場所を正しく照らしていた。

薄い青の湯呑みに、冷めた茶があった。

底の値札を真帆が取ったことを思い出した。古い机も、帳面も残っている。百円の領収書も捨てていない。なくしたものばかりではない、と考え、湯呑みを戻した。

真帆から写真が来ていた。修復した帳面を依頼者が持っている。新しい机の端が少し写っていた。航の知らない手が、薄く継いだ頁の下へ入っていた。

よかったね、と書いた。自分の報告会の写真を添えようとして、やめた。今夜くらい彼女の話だけにしたほうがいい。

返事はすぐには来なかった。

帰ればよかった。自分の食べるものを買い、家へ帰れる。今夜返さなければ困る仕事の連絡はなかった。岡野たちの作った仕組みが現場を支えていた。

航は澪へ、主任が余白を今も使っていると言っていたことを送った。

嬉しいです、と返ってきた。

その下には先日の、営業資料の提出先へ訂正を伝えてほしいという文が残っていた。短い返事は、その依頼を取り下げた文ではなかった。

修司の名前も開いた。用事ならあった。伝えるべき訂正があり、失わせた仕事があり、自分で決めた解雇があった。用事がないから電話できないのではなかった。

航は画面を閉じた。

会社の報告には緑の印が並んでいた。顧客の確認した六拠点の完了。理恵の確かめた利益。支払った給与。ここにある数字は、どれも本当だった。

それなら、今夜は楽になれるはずだった。

拍手の顔も声も思い出せた。胸の奥にあった温かさだけが、同じ形では戻らなかった。来月の受注目標の欄が空いていた。航はそこへ新しい顧客の名を入れた。

書いていると、呼吸が深くなった。

三年後に任せるには、いま止まれない。黒崎の株を買うまで、もう少しだ。そのあとなら、自分で順番を変えられる。

真帆から、ありがとう、今日は早く寝ます、と返事が来た。航は、おやすみ、と返した。来月の下に翌々月の欄があった。そこにも数字を入れた。

＊　後日譚

それから二か月後の六月、航は黒崎の二割を買い取った。

前年四月から三月までの帳簿を閉じても、全国の仕事は続いていた。三年計画の次の地域は、まだ現場を調べているところだった。

決算では、会社に残す運転資金と、顧客に約束した仕事の費用を分けた。退職者との争いに備える金も残し、外の専門家へ確認した。そのうえで、実際に積み上がった利益を正式に分配した。

分配を受けた航は、税と生活費を残し、自分の金で四百万円を用意した。会社の着手金には手をつけていない。黒崎の二割は創業時の約束どおり、買い取り額の上限に達していた。

黒崎は条件どおりに応じた。さらに金を求めることも、署名の前に新しい約束を差し出すこともなかった。

書類を交わす席で、航は古い出資の紙と新しい紙を並べた。黒崎の二割はなくなり、株はすべて航のものになった。全国の仕事は続くが、責任者は合意すれば交代できる。黒崎が株主だから従う、という理由はもうなかった。

インクが乾くのを待つあいだ、航は肩の力が抜けるのを感じた。

「自由になりました」

航は言った。

「そうだな」

黒崎はペンに蓋をした。

「ただ、私に払った四百は、私の株の代金だ」

航は分かっていますと答えた。須田の手当でも、修司の名誉でも、阿部が借りた部屋の家賃でも、小池が会議で話せたはずの時間でもなかった。

会社へ戻ると、新しく独立した取引先の若い代表が待っていた。百舎から仕事を受けていたが、別の客の入金が遅れ、来月の給与に金が足りないという。

航は座るよう勧めた。本人が飲みやすいよう、熱い茶に少し水を足した。資料はよくできていた。機械に任せるところと人が確かめるところも分かれている。次の仕事までつなげば、この人は返せる。

航は通常の貸付でつなぐ案を書いた。それから、百舎へ出す確認報告を前倒しする話をした。

その報告は百舎だけで閉じるものではなかった。環の発注元も、調査を終えたという内容を受け取り、次の工程へ進む。航はその順番を知っていた。

「まだ、二つの現場を見ていません」

若い代表は答えた。

航は未確認の欄を見た。何が分からないかを、相手は正確に書いていた。あの春の修司の紙と同じだった。

「来月には、確かめるんだろう」

自分の声が、思っていたより落ち着いて聞こえた。

「先に完了で出せば、工程分を払える。君は借金をしなくて済む」

若い代表は、紙を手に取らなかった。

「見ていないところは、残っているって書いたほうがよくないですか」

「その場合は、調査が終わってから工程の代金を払う。間の給与は、こっちの貸付でつなげる」

航は正しい順も、その費用も説明できた。相手の仕事を見れば返せる。貸すだけでこの相談を終えられた。

「ただ、借りた分は、仕事が終わっても返していくことになる。そこは考えたほうがいい」

春の自分なら、借金を残さないと言われて手を止めた。今は人の手が止まる位置を知っていて、その前に紙を置けた。

「完了って出したら、現場では、もう調べたと思いませんか」

若い代表は聞いた。

航は未確認の欄へ視線を戻した。南の夜便を見ていなかったことは、今でも覚えていた。須田が出口まで追ってきて、自分の名前を指したことも、覚えていた。

「次の正式稼働までには、本当に確かめる。試用中に現場へ説明するのも、君たちの仕事だ。そこで間を埋められるかを、考えてほしい」

若い代表は唇を結んだ。

「嘘を出すことには、なりますよね」

航は茶の位置を相手へ寄せた。問いを責められたとは感じなかった。最初は誰でもそこが怖い。だから、分かるまで話してやりたいと思った。

「今日の時点では、完了していない。だから、君が何を引き受けるかを分かったうえで決めてくれ」

その先を、航は続けた。引き受けないほうを勧める言葉は、自分から出てこなかった。

「社員には、来月の家賃がある。家族へ渡す金もある。仕事は終わる見込みが立っていて、払う金もその工程から出る。それをつなぐために、代表が先に責任を持つ。結果をちゃんと届ければ、彼らは今月も安心して働ける」

若い代表は自社の給与の欄を見た。航は急がせなかった。茶が飲める温度になっていることを確かめた。

「もし、確認が追いつかなかったら」

「追いつくように人と日を組む。ここまで作れる君なら、その順を決められる。資料のこの分け方は、よくできているよ」

航は本心で褒めた。相手の技術を評価し、会社を残してやりたいと思っていた。そのために教えている方法が、誰かの説明を聞く前に完了と書く方法でもあることは、もう褒める気持ちを止めなかった。

若い代表は通常融資の紙を持ち上げた。

「こちらの条件も、書いてもらえますか」

航は頷き、返済の日を記した。相手が二つの道を検討できるよう、どちらの紙も読める向きに置いた。現場の人が何を信じるかという問いには、それ以上戻らなかった。

相手は二枚を見比べた。航は選ぶまで待った。断られても貸すつもりだった。それが、自分は追い込んでいないという証拠に思えた。

机の横には、雇用を終わらせた三人から返ってきた鍵があった。整理するよう言われていたが、まだ引出しへ入れていなかった。猫のシールの端が、少し浮いていた。

若い代表が顔を上げた。

「もう少し、考えてもいいですか」

「もちろん」

航は薄い青の湯呑みを置いた。最初の一回は、自分も長く考えた。その長さを、やめるための時間ではなく、経営者になるために必要な時間として覚え直していた。

相手が考えているあいだ、航は確認報告の見本を開いた。未確認の二つの現場の名を入れ、状態の欄へ完了と書いた。決めるのは若い代表でも、勧めるほうは、もう自分で決めていた。

茶を勧め、薄い青の湯呑みへ手を戻した。

修司と一緒に作った部屋で、航は若い代表の返事を、親切な気持ちで待っていた。
