# 看板のない朝

100円タイクーン 小説稿・BADルート

選択の重さ・結果・生活・余韻 改稿／2026年9月30日。同じ創業と四月の危機から、拡大の判断と、知らせなかった時間が会社の行く先を変える、独立した一冊の創作です。

## 序章｜折り目のある紙

四月の初め、百舎の代表である相良航は、会社を失うときには画面も消えるものだと思っていた。

実際には、画面は何も変わらなかった。

百舎は、客の職場で使う画面や作業の手順を作る、小さな会社だった。昨日、食品卸へ、店からの注文を入力し、倉庫から出す品物と数量を確かめる仕組みを納めた。百舎でいちばん大きな仕事だった。

午前九時十一分、その食品卸の営業担当から電話が来た。注文と納品の連絡を取り次いできた人だった。会社が事業を止めるので、昨日納めた仕事の代金を、来月の予定日に払えないと言った。いつ、どれだけ払えるかも答えられなかった。

納品を認めないという話ではなかった。受領の連絡は既に来ており、百舎はその代金が入るつもりで、製作にかかった人件費や現場へ通う費用を先に払っていた。

電話を切り、航は自分の机で納品後の確認画面を開いた。朝から正しく動いている出荷の記録が出ていた。前の晩、画面と手順表を担当した成瀬澪は、現場の人がその紙を作業服のポケットへ入れて帰ったと喜んでいた。文字の横に指を置く余白があり、四つに折ると、必要な番号が表に出る。

澪が席へ来て、昨日の修正で問い合わせが減ったと報告した。彼女は、褒められたことを隠すのがまだ下手だった。

航は、よかった、と言った。

それから皆を呼んだ。

会計担当の高瀬理恵は、入金予定の一行を空けた。いつものように眼鏡を上げたので、航は一瞬、何とかなる気がした。表を見せられると、その感じは消えた。

来週の給与を払う金は、口座に残っている。しかし給与だけでなく、家賃や外へ頼んだ仕事の支払いも続く。ほかの小さな仕事から入る代金を合わせても、一か月と少しで、予定どおり払えない日が来る。

「完成したんですよね」

澪は聞いた。

航は頷いた。

「使ってもらったんですよね」

「使ってもらった」

彼女は手順表を見下ろした。自分で折った見本だった。折り目を一度開き、また戻した。

倉田修司が椅子を引いた。航と百舎を始め、仕組みを作る仕事と現場での導入を担っている男だった。食品卸の連絡先を航の机から取り、代金について何を確認できるかを書き始めた。焦ると眉間へ出る皺が、その日は出なかった。

泣いてくれればいいのに、と航は思った。

誰が、とは思わなかった。自分より先に、誰かが。

夕方、澪は紙の見本を捨てなかった。透明な袋へ入れ、納品物の棚へ戻した。

航はそれを見ていた。

誰も喜べなくなってからも、紙には、何度も折り直した跡が残っていた。

## 第一章｜三つの青

百舎という株式会社は、印刷所の二階にあった。印刷をするのは階下で、二階では客先の入力画面、配送表、仕事の手順を作っていた。現場へ導入し、使い方を説明し、動かしたあとも直す。航は営業と顧客との調整を、創業社員の倉田修司は実装と現場の導入を担当した。

名前を決めたのは四年前だった。階下の主人が、百まで仕事をしたら、あとは数えなくていいんじゃないか、と言い、修司が笑った。その笑い方を聞いて、航はその名を登記の書類に書いた。

まだ二人が同じ会社に勤めていたころ、修司は駅のベンチで寝ていた。終電にはまだ早く、仕事の電話だけが何度も鳴った。航はそれを見て、起こして電車に乗せるだけでは、何も変わらないのだと思った。

二人で会社を始めた。修司を早く帰せる場所を、航が作るつもりだった。誰も椅子で眠らなくてよく、作った人が作ったものの先を見られる場所。採用の面接では言わなかったが、頭の中では、理想郷という少し恥ずかしい名前がついていた。

代表になる航が株式の八割を持ち、黒崎征一という年長の取引先が、個人で二百万円を出して二割を持った。黒崎は物流関係の営業と導入支援を行う会社の社長だった。二人が独立する前から、修司の作るものと航の客への説明を知っていた。

創業の日、黒崎は出資の書類を机へ置き、延長コードをつないだ。壁の差込口まで、あと三十センチ足りなかったのだ。

「腕はある。あとは、売れるときに売ることだ」

採る人、受ける仕事は航が決める。新しく株を出すときと会社を売るときは、二人で合意する。黒崎の二割は、いつか航が買い取れる約束も書かれていた。二百万円に利益に応じた額を加え、上限は四百万円。出口のない約束にはしたくない、と航が言い、黒崎はその条項を消さなかった。

修司はその紙に署名しなかった。仕事を始める仲間ではあっても、株主ではなかった。航はその違いを説明した。そのころは、説明すれば自分でも忘れずにいられると思っていた。

創業の日、修司は百円の湯呑みを三つ買ってきた。濃い青、薄い青、その中間。いちばん濃いのを自分のものにして、領収書には、お祝いだから、と書いた。

三つ目を使った真帆は、航の妻だった。百舎の社員でも役員でもなく、町の別の工房で本の修復を仕事にしていた。その日は自分の仕事を終え、開業を祝いに来た。まだ修復を覚え始めた彼女の指には、糊が白く残っていた。黒崎が次の商談へ出たあと、三人で水道水を飲み、焼きそばを分けた。航の皿にだけ、肉が一片もなかった。

「社長は最後に取るからだ」

修司に言われ、航は箸で野菜を探った。

黒崎の延長コードは、四年目の今も机の下にあった。最初の客も、食品卸の前の仕事も、この人から紹介された。航は何度も礼を言い、何度か条件に反対した。反対しても、株主名簿の二割はそこにあった。

食品卸からの未入金が分かった四月、黒崎はまた同じ階段を上がってきた。

机に置いたのは、地方の配送拠点をつなぐ仕事の資料だった。発注するのは、事業を止める食品卸とは別の会社である。同じ会社の拠点でも、荷物を受け取り、行き先ごとに分け、次の便へ渡すための一覧表が場所ごとに違っていた。

計画の名は「環」。一つ目の拠点で入力した行き先と箱の数を、次の拠点では自分たちの表へ打ち直している。変更は電話で受け、印刷した紙へ赤字を入れる。その紙と画面を夕方に突き合わせ、翌日の配送表を作る。同じ荷物の情報を写し直すたび、間違いを確かめる仕事も増えていた。

百舎は、各拠点が荷物の情報を引き継いで使える画面を作り、その情報から現場で必要な配送表を出せるようにする。現地で使い方を聞き、画面や紙を直し、操作を説明する。荷物の仕分けや配送自体は先方が行う。新しい仕組みで、実際に出す荷物の行き先と数量を確かめられるか、拠点の担当者と確認するところまでが百舎の仕事だった。

それができれば、夜遅くまで翌日の紙を作っている人を帰せる。

修司は、その会社の拠点を全部一度に受けるのは無理だ、と言った。

最初は三拠点に区切られた。黒崎は紹介と条件の調整をし、使う側の要望と納品の確認は発注元が出す。百舎が何を作り、どこまで引き受けるかを、航たちが答える。黒崎も顧客の会議へ出た。

途中で仕事を増やさないこと、始めるときにも代金の一部を受け取ること。完成までの費用と入金の時期を見比べ、条件を詰めた。正規の着手金だけでは、足りない月が残った。

会議のあと、黒崎は航だけを呼び止めた。

「調査工程の報告を、先に出せないか」

三拠点の現地調査と確認が済めば、その工程の代金を請求できる。まだ訪ねていない場所があることを、黒崎も知っていた。

「帳票は来てる。確認完了として出せば、今月の支払いに回せる。残りは、金が入ってから確かめればいい」

「終わってない調査を、終わったことにするんですか」

「そうだ。今、君が欲しいのは正しい順番か、社員の給料か」

黒崎は静かに言った。航が言葉を言い換えなくても、提案を引っ込めなかった。

報告を出せば、先方はその調査結果をもとに、使う人や切り替えの日を決め始める。あとから確かめて間違っていれば、誰かが決め直す。航は、机に置かれた食品卸の手順表を見た。四つ折りにした紙を、澪がまだ捨てずにいた。

「完了とは書けません」

黒崎はしばらく航を見た。それから、別の紙を出した。

「なら、借りるか」

初回は三百万円。貸すのは黒崎個人で、借りるのは百舎。創業時の出資とは別の契約だった。年六パーセントの利息を払い、最初の一年は元金を据え置き、そのあと三年で分けて返す。追加を含む融資枠は六百万円までだが、頼めば自動で出る金ではない。残る仕事と返済の見込みを、そのつど見る。

「正直な報告に、貸してもらえるんですか」

「君らの仕事が金になると思ってるから、二百万も出した。貸した金も、株の価値も増やしたい。君がいつまでその順番を守れるかにも、興味がある」

航は家へ持ち帰って読んだ。真帆の名前を書く欄はなく、妻の貯金も保証も約束に入っていなかった。自分の判断を、彼女へ黙って背負わせる契約にはしない。そのことを理恵と確かめた。

ひと月の利息は一万五千円だった。元金の返済は一年後から始まる。理恵がそれを支払いの表へ入れると、来月の空欄には金が置けた。その次の年には、以前なかった支払いが残った。

翌朝、航は署名する前に、完了報告の見本をもう一度開いた。こちらなら借りずに済む。調査の残りを自分が早く終わらせれば、誰にも分からないかもしれない。その考えを、昨夜から何度もした。

修司の確認表には、まだ訪ねていない夜の担当者の名前があった。その人は、自分が話していない内容まで調べたことにされる。出荷の前に表を持ち、ここはもう確認してあると考えるだろう。航には、その人を給与の表の外へ置く理由がなかった。

完了報告を閉じた。借入の紙へ名を書いても、給料を必ず守れる会社になるわけではない。正しい順で進めるための金を、自分たちが後で返す。いま選べるのは、そこまでだった。

「これで進めます」

航は理恵の前で言い、署名した。ペン先を離すと、名の最後だけ少し太くなっていた。

食品卸の代金を待つ側から、毎月黒崎へ利息を払う側にもなった。三百万円が口座へ入っても、黒崎の株式二割が減るわけではない。理恵は出資と借入を別々に記録した。

待ってもらう必要のある支払先には、航が相談に行った。理恵も同行し、航が曖昧に答えると、横から日付を言い直した。

契約の翌週、まだ口座に残っていた金で給与を払った。この一回で会社を救えたわけではない。それでも、次の給与や家賃をどう払うかについて、進める仕事と入金の予定ができていた。

その日の退勤後、画面と利用者向けの手順を設計する社員の澪が、片付いた会議机を借りてもよいかと聞いた。航が頷くと、彼女は自分の鞄から、紙を重ねて作った立体地図を出した。紙も道具も私費で買い、休日に作ってきた個人の作品だった。会社の受注には入っていない。

指で坂をたどれる地図だった。

真帆が、修復の仕事で知り合った資料館の人を紹介してくれることになっているという。客から頼まれた画面とは別に、澪が休みの日に作り続けているものだった。

航は、会社を残せてよかったと思った。

その夕方、真帆に電話をかけ、海への旅行を延期してほしいと言った。

彼女には、修復した航海日誌を資料館へ返す仕事があった。自分の分の予約は残すと言った。

「一人で大丈夫？」

「日誌と二人」

真帆は少し笑った。彼女は、古いものを預かるときだけ、抱える箱の持ち方が変わる。

航も笑い、秋には、と言いかけた。

「今は決めないでいいよ」

真帆に言われ、口を閉じた。

家へ帰ると、台所には、先週買った旅行用の小さい醤油があった。宿で釣った魚を食べられるらしい、と真帆が買ったものだった。

どこにも行かない醤油を、航は棚の奥へ入れた。

## 第二章｜六時の店

契約後、百舎は三拠点の帳票を集め、担当者の話を聞いて、試すための画面を作り始めた。正規の着手金と、黒崎から借りた三百万円で、給与と既に作業を終えた取引先への支払いをつないだ。理恵は経理と会社の運営を担当する社員で、発注元が決めた入金日も、取引先から待てると返事のあった日も、同じ表へ書いていた。終わっていない調査の請求書は出さなかった。

六月、最初に現地で試す拠点へ行くと、修司は入口で借りた長靴を片方ずつ別の組から取ってしまった。

履き直しても、右だけ大きかった。受付の人と棚に残った長靴を並べると、修司の左足に合う組の右側がなかった。

「片方だけ、先に現場へ行ったみたいですね」

受付の人が言い、別の一組を持ってきた。修司は礼を言って、両足を入れた。

「仕事の前に、仕事を増やしてしまった」

澪は笑いをこらえながら、彼が脱いだ長靴を元の棚へ戻した。

休憩室へ入ると、澪は机に積まれた紙の山を見た。

朝の表、昼に赤字を入れた表、夕方に渡す表。同じ荷物を扱っても、紙を持つ人によって欲しい順番が違った。彼女は画面を変える前に、机から机へ歩く人のあとをついていった。

七月、技術担当として入社した岡野蓮は、その話を面白がった。画面を直す日と現地へ説明に行く日が重なり、修司だけでは両方を進められなくなっていた。航、修司、澪、理恵の四人だった百舎は、五人になった。

前の勤め先では、仕組みのごく一部しか担当できなかった。ここなら最後に何が起きるのかまで見られる、と言った。

七月の三拠点では、旧来の表と新しい仕組みを並べ、一部の作業を試していた。まだ全部を切り替えてはいない。荷物を間違えずに出せるか、先方と百舎の双方が確認する期間だった。

最初の週、岡野は百舎の作業から変えた。拠点から届く試用結果と配送表の見本を、比較しやすい同じ形へ整理する作業だった。AIも使って時間を短くし、機械が取り違えやすい名前だけは、人が原本と確かめる欄に残した。澪が画面の隅へ丸い顔を描いた。修司が百円ちゃんと呼ぶので、岡野は、安い名前をつけないでください、と言った。

でも顔は消さなかった。

ある木曜、理恵はいつもより早く帳面を閉じた。息子の靴を買いに行くと言った。足が急に大きくなり、かかとを踏んで出ていったらしい。

航もその夕方は早く帰った。

真帆とオムレツを作り、裏を焦がした。焦げた方を下にすれば分からないと言ったのは修司ではなく自分だった、と、なぜか言い訳をした。

「分かるよ」

真帆はひと口食べてから言った。

食べ終わるころ、黒崎から電話があった。

航は皿を流しへ運んでから電話に出た。三拠点で試している画面の評判がいい。八月の正式な切り替えが済んだあとの、次の相談を早めたい、という話だった。

七月最後の日曜、澪の立体地図が、本土の海辺の町で開かれた小さな展示会の机に置かれた。休日の個人出展で、航も真帆も客として訪ねた。真帆が自分の修復の仕事を通じて紹介した住田という人が、来場者の話を聞いていた。島の資料館も担当しており、島の地形や暮らしを手で触って知る展示を、翌春から見せる準備をしていた。古い道の話になり、澪は教える側から聞く側になって、一時間以上そこにいた。

会場の隅には、別の作家の小さな個展があった。窓に灯りのともった家が、紙を切り抜いて並べてある。どの家にも屋根があるのに、間の道が一軒ずつ違った。航はその前で足を止めた。全部の窓を、消さずにおける仕事があればいいと思った。

澪は、展示の箱が閉まる時刻まで住田と話した。航が先に帰ろうとすると、真帆は、私はもう少し見ていく、と言った。航は一人で会場を出た。みなが同じ家へ帰る必要はない。その程度のことが、その日は自然だった。

帰り道、航は、澪にも自分の場所ができたのだと思った。

自分の場所、というときの自分が、誰なのか。

そのころは、考えずに済んだ。

八月、試用で見つかった箇所を直し、三拠点の普段の仕事を新しい仕組みへ切り替えた。行き先と箱の数が次の拠点へ渡り、担当者がその情報から配送表を作る。実際の出荷で使えることを先方と確認し、三か所の導入を終えた。

いちばん早く連絡してきたのは、川沿いの拠点の倉庫主任だった。名前は吉沢といった。

「六時なんです」

電話越しに鍵の音がした。

「六時に帰ると、商店街のコロッケ、まだあるんですよ」

航は笑った。何味ですか、と聞いた。

「普通の。普通のが、ある」

声が少し高かった。

翌日届いた利用記録には、入力し直した回数が減ったと書いてあった。航はそれを読んだ。しかし覚えていたのは、コロッケのほうだった。

三拠点目の代金が入ると、待ってもらっていた支払先へ金を回した。借入の元金三百万円は据置期間のままで残っていたが、理恵は、来月も再来月も給与や家賃を予定どおり払える、と言った。四月に入らなかった代金が戻ったのではなく、「環」の三拠点を終えたことで、当面の支払いをつなげたのだった。

数日後、黒崎が拡大の計画を持ってきた。

## 第三章｜同じに見えた九つ

合計十二拠点。

八月の会議で壁に地図を貼ると、同じ発注元から追加で頼まれた九つの拠点は、既に動いている三つの周囲に点々と並んだ。三つを十二に置き換えるのではない。最初の三拠点の問い合わせや手直しに対応しながら、残る九つを順に新しい仕組みへ移す仕事だった。

四月には、次の入金がなければ会社を続けられなかった。今は、当面の支払いを越す見通しがある。毎月の保守と、小さな改修を増やしながら借金を返す案を、理恵は用意していた。時間はかかる。黒崎の持分を買い取る金は、もっと先になる。それでも、三拠点から先を急がずに続ける案はあった。

九拠点を受ければ、まとまった売上が立ち、その後に保守を続ける仕事も得られる。人を増やし、修司一人に現場と製作を背負わせずに済む。航には、皆が出ていかなくてもそれぞれの仕事を持てる部屋が見えた。

「これが終われば、借りた三百万にも手をつけられる」

航が言うと、黒崎は、利息を払ってくれれば急がなくていい、と答えた。

黒崎は依存が長引くことを恐れていなかった。早く借りを減らしたいのは航のほうだった。会議机の下へ目を落とすと、四年前の延長コードが椅子の脚を回っていた。

黒崎が次の訪問先へ出たあと、航、修司、理恵、岡野の四人は、持ち帰った帳票を広げ直した。

画面は共通にできる。拠点ごとに違う部分は、設定を変えればいい。そうできなければ、同じ苦労を十二回することになる、と岡野は言った。

修司は二拠点を先に訪ねた。古い帳票を持ち帰り、机に並べた。使っている機械も、紙の大きさも違ったが、扱う荷物の情報は似ていた。

「ここをそろえればいけると思う」

修司は、箱の数を書く欄を指した。

理恵は日程を見ていた。未調査の七か所に、鉛筆で小さな三角をつけた。

「全部見てからでは、間に合わないんですか」

「先方が年内にそろえたい。来年の担当者の配置も決めるから」

航が答えた。

「調査を先に別の契約にできないか、聞いてみませんか」

理恵は三角を指した。

航は首を振った。二段階の見積もりになれば、発注元は別の会社の案とも比べ直す。黒崎からそう聞いていた。失うかもしれない仕事を、机の上にいったん置けなかった。

理恵は鉛筆を置かずに待った。

「七か所の仕事が違ったら、何日まで、この金額でやれますか」

修司が既存の三拠点に使った日を示した。岡野は同じ処理をもう一度作らずに済む範囲を示した。どちらも、本当に減らせる仕事だった。航はその横に、まだ訪ねていない場所の名前を書いた。そこだけ、何を減らせるかは答えられなかった。

「条件だけでも、明日聞こう」

そう言えば、理恵はそのまま確認事項へ入れられた。航は水原へ話す文を頭で作った。調査のあとで変わる金額を、今すぐは決められません。その文の先で、相手が別の会社の資料を開くところまで見えた。

「余裕は残す。まず、この形で提案したい」

航は未調査の名前を消さなかった。ただ、答えを待つ項目としては残さなかった。

急ぐ理由は、顧客にもあった。古い仕組みを知っている人が冬に退職する。拠点を行き来している人の負担を減らしたい。同じ会社なのに場所ごとにやり方が違うのはおかしいと、顧客の担当者も長く思っていた。

翌日、航と修司は発注元の会議室を訪ねた。業務責任者として今回の導入をまとめる水原は、二人が広げた紙を見て言った。

「例外があるのは承知しています。そのたびに追加となると、社内で説明できません。通常の出荷ができるところまで、まとめてお願いしたいんです」

通常、という語の横へ、航は丸をつけた。

特殊な仕事は入れない。現場で今できている出荷を、新しい仕組みでもできるようにする。それなら説明のつく約束だと思った。

修司も頷いた。

合計の代金を先に決め、通常の出荷に必要な違いは、その中で引き受ける。最初の三拠点では、途中で仕事を増やさないよう範囲を確かめた。今回は、まだ見ていない拠点の違いも含めて、通常の出荷ができるところまで請け負う。その違いを、航は見落としているつもりではなかった。

航は契約案の欄外へ、未調査の拠点は確認後に協議、と書きかけた。水原はその手元を見ていた。聞き直すなら、いま聞けた。

「最初の三つより、違いが大きければ」

航がそこまで言うと、水原は、通常の出荷ができるところまでという範囲は変えません、と答えた。それが先方の希望だった。航が必ず引き受けなければならない命令ではなかった。

修司が隣で資料を揃えた。ここまで作ったものを使えば、きっと間に合う。航はそれを信じた。信じられなかった七つの現場についても、同じ返事に含めた。

航は書きかけた欄外の条件を線で消し、その条件で受けます、と答えた。

水原は、調査が済んでいない七か所もその金額に入るのですね、と確認した。

航は、はい、と答えた。知らなかったのではない。まだ知らないことを、自分たちなら引き受けられると判断した。

帰る前に、合計額と引き受ける範囲へ、自分の名を書いた。修司は技術の確認をしたが、その額で会社として受ける署名は航のものだった。紙を戻す直前にも、未調査を条件として残す話に戻れた。

水原から、では配置の準備を進めます、と言われた。航は、お願いします、と答えた。まだ訪ねていない場所で働く人の来年も、この紙をもとに組まれ始めた。

百舎へ戻り、二人は理恵と岡野に条件を伝え、四人で作業の予定を固めた。

最初の三拠点と同じだけの日数はかからない。使えるものはできている。移行の説明には人が要るので二人採る。古いデータの整理には外の力を借りる。もう一部屋借りれば、相談する人と作る人が互いを邪魔せずに済む。

理恵が、手直しのために残す日を示した。

岡野は、自分が先に共通部分を整えれば、そこまで使わないと言った。

「使わなくても、消さないでおこう」

航は言った。

慎重に決めている実感があった。反対を黙らせたのでも、表を見なかったのでもない。余裕を残し、人を増やし、先方とも話した。

その余裕を計算するときの基準は、既に終えた三拠点の作業日数だった。下見した二か所の帳票も似ていたので、ほかの七か所にも同じ直し方を使えると考えた。見ていない仕事がどれだけあるかという問いは、作業日数の表には残らなかった。

隣室の鍵を受け取った日、修司は床へ寝転がり、これから机を置く場所の幅を測った。

「一メートル八十」

「お前そんなにないだろ」

「靴込み」

二人で笑った。

廊下から澪が顔を出し、自分も机を運ぶと手を挙げた。

この部屋ができて嬉しかったことを、航は最後まで、間違いだけにはできなかった。

その晩、岡野は翌月の予定に、共通部分を整える週を書いた。修司は現場へ行く日を分け、誰かに教えられる時間が増えると話した。航は二人の声を聞き、この選び方でよかったと思った。

まだ見ていない七か所には、誰も間違いの印をつけていなかった。航はその空白を、これから自分たちが埋められる余地として読んだ。

## 第四章｜冷蔵庫の裏

九月の初め、既存の三拠点から数えて五つ目の拠点で、新しい画面を試すと、朝の便へ積む荷物の数が合わなかった。追加九拠点の二か所目で、まだ試用の日だった。現地には航と修司が来ており、普段の出荷は古い表で続けていた。

行き先も品物も、一覧には載っている。荷物そのものが抜けているのではない。どの運送会社へ何箱渡すかを画面でまとめると、現場の人が用意した数と違った。

現場の女性が、休憩室の冷蔵庫へ歩いていった。

その横の隙間に、細いホワイトボードが立ててあった。

「こっちに書くんです。曜日で変わる人」

配達する先ではなく、途中で荷物を受け取る別の運送会社が、曜日ごとに違う。古い一覧では備考欄へ名前を入れることになっていた。しかし印刷すると字が小さすぎたので、いつの間にかボードで確かめるようになった。作業員はその日の会社名を見て箱をまとめる。百舎が受け取った一覧だけでは、その振り分け方を再現できていなかった。

「それ、前に聞いたときは」

修司が言いかけた。

女性は困った顔をした。

「画面の話を聞かれたから」

彼女にとってボードは、画面の不足を補う例外ではなかった。毎朝そこへ立って書く、普通の仕事だった。

修司は、すみません、と言った。

帰りに、航と二人で一時間以上、駐車場から出られなかった。

曜日ごとに荷物を渡す会社を変えること自体は、画面の作りとして難しくない。だが、これを入れなければ、その拠点では普段の荷物を出せない。八月にまとめて引き受けた範囲に入る仕事であり、見つけた分だけ代金が増えるわけではなかった。

他の拠点にも、聞き方が違えば出てくる仕事があるのではないか。既にある表へ情報を足すだけでは、今の人たちが判断している順番を移せない。

「七つ目も見てくる」

修司は予定を開いた。

「来週の説明は？」

「俺が両方行く」

言ってから二人とも黙った。

百舎へ戻ると、九月に採った小池と阿部が、自分の名前の入った新しい連絡先を確かめていた。小池は利用者への説明と現場の導入、阿部は画面の設定と、手順どおりに動くかの確認を担当する社員だった。最初の三か月は修司や澪につき、客先での仕事を覚える約束で入社した。小池は読み方を間違えられやすい客先名を紙へ書き、阿部は会議の時間を自分の手帳へ移していた。

これで百舎は、代表の航を含めて七人になった。仕事を分ける相手は増えたが、最初から一人で現地を任せられるわけではない。修司や澪が付き添う日も予定に入っていた。

航は二人へ、来てくれてよかった、と言った。

本当だった。まだ悪い話だけをするつもりにはなれなかった。

翌週の会議に出すため、修司は報告を書いた。五つ目の試用をいったん止めること。他の七か所にも、一覧表に出ていない作業があるかもしれないこと。全体の予定と費用を見直す必要があること。

航は黒崎に先に見せた。資金の相談も要ると思ったからだった。

「全部に問題があると、今、言うのか」

黒崎は最後の二行を指した。

「まず一か所を直してみろ。直せたあとなら、一週間余計にかかっただけの話になる。先方へ不安を売ってどうする」

「他でも違いが出れば、年内がずれます」

「まだ出てない。報告を待つか決めるのは君だ」

航はその夜、報告を送る画面を開いた。全体の日程と費用を見直す必要がある。修司の最後の二行は、まだ知らないことがあるという、正確な説明だった。

水原へ出せば、応援の配置を止めるか、別の現場へ回す前に余裕を残すかを相談できる。九つを受けた条件も聞き直せる。年内という約束を守れるかどうか、分かっていないと認める必要があった。

電話をかけようとして、発信の画面まで開いた。

新しい二人は来てくれてよかったと言われたばかりだった。岡野は共通部分を作る週を待っていた。最初の三つでできたことを、二つ目の試用で早くもできないと言う。水原だけでなく、彼らにも、その順で知らせることになる。

一か所なら、自分たちで直せる。その一か所を直してから話せば、まだできる会社として説明できる。

航は電話を閉じた。報告の末尾へ、ほかの拠点については確認できていません、と自分で一文足した。そこまで伝えれば、全体に問題があると決めつけずに、必要な注意を知らせられた。

送信する前に、その一文と修司の二行を選び、消した。

五つ目の現場には、新しい画面への切り替えを待ってもらう。水原には、その一か所を直している、とだけ伝える。ほかの現場の配置まで変えさせるのは、調べてからにする。航は削ったあとの報告を送り、送信した時刻を確かめた。

消した二行は自分の手帳へ写した。忘れないためだった。忘れなければ、隠していない気がした。

修司は送信した文を見て、顔を上げた。

「全体の話は」

「一週間だけ、くれ」

「先方は、予定どおりに進むつもりだぞ」

「来週、俺が話す」

一週間で直せた部分はあった。そのために七つ目の下見が遅れた。遅れた下見で空箱の返却が別の紙になっていると分かり、航は、これも確かめてから、ともう一度待った。

二度目には、最初に送らなかった報告を開く時間が短くなった。今から知らせれば、一週間前にも分かっていたと答えなければならない。直す仕事へ戻れば、その問いを今日だけは受けずに済む。

修司は、水原さんの予定も動く、と言った。

「来週には、残りも揃う」

航は揃っていない予定を口にした。黒崎へもう一度決めてもらうことはしなかった。

水原から、十一月の応援要員を別の拠点へ戻してよいかと連絡が来た。新しい仕組みになれば必要な手間が減るはずだった。

航は返事の最初に、全体の確認は残っています、と打った。水原の質問は、十一月に何人をどこへ置けるかという質問だった。百舎の作業が忙しいこととは別に、相手が今日決める必要のあることがあった。

その文を残せば、留保している理由を尋ねられるだろう。航は一度、送信先を見た。まだ返事をしないという選択にも、相手を待たせる結果があった。

書いた文を消し、今のところ予定は変えていません、と答えた。

今のところ、と書いた指は、自分で動かしたものだった。

三週間後、九拠点を調べ直さなければ、残る日程を約束できないと伝えたとき、水原は声を荒らげなかった。

「いつ、分かったんですか」

航は、冷蔵庫の裏のボードを見た日を答えた。

「その日に、分かっていないと言ってほしかった」

既に別の現場へ回した応援要員を戻すには、別の会社へ仕事を頼まなければならない。古い表を知る担当者には、退職前の説明日を追加で作ってもらう。三週間は、百舎の机の上だけで過ぎたのではなかった。

「配置を変える前に、あなたに聞きました」

水原は送った問い合わせを画面へ出した。

「この返事で、別の拠点へ戻していいと判断しました。そこでは、もう、その人がいる予定で仕事を受けています」

航は、修正を終えてから確かなことを伝えたかった、と言った。

「確かな説明を待っていたんじゃありません。予定を変えるかもしれないと、決める前に知りたかったんです」

水原は一度言葉を切った。呼び戻す費用だけではない。その担当者に、行くと言った現場へ事情を説明させる。代わりの人に、知らない表を覚えてもらう。現場ごとの予定を、もう一度確かめる。航が報告を待った理由は、彼らに代わってそれを決められる理由にはならなかった。

その日の夕方、水原は戻せない要員の代わりに入る人と、古い一覧の読み方を確かめた。最初の説明で分かったつもりになっても、荷物を前にすると迷う箇所があった。教える担当者は冬の退職前に休みを取る予定で、追加の説明日を作れば、家の片付けに使う日が減った。

「この日は、午後までなら来られます。夕方は、もう約束があるので」

担当者は暦を指した。水原は承知しましたと答えた。百舎へ先に知らせてもらえていれば、勤務中に確かめられた順番を、今はその人が休みに使うはずだった日へ足す相談をしていた。

水原は帰宅の連絡を遅くなるに変えた。残った人たちへ手順の写しを渡し、一度ずつ説明してもらった。仕組みを切り替えれば早く帰れる、と自分が話した相手だった。

＊

水原は自社の担当者を増やし、倉庫の奥から過去の帳票を集めさせた。足りなかった紙が箱で届いた。

澪が箱を開けると、乾いた埃が光った。航は、直すための資料がそろった、と言いかけた。修司の机には、三週間前に作った報告がそのまま残っていた。

理恵は届いた箱と、増えた出張費の明細を見比べた。調べ直すあいだにも七人の給与と二部屋の家賃は要る。完成が延びれば最後の入金は先へ動く。手直し用に残した日数も、聞き直しと移動で使っていた。

「九月のこの日に相談できた分と、今からできる分は、分けて残します」

彼女は表の端へ日付を書いた。

航は、分かりました、と答えた。手帳の二行は、もう取り返すための覚え書きにはならなかった。

小池は、次の説明でいつ切り替わると話せばよいか尋ねた。航は日付を決め直してから伝えると答えた。彼女は手順表へ鉛筆で印をつけ、消せるようにしておきます、と言った。

その鉛筆の印を見て、航はようやく、黙っている間にも相手は何かを決めるのだと分かった。分かったあとでも、自分の机に来た別の返事を、すぐには返せなかった。

## 第五章｜渡せる時間

航が全体の報告を留めていた三週間のあいだに、澪から退職の相談があった。秋分の日の前だった。

夏の展示会で出会った住田から、立体地図を含む島の展示を一緒に作らないかと声をかけられていた。十二月から二年の契約で、最初の公開は翌春になる。百舎での最終日は十一月三十日。

航は、隣室の新しい机を見た。まだ傷のない天板だった。ここなら地図を広げられると思って、奥の席を彼女のために空けていた。

「今、この状態で？」

澪は頷いた。

ひどい質問だったと、航にも分かった。それでも出てしまった。

彼女は手帳を開き、引継ぎに使える日を書いた。画面と手順のうち、自分が担当する作業は十一月前半までにまとめる。設定と動作の確認を阿部へ、利用者への説明の段取りを小池へ渡し、残りの期間は一緒に確かめる。技術上の判断が要るものは修司と岡野に残し、顧客にも誰へ尋ねればよいか知らせたい。

「最後まで、というのは」

航はそこまで言って、日程表を見た。

五つ目の試用は止めていた。全体の完成日も動かすべきだと航は知っており、まだ先方には伝えていなかった。最後まで残れと言っても、それが何日までになるか、今の航には約束できない。十二月から澪が島で作る展示の準備まで、こちらの遅れに合わせて待たせることになる。

澪は待っていた。

「一度、日程を組ませてほしい。金曜までに返事をする」

航はそう言い直した。澪は、入居する日と荷物を送る日を決めたいので、引継ぎをいつ終えられるか、その金曜には教えてください、と答えた。退職したい日を、航が許すまで決めないという話ではなかった。十一月の自分の時間を、会社の仕事と引越しに分けるための返事だった。

金曜には、水原への報告を作っていた。澪への返事も、途中まで書いてあった。十一月三十日を最終日にする。引継ぎの確認は、その前に終える。書けば、足りない日を誰が持つかまで決めなければならなかった。

航はその文を読んだ。終わらない分を修司と岡野へ戻すことはできる。自分が顧客への説明を増やしてもいい。澪が島へ行く日を残せば、会社の予定のほうを動かすことになる。

彼女の部屋まで、自分の返事の先にあることは聞いていた。

画面の端へ彼女の名前が出た。送信を押せば、今日の約束は守れた。航は下書きを閉じ、来週でいいかと澪へ聞いた。

「向こうも住む部屋を決めるので」

澪は言った。航は、分かってる、一度だけ待って、と答えた。

彼女は待つことになった。航が分かっていると言ったことを、今度の金曜なら守れるという意味に受け取ろうとした。

土曜、資料館の住田へ、百舎の引継ぎの返事がまだ来ていないと電話した。最初に紹介された部屋は、歩いて通える場所で、展示の材料を運ぶにも都合がよかった。大家は、別の人からも希望が出ているので、入居日を先に決めた人へ貸すと伝えてきた。

澪は窓の写真を何度も開いた。会社へもう一度電話をかければ、航は週明けにはと言うかもしれない。住田へ、もう少しだけと頼めば、今度は島の人を待たせることになる。

「そこは、ほかの方で進めてください」

住田へ言った。電話を切ってから、泣くほどではないと思った。自分で断ったのだから、とも思った。けれど、窓の写真を閉じた指はしばらく動かなかった。

翌週、航は十一月三十日までに引き継ぐと決めた。資料館が紹介できた最初の部屋は、そのあいだに別の人で決まっていた。澪は自分で不動産屋に電話し、港からもう少し遠い部屋を借りた。

歩いて通えると思っていた道を、地図で引き直した。展示の材料を持つ日は、両手がふさがる。天気の悪い日にどう行くか、不動産屋へバスの時刻も聞いた。朝の一便に乗るには、材料箱を持って停留所へ歩く時間も見込み、早く家を出る必要があった。

最初の部屋に置こうとしていた大きな作業台は、運ばないことにした。別の部屋の寸法で材料箱の置き場を決め、引越しの見積もりを取り直した。同じ島で働ける。それでも、最初に準備した暮らしと全部同じにはならなかった。

月曜、澪は航へ、最初の部屋は借りられなくなりました、と伝えた。

「ごめん。別のところは、見つかった？」

航は尋ねた。

「見つけました。探したので」

澪は答えた。その声が普段より平らだったので、航は怒っていないのかと思いかけた。

「言った金曜には、返事をしてほしかったです。無理なら、無理と。その返事が来ないあいだ、私は、あっちへ何も言えなかった」

「全体の予定が変わっていて」

「私の予定も変わりました」

そこで澪は口を閉じた。怒るための言葉をもっと言うこともできた。航に気を遣って終わらせることもできた。彼女は、もう確定した入居日を示した。

「引越しの日は変えられません」

彼女は今度は、日付に線を引いた手帳を机へ置いた。

航は、その日付を自分の予定にも書いた。

「次に変わることがあっても、この日は待ちません。引継ぎで足りないところは、その前に決めてください」

航は頷いた。会社が終わるまでいてくれという頼みを、もう一度考えていた自分に気づいた。彼女が失った部屋を、次の会社への親切で埋めさせようとしていた。

その夜、澪は家で、新しい部屋へ持っていく物の一覧を作った。転職したかった気持ちは消えなかった。会社で学んだ説明も嫌いにならなかった。ただ、航から返事が来るまで自分の予定を空ける欄は、もう作らなかった。

＊

その夜、航は会社で、澪の引継ぎの日を表へ入れた。それで優しい人間になれた気は、少しもしなかった。

澪がいなくなったら困る。引き受けた自分たちと、一緒に困ってほしい。そういう望みは、正しい言葉へ直したあとも残った。

修司に話すと、彼は作業表を取り出した。

「説明を全部、澪にさせてたからな」

「彼女がうまいから」

「うん。だからその分、俺たちは覚えなかった」

小池が一つ目の説明を引き受け、阿部が横で設定を確かめることになった。澪は客の前へ出る前に、何度も練習するつもりだったらしい。二人は一度やってから、先に現場へ行きたいと言った。

「何を分かってないか、ここだと分からないので」

帰ってきた三人は、机で説明書を直した。澪の作った頁の順番が変わった。澪は少し迷ってから、自分の名前が入った古い見本へ線を引いた。

十月の初め、島から澪の自宅へ、大きな封筒が届いた。週末に中を見た彼女は、月曜の退勤後、会議机を借りたいと航に頼んだ。勤務中の引継ぎ資料を棚にしまってから、自分の封筒を開いた。

海岸線を木で削った、島の地図の試作品の写真だった。地元の職人が作ったという。指でたどるには道の幅が足りない箇所に、澪は鉛筆で小さな矢印をつけた。写真へ修正箇所を書いて送り、次の試作で手触りを確かめるのだと言った。

航は通り過ぎかけて、足を止めた。

「うまくいってる？」

澪は写真を回した。

「ぜんぜん。道が狭すぎるんです。正しい形なのに」

嬉しそうな声だった。

航は、その声に腹を立てかけた。こんなときによそで嬉しそうにするな、というあまりに幼い言葉を、胸の中で聞いた。

彼女の隣へ座ることは、その日はできなかった。

でも翌週の仕事を増やして、その時間をなくすこともしなかった。

澪が自分の封筒を持って帰ると、資金の相談で残っていた黒崎が、さっきの地図について聞いた。

「会社で売ればいい。資料館の仕事ごと取って、彼女には担当で行ってもらう。給料も払って育てたんだろう」

「休日に、自分で作ったものです」

「なら本人と相談だ。ここが危ないと分かれば、出してくれるかもしれん」

航は澪の机を見た。社長がその相談をすれば、会社の危機を知っている彼女は、断る前に皆の顔を思い出すだろう。金曜まで待ってと言っただけで、彼女は部屋を一つ失っていた。

「会社の売上には、入れません」

黒崎は、もったいない、と言った。

航は空いた机を拭いた。作品は澪と一緒にここを出ていった。待たせた一週間も、同じように返せればよかった。

翌日の夕方、澪は入居の書類を送ったと話した。航は、よかった、と答え、そこで終えた。どんな窓なのかと聞くのも、その返事を遅らせた理由をもう一度説明するのも、自分のためになりそうで怖かった。

彼女が退勤したあと、会議机は空いた。航はその空きを見ながら、今度は会社の作品だとしなかったことを、一週間待たせたことへの埋め合わせに数えないようにした。

## 第六章｜椅子の代金

外の作業を引き受けてくれたのは、樋口という男だった。

以前から百舎の客先で、配線や古い機械の確認を頼んでいた。父親から引き継いだ、小さな会社の代表だった。打ち合わせに来ると、入口で靴の底を二度こする癖があった。

今回は現場の資料集めも頼んだ。知らない機械を勝手につながず、作業員が昼食へ出たところで声をかけ、昼休みを全部使わないよう話を聞く。速くはないが、戻ってきた紙には、あとで困るところが書いてあった。

十月の初め、調査をやり直す日程と、導入後の保守で返す案を出し、百舎は黒崎からさらに二百万円を借りた。利率も、新しく入った金の元金を一年据え置くことも、最初の契約と同じだった。四月分と合わせて五百万円になった。

黒崎は顧客へ隠していた三週間の報告も読んだ。今回は貸すが、この計画で返せなくなれば残る枠は出せない、と言った。航が最初の虚偽を断ったせいで、条件を変えたのではなかった。理恵も同じ資料を見て、二百万円で余裕ができるのではなく、今の予定までしか買えない、と言った。

航は樋口へ電話し、今回の支払日は大丈夫です、と伝えた。その言い方を、理恵には確かめなかった。

樋口は電話で、来月の人の配置を決められるので助かります、と言った。若い社員と古い機械を見る予定を合わせていた。航は、その先の仕事もお願いしたいと話した。断られずに話が進むことに、体が楽になった。

電話を置くと、理恵はまだ支払いの表を確かめていた。大丈夫と言う前に、一緒に見ることはできた。航は相手が安心した声を思い出し、今から条件を言い足すのは、かえって不安にさせると思った。

十月末、追加融資を入れても、樋口が済ませた調査の請求に全額を払う見通しが立たなくなった。調査が増え、予定どおり終わると思っていた拠点の確認も延びていた。

一週間前、理恵は樋口の請求書を航の机へ置き、全額を予定日に払えるという説明はもうできません、と言った。航は、顧客から早めに受け取る相談をしていると答えた。

「返事が来れば払えることと、今、払える見込みを伝えることは、分けてください」

航は樋口へ送る文を作った。予定日に全額をお支払いする見通しが崩れています。顧客と前倒しの入金を相談していますが、まだ確定していません。

正確な二文だった。それを送れば、樋口は次の調査を引き受けるかどうか選び直すだろう。調査の人が減れば、残る確認も遅れる。航はその先を考えた。樋口の会社で今日決める配置もあると言われたのに、自分の現場が遅れる順番だけを追っていた。

水原から返事が来てからなら、悪い知らせと払える日を一緒に伝えられる。そう決め、送信しなかった。

翌日、樋口から予定確認の連絡が来た。資料は週明けに送ります、と航は返した。支払いの二文は下書きへ残した。別の質問には返すことで、連絡を絶っているわけではないと思えた。

＊

同じ週、樋口は会社の白板に、若い社員と出る二つの現場を書いた。百舎の分が入れば、先に払った外注費を口座へ戻し、次の作業に必要な部品を買える。若い社員が、前に頼まれた別の現場も行けますかと聞いた。

その現場は、返事の期限が迫っていた。同じ日には両方行けない。樋口は百舎へ確認し、資料は週明けに送ると返ってきた文を読んだ。

「こっちを空けておく。前のほうは、今回は断ろう」

若い社員は、分かりました、と答えた。これから覚える仕事の予定を、自分のノートへ移した。

樋口は別の客へ電話をかけた。せっかく声をかけてもらったが日が重なる、と説明した。次にはお願いしますと言われ、こちらこそと返した。断った仕事が他の会社へ回ったあとで、入るはずの金を見直すことになるとは、そのときは知らなかった。

＊

航の下書きは、一週間、送信済みにならなかった。金が確定しないまま日だけが減った。

期日の二日前に、樋口へ百舎に来てもらった。

「大丈夫って、言いましたよね」

樋口は椅子へ座らずに言った。

四月にも待ってもらった。その分は、三拠点の代金で払っている。今回は新しい仕事の代金だった。樋口は十月初めの電話を信じ、若い社員を次の現場へ回すつもりで、別の仕事を断っていた。

航は、次に払いたいと考えている日付を言った。顧客から早めに代金を受け取れれば、という予定で、入金日はまだ決まっていなかった。

樋口は鞄から手帳を出した。

「その日には、入るんですか」

「先方と相談しています」

「相談してるのと、入るのは、違うでしょう。借りられたから大丈夫だと、俺には聞こえました」

航は頷いた。

隣室から椅子を引く音がした。買ったばかりの椅子は、床を傷つけないよう、まだ脚に保護の袋がついていた。

樋口がそちらを見た。

「いい椅子ですね」

その声に皮肉は少ししかなかった。その少しが、航にはこたえた。

樋口の会社では、仕事を頼む先の支払いは済ませていた。営業用の車の買い替えを延ばした。車検で直す箇所が増え、その金を別に出さなければならなくなったという。

「若いのに、予定を変えるって、俺が言わないといけないんです。あいつは、こっちで仕事を覚えるつもりで日を空けた。今から別の現場へ入れるか、俺がまた聞いて回る」

樋口は手帳の二つの予定を指した。

「仕事をした分は請求してます。頼まれたものが分からなくて、先に帰ったわけじゃない。その金を待って、うちでも次の仕事を決めたんです」

航は、分かっています、と答えた。

「何日前から、分かってました？」

樋口は尋ねた。航は一週間前と答えた。

樋口は手帳を押さえた。指が白くなるほどではなかった。動かさないことに、力が入っていた。

「払えないかもしれないって、先週でも言ってくれれば、別の現場に頼めた。今からじゃ、そこも埋まってます」

航は謝った。

「もう少し早ければ」

樋口は同じ言葉をもう一度言い、そこでやめた。

「今日、全額は決まらないんですね」

航は決まらないと答えた。今度は希望する日を、入る日として言わなかった。樋口は、では決まっていないと持ち帰ります、と言った。

「それで、次の拠点は」

樋口が尋ねた。

「資料を送るので、予定どおりお願いできれば」

言った瞬間、自分が何を頼んでいるか分かった。

樋口は手帳を閉じた。

「そこは、受けません」

航は頷いた。

「うちが断れば、困るでしょう。でも、俺も、払う金が分からないまま、人を出せません」

樋口は資料を受け取らなかった。航は無理をお願いして申し訳ありませんと言った。その言葉は、言い終われば自分だけが少し楽になる言葉だった。返る金も、戻る現場もなかった。

樋口が帰ると、理恵が隣室から来た。相談の席へ同席しようとしたが、航が最初は一人で話すと言ったのだった。

「何と言いましたか」

航は、やり取りをそのまま話した。

理恵は、これから調査する拠点の予定から樋口の名前を外した。引き受けてもらえなかった分は、百舎が自分たちで行くか、別の相手に頼むかを決めなければならない。空いた仕事を誰に渡すかは、まだ書かなかった。

航は、会社を守るためにしているのだ、と言いそうになった。

百舎の支払いを先へ延ばせば、樋口の会社では、入るはずだった金を別のところから用意しなければならない。百舎の椅子を残すために、よその会社が必要なものを買えなくなる。

そのことを、樋口に説明させてしまった。四月に虚偽の報告を断った自分も、今月は同じ相手へ、大丈夫という確かめていない言葉を渡した。金が入れば本当になるつもりだった。

その晩、航は隣室の椅子へ座った。背中にうまく沿う、よい椅子だった。

別のものを買えば、樋口へ払えた額が増えた。

しかし、買わなかったことにはできなかった。

机へ戻り、支払日を確約していない相手を、理恵と一緒に一人ずつ確認した。

＊

樋口は会社へ戻り、白板の現場名へ線を引いた。若い社員へ、百舎の次の調査は受けないと伝えた。

「今やった分は、入るんですか」

「全額をいつ払えるかは、決まってない」

社員はノートを見た。返事を待つ間にも、自分の給与の日は来る。樋口は給与を待ってくれとは言わなかった。ほかの受注と手元の金を確かめ、何を先に払うかを帳簿で組み直した。

その夜、断った現場へもう一度電話した。担当する会社は既に決まっていた。空いた一日だけでもと聞いたが、全部の機械を続けて見る仕事だった。相手はすまなそうに断った。すまなそうな声でも、仕事は戻らなかった。

車の販売店には、更新をいったん見送ると伝えた。古い車を直して乗る費用を聞き、作業できる日を選んだ。車が使えない間に、誰をどの現場へ送れるか。その予定まで変わった。

樋口は若い社員へ、明日は別の機械を一緒に見よう、と連絡した。大丈夫と続けかけ、消した。百舎へ怒ることと、自分がこの社員へ言えることは、同じではなかった。

## 第七章｜ここから止める費用

十一月の半ば、航と修司は、黒崎の会社へ行った。

完成までに必要な日数を数え直し、終えた仕事と残る仕事を分けて持っていった。十二拠点すべてがそろう前でも、導入を終えた分を確認して代金の一部を払ってもらえないか。完成まで待っていては、その前に必要な支払いができない。黒崎は水原に連絡し、翌日の会議を入れた。

「なぜここまで増えた。二百万を入れたときの予定から、何が変わった」

修司が資料を開いた。

荷物の数を同じように書いていても、数える単位が違う。空の箱を翌日に戻す記録が、出荷とは別の紙にある。情報を一つにすれば済むと思っていたが、誰がいつ判断するかを一つずつ確かめる必要があった。

「機能を欲張ったのか」

「それも止めました。でも、止めていい追加と、止めると普通に荷物が出なくなる部分を、最初に分けきれてませんでした」

修司は、机の端を見た。

「自分なら分かるつもりでした」

黒崎は、貸付の六百万円という枠を指でなぞった。

「あと百万も、出せば残るわけじゃないな」

航は、今の受注だけでは返せる見込みを示せない、と答えた。黒崎は二百万円を出したときの約束を変えず、追加融資は断った。借金を増やせば助かる時期は、すでに過ぎていた。

「だが、会社の箱を残すやり方ならある」

黒崎は別の紙に、人件費を書き出した。岡野のAIと共通処理で、確かに短くなった作業はある。説明書をまとめる手間も、帳票の整理も減っていた。

「小池と阿部は切る。残る説明は録画にする。理恵の仕事も外へ出せる。次に修司が高くなったら、そこも考える。空いた時間を休みにしていては返せん」

修司は紙を見た。自分の前で自分の値段が引かれるのを、初めて聞く顔だった。

航には、三人分の支出がなくなった表が見えた。新しく採った二人と、四月から期日を言い直してきた理恵。岡野の改善でできた余地を使えば、表の最後は少しだけ上がる。

三人の名を外した紙へ、航は手を伸ばした。会社という名前が残れば、後で採り直せるかもしれない。いまの社員でなくても、仕組みと客が残れば、自分はまた誰かを早く帰せる。そこまで考えた。

紙の上では、小池が現場で説明に立つ日も、阿部が設定を確かめる日も空白になっていた。消えた給与の代わりに、誰がその日を受け持つかは書かれていない。

航は小池の手順表を思い出した。初めての質問に備え、余白へ自分の答えを書いていた。阿部は子どもの迎えに行くため、現場から戻る時刻を確かめていた。理恵は、支払えますかと聞く側だけでなく、支払われる給与で暮らす側でもあった。

会社を失えば、その三人だけでなく全員に次の仕事を探してもらうことになる。残すと言うだけでは、来春の給与を出せない。黒崎の案を断る前にも、その事実から目をそらすことはできなかった。

「それで残る導入は、誰がやるんですか」

「客に覚えてもらう。全部、君らの仕事にするな」

「そこまで説明すると、契約したのは僕です。まだ二人とも、教わっている途中です」

航は名前の上に引かれた線を見た。二人を残すと言ったあとで、会社ごと職を失わせるかもしれない。その未来があるから、目の前の線を消すだけで誰かを守れた気にはなれなかった。

「社員を減らして、引き受けた説明まで無かったことにはできません。続けられないなら、どこまで終わらせて閉じるかを話したい」

黒崎は紙を航へ寄せた。

「ここを潰して、次の職場まで良い会社だと約束できるか」

できない、と航は答えた。

「僕の見積もりの間違いを、二人が役に立たないという話にはしません」

航は名前を消した紙を、署名せずに黒崎へ戻した。

「今、約束した仕事を終える範囲と、払うものを出し直します。会社を残せる数字でなくても、出します」

言えば一つの不正は断れた。その言葉だけで、全員の来月は埋まらなかった。修司は横で紙を受け取り、残る説明の日を数え始めた。航も表を開いた。三人を切らなかった立派な人間として帰る日には、できなかった。

小池がまだ一人で全部を説明できないことが、自分の責任として残った。守るために採った人へ、働き続けられる会社を用意できなかった責任も残った。

黒崎は人件費の紙を閉じた。黙ったまま電話帳を開き、途中の仕事を別の会社へ引き受けてもらう案を作り始めた。切り捨てる案を断った罰として、動くのをやめる人ではなかった。自分の出資も貸付も、この会社の後始末につながっている。

黒崎が相談した別の開発会社の担当者は、百舎へ来てくれた。

何が必要かを調べ、引き受けられる範囲を示した。彼らが途中から覚えるための時間が要った。既に動いている拠点の対応もある。百舎が手を引けば、百舎の給与が即座に要らなくなるわけでも、借りた部屋をその日に返せるわけでもなかった。

縮めるにも、金が要った。

水原は、代金のうち完成前に支払う分を増やす案を社内へ持ち帰った。一部は認められた。今は別の用途へ回す予定だった金を用意するので、予定していた倉庫の修繕が遅れることになった。

百舎には当面の金が入る。ただし、早く受け取る分は最後に受け取る代金から減る。調査や手直しで増えた費用そのものを、前倒しの入金だけで取り戻せるわけではなかった。

「これで足りますか」

水原は聞いた。

航は、一瞬頷きそうになった。

感謝を示すには、助かったと言うべき気がした。

理恵が隣で、紙に指を置いた。

「今月は越せます。ただ、最後までの不足は残ります」

航はそのとおりだと言った。

水原は椅子に背を預けた。

「現場には、いつ切り替えると伝えればいいんですか。新しい方法を試しているところも、古い方法のまま待っているところもあるんです」

試す日だけ新しい画面を使い、翌日は古い表に戻す拠点もあった。正式に切り替える日が決まらなければ、担当者の配置も、説明のために人を集める日も決められない。

百舎が頑張ればすべての人の負担が減る、という図は、もうどこにもなかった。

黒崎は、完成と引継ぎの調整に、自分の会社の担当者を出すと言った。理恵はまず、その会社に頼む仕事と費用を確かめた。黒崎個人への借入五百万円と、彼が持つ株式二割は、別の話として記録した。

何度かの相談で、残る仕事を区切り直した。百舎が十二拠点への導入と、普段の作業の切り替えを終える。先ほど相談した会社には、完成した仕組みの保守を引き受けてもらう。そのために、百舎は画面や処理の資料だけでなく、各拠点に何を説明し、どんな問い合わせが残っているかも渡す。

そこまでの費用を、誰が、いつ負担するかも整理した。顧客の追加負担も、黒崎の会社が引き受ける分もあった。これから完成と引継ぎをするために必要な金と、既に発生してまだ払えていない金を、理恵は分けて表にした。

残る仕事を終えるための相談は進んだ。水原は、保守だけを百舎に残す案には同意しなかった。

「今度、予定が危なくなったとき、早めに知れる会社へ任せたいんです」

最初に約束した金額を超えたことだけが、保守を失う理由ではなかった。航は、自分が消した二行の報告を、水原へ渡した。知らずに約束した範囲と、知ったあとにも知らせなかった期間を、分けて説明した。

既に増えた費用が消えるわけではない。将来の保守収入を失ったあと、未払いと五百万円の借入を抱えて百舎を続けられる見通しは立たなかった。黒崎の出資を返せば解決するという話でもなかった。株にした二百万円は、返済日を待つ金ではない。その価値を失わせることについても、航は株主へ説明しなければならなかった。

十一月、協議を重ねたあとの金曜に、理恵はその表を全員へ渡した。航は、九月に全体への影響を知りながら、顧客への報告を待ったことも話した。

「閉じる可能性を含めて相談を進めます」

航は言った。

岡野は、共通部分の開発はどこまで残りますか、と聞いた。小池は、現場で私たちは何と説明すればいいですか、と続けた。二人とも、会社が危ないという話は分かっていた。それだけでは翌日の仕事を決められなかった。

航は、まだ決まっていない、と答えた。そう言うと、そのまま終えたくなった。終えれば皆は黙り、自分が知らないことをもう一度尋ねられずに済む。

理恵が表の端へ次の相談日を書いた。航はその日までに、続ける仕事と引き受け先へ渡す仕事を知らせると約束した。決まらなければ、何が残っているかを話す。決まるまで返事をしない、という約束にはしなかった。

阿部が紙を裏返した。裏には何もなかった。

「来月の予定、家で決めないといけないので。決まったところからでいいです」

航は手帳へ書いた。

仕事を完成させる方法の横に、皆がここを離れるための話を書く場所を作った。

会議のあと、阿部は家へ電話をかけた。来月の迎えは、まだ今の予定で考えてほしい。変わると分かったら先に伝える。自分が言われたとおりの文を、そのまま繰り返す前に、次に会社から説明を受ける日も伝えた。

小池は帰りの電車で求人を開いた。今の給与より低いもの、仕事の時間が違うもの、経験をもう一年求めるもの。閉じるかもしれないという一言は、夜になると、その違いを一つずつ選ぶ話になった。

翌朝、二人はいつもの時刻に来た。客への説明に使う紙も、確認する設定もあった。航は彼らの普通の声を聞き、昨夜の話が小さかったと思わないよう、机へ次の相談日を置いた。

## 第八章｜向こうの机

十一月のあの金曜より前、真帆は自分の勤める工房で本の修復を続けながら、古文書の扱いを学ぶ講習へ通い始めていた。講習は月に二度、県外の町で開かれた。会社の会議には出ないので、百舎の様子は航が家で話す範囲でしか知らなかった。

初めて行った日は、航が駅まで送るはずだった。前の晩から仕事が延び、気づくと彼女の電車は出ていた。先に出るね、という連絡だけが残っていた。

二度目の日は、航が先に目を覚ました。

「送るよ」

真帆は首を振った。

「向こうでみんなと会うから、一本早いの。もう出る」

玄関で靴を履いた。手伝うには間に合わなかったので、航はドアだけ開けた。

晩秋、真帆は講習先の工房に机を借りることにした。月の半分をそちらで過ごす。古文書の修復を一件、担当させてもらえるという。

決める前に、真帆は自分の収入と、机の利用料、県外へ通う交通費を並べた。今の工房の仕事を減らす日も、先に相談した。長く持つ本は、誰がどの工程まで触れたかを残して渡す。彼女が町を移る日も、その順から決まった。

講習先で見せてもらった本は、古い糊が残った頁と、あとで綴じ直された頁が混じっていた。全部を一度に開かず、ほどけるところを調べてから戻す。手の速さより、その途中を見たい仕事だった。

工房の人から、一件を任せたいと言われたとき、真帆はすぐに返事をせず、宿泊と机をどこまで確保できるか尋ねた。安く借りられる日だけで工程を決めれば、乾くのを待つ途中で帰ることになる。自分の金で続けられる範囲を確かめ、翌日にお願いしますと答えた。

航へ話したいのは、任せてもらえた喜びと、古い糊の話だった。会社が大変なときに、自分の机の話をしてよいかは少し迷った。だからといって、全部終わるまで取っておけば、最初に嬉しかった時刻はなくなる。

それを聞いた晩、航は百舎を閉じるかもしれないと話した。

先に言えばよかった。

彼女が何かを決める前に知らせたかったという意味ではない。彼女の嬉しい知らせを、自分の話でふさいだのが分かったからだった。

真帆は長い間、口を開かなかった。机を借りるために準備してきた貯金の話は、まだ途中だった。

「いつから」

「確かな話になったのは、今週」

「大変なのは知ってた。でも、そういうことになってたんだ」

航は頷いた。

「私の工房の費用を、会社の予定に入れてないよね」

「入れてない。保証も、君には頼んでない」

「それは確かめたかった」

彼女は責める声では言わなかった。自分で決めた仕事へ使うための金だった。航には、言ってくれれば少し貸せるのに、と続けてほしい気持ちがあった。続かなかった。

「借りる机の分と、こっちで働かない日の分を、何か月か残してあるの。そこがなくなると、引き受けた本を途中で返すことになる」

真帆は言った。航は、分かる、と答えた。自分へ貸さない理由があれば、断り方として受け取らずに済むと思った。彼女が話しているのは、貸すかどうかの相談ではなく、自分が続ける仕事だった。

真帆は、水を飲みに台所へ立った。自分の分だけ持ってきて、途中で気づき、航のコップも取った。航は、ありがとう、と言った。

水を飲んだら、何か言わなければならなくなった。

「しばらく、こっちにいてほしい」

彼女はコップを置いた。

航は続けた。何かをしてほしいわけではない。ただ、帰ってきたときにいてほしい。今は一人になると、会社のことを考えるのをやめられない。

真帆はすぐには答えなかった。

「行くよ。向こうへは」

そう言ってから、彼女は暦を手元へ寄せた。

「今週の木曜なら、いる。話を聞ける。でも、毎日ここにいるとは約束できない」

航は、分かった、と言った。

一度言ったあと、また言った。二度目は、もう少し小さな声になった。

彼女が自分を置いていくように思えた。

その考えが間違っていても、寂しさまでは間違いにならなかった。だからといって、真帆の切符を取り上げてよいことにもならない。

木曜日、航は約束した時間より四十分遅く帰った。

会社を出る前、約束の時刻には間に合わないと分かった。急いで帰る代わりに、明日の資料も確かめた。家へ持ち帰って話の途中に開くより、ここで済ませたほうがよい。そう考え、真帆へ、少し遅れると送った。

その文を見た真帆は、切りかけた紙を箱へ戻さず、作業を続けた。夫が帰るまで何もしないでいると、また待っているだけの時間になる。十五分で終わる予定だった工程を、次の頁まで進めた。

真帆は、修復に使う紙を切っていた。航が謝ると、あと十五分で片付ける、と言った。

航は横へ座った。

指先の糊を乾かし、重石を置き、切り取った細い紙を別の箱へ戻す。終わるまで黙って待った。ずいぶん長く感じた。

「会社の椅子が、頭から離れなくて」

話し始めると、つまらないことしか出てこなかった。机を買ったこと。会議へ持っていく紙を印刷しすぎたこと。先月、全員へ缶コーヒーを買ったこと。

真帆は、どれも否定しなかった。

途中で航は、こういう無駄がなければ、と言った。

「今、その金額を確かめてるの？」

真帆が聞いた。

違う、と航は思った。

一つずつ間違いを集めれば、元の自分に戻してやり直せるような気がしていた。あの椅子を買う前の自分。三拠点の代金が入った日の自分。

「戻りたい」

ようやく、それだけ言えた。

真帆は紙箱の蓋を閉じた。

二人で長い間、何も話さなかった。

その夜、航は初めて、百舎のことを話しながら泣いた。顔を覆わずに泣いたので、鼻水が顎へ落ちた。真帆は箱から紙を取ろうとして、違う箱だった、と言った。

航は泣きながら、そっちは高い、と言った。

真帆も少し笑い、台所から布巾を持ってきた。

翌朝、彼女は予定どおり向こうの町へ行った。

工房では、糊を薄くした試しの紙が待っていた。前のものと曲げた感触を比べ、今日使う方を選んだ。航の泣いた顔が何度か浮かんだ。それでも指が糊に触れている間は、修復する紙の厚さを考えた。

昼、航へ、昨日話せてよかった、と書きかけた。書けば昨日が全部よい夜になる気がして、消した。話したかったのは本当だった。四十分待つことが平気だったのではない。

今夜も同じ時刻には帰らない。先方の本を乾かす時間がある。真帆はその予定を送り、自分の仕事へ戻った。

航の携帯電話に、着いた、という短い連絡と、窓に向いた作業机の写真が届いた。

航はすぐに返せなかった。

昼休みにもう一度見て、光が入るんだね、と返した。

## 第九章｜待つ人の順番

会社を閉じるかもしれないと伝えた次の週、黒崎が、昼に外で会おうと言ってきた。会社の近くの食堂だった。航は壁側に座り、黒崎は二人分の定食を頼んだ。

発注元では、なぜ切り替えが延び、追加の費用が要ったのかを調べていた。水原が集めた百舎からの報告も、その対象だった。

「金を渡せば、九月の報告の件を不問にする人間がいる」

黒崎は湯呑みをずらし、航を見た。

「先方の調査に口を出せる立場だ。保守を君のところへ残すよう働きかけてもらう。君が会社として引き受けるなら、話をする」

航は、味噌汁の蓋へ手をかけたまま止まった。

「賄賂ですか」

「そうだ。払って終わりとは思うな。次に向こうから頼まれることもある」

黒崎は、都合のいいことだけを並べて売るつもりもないようだった。航は、来春も小池の机があり、岡野が共通部分を作り、理恵がいつもの眼鏡を上げる部屋を思い浮かべた。払えば、その部屋を買い戻せるかもしれない。

「九月の説明は」

「現場の責任者が問題を抱え、代表へ上げるのが遅れた、とまとめる。修司君にも飲んでもらうことになる。彼に残る仕事を用意すればいい」

修司は一週間待つよう頼まれ、そのあとも報告を出せと言っていた。航が削った二行は、彼が書いたものだった。

箸袋に油の染みがついた。運ばれた皿の端が触れたのだと分かるまで、航はそこを見ていた。

賄賂を断れば保守が戻らない、という話は、もう分かっていた。受け取れない未来の売上だけでなく、既に払えていない請求もある。自分が断ることで、今度こそ会社を閉じるのだと感じた。

九月に消した二行を出したあと、水原は保守を別の会社へ任せると決めていた。資金が足りなくなった日も、それより前からあった。今、黒崎が置いたのは、傷のない会社へ戻る道ではない。修司の名でその傷を覆って、同じ机を使い続ける道だった。

航は、修司へこの条件を頼む言葉を考えた。残る仕事を渡す。生活を守るためだと話す。彼が昔ベンチで眠っていたことまで持ち出せば、断りにくくなるだろう。

相手を断りにくくする言葉を知っている自分が、怖かった。九月に、自分もその言葉で一週間をもらった。今度は、その先の責任まで渡そうとしていた。

「それをやれば、彼は、あの会社で起こったことを自分の言葉では話せなくなる」

「会社を残すためなら、頼めることはあるだろう」

「残すのは、僕の席です」

声に出すと、理想の職場よりずっと小さいものだった。自分の席なら捨てられる、と簡単に思えたわけではない。失ったあとに何をするか、まだ答えはなかった。

「払いません。報告を止めたのは僕です」

黒崎は黙って蓋を取った。定食から湯気が出た。

「四月にも、似たことを言ったな」

「四月は断りました。九月は、あなたの言うとおりに待ちました。僕がそう決めた。そこまで出します」

黒崎の箸が止まった。航は自分の分の伝票を頼み、食べ終えてから払った。

午後、修司に提案の内容も含めて話した。修司は、代わりに罪を引き受けると申し出なかった。

「断ったからって、俺が待った三週間が戻るわけじゃない」

「分かってる」

「分かってるかは、これから見てる」

二人で発注元の社内調査の担当者へ送る正式な説明には、報告の原文と送信した文を添え、航が留めた日付を書いた。水原へ話した内容を、調査でも変えなかった。引継ぎをどう終えるかの協議は続いた。保守を百舎へ戻すという話にはならなかった。

送る前、修司は日付を一つずつ見た。最初の報告を作った日、航が削った文を送った日、全体へ知らせた日。航は、代表が判断して留保した、と自分の名の上に書いた。

その一行をなくせば、修司にも判断の責任がある説明へ戻せた。送信した時刻も、発注元に届いた記録も、いまから人の名へ書き換える理由にはならなかった。

航は添付を確かめ、送った。

修司はありがとうとは言わなかった。机へ自分の写しを戻し、明日の現場の準備を始めた。航はその無言を受け取った。正確に出すことは、礼をもらうための新しい親切ではなかった。

その説明を送った翌日、岡野が航の机へ来た。まだ十一月のうちに、残る仕事の日程を固める必要があった。

共通部分を作り直したい、と言った。

拠点ごとに足してきた処理を整理し、曜日や荷物の数え方が違っても、同じ部分を使って動かせるようにしたい。そうすれば、一か所を直すたびに別の拠点を確かめ直す手間を減らせる。元の計画でやりたかった仕事だった。ここまで直したものも、新しい共通部分へまとめて残せる。

航は図を見た。魅力のある提案だった。

「どのくらいかかる」

岡野は答えた。

その期間を挟むと、今残っている移行の準備が止まる。引き受け先にも、新しい形を覚えてもらう必要がある。

「今は、できない」

航は言った。

図を戻す前に、残る給与と移行の日付を見せた。ここへ開発の週を足せば、合意した説明の日が動く。その分の費用と、待たせる人が増える。七か所を見ないまま受けたときのように、自分たちなら埋められるとだけ言うことはできなかった。

岡野は日付の意味を分かったうえで、図を押さえていた。分からないから反論しているのではない。その日付までに、自分が作りたかったものの場所がなくなった。

岡野は図を動かさなかった。

「最初からこれを作る時間があれば、こんなに直す必要はなかったんです」

「そうかもしれない」

「そうかもしれない、で終わるんですか」

航は答えられなかった。

岡野は、自分が入ったときの話をした。全部が見えるところで、大きな仕組みを作りたかった。現場ごとの差も、分かってから作れば面白い。毎晩同じところを直し、次の朝に別の場所から呼ばれるだけで、冬になるとは思っていなかった。

「三拠点のとき、僕も言いました。共通にすればいけるって。でも、こんな終わり方に賛成したわけじゃない」

航は、分かっている、と言いそうになった。

図に描かれた線は、きれいだった。岡野は休日にも考えてきたのだろう。線の端へ、まだ答えの出ていない箇所が小さく書かれていた。

「その案を、この日程には入れられない。次の職場や仕事で、自分が何を考えて作ったかを説明できるように、外へ出していい範囲を先方と確かめる」

岡野は目を伏せた。

「……それは、お願いします」

彼は資料を持って戻った。午後はほとんど口を開かなかった。

その夜、岡野は自宅で試作の画面を開いた。拠点名を仮の名前に置き換えた、誰にも使われていない画面だった。三つ目の箱数を変えると、別の欄へ同じ数が渡る。そこまでは動いていた。

九月の予定には、この続きを会社で作る週があった。その週に実際にしていたのは、現場の紙をもう一度受け取り、拠点ごとに別の直しを足す仕事だった。誰かが必要とした直しだった。意味がなかったわけではない。だから、全部を無駄だったと言って捨てることもできなかった。

岡野は翌日の移行で確かめる項目を開いた。こちらは明日の朝、人が使う。試作のほうへ戻りたいと思いながら、確認の順を一つ足した。

もっと早く強く言えばよかったのか、と考えた。共通にできると言ったのは自分でもある。だが、その言葉が、未調査の場所まで同じだと約束することになってはいなかった。

航へ、実績として説明できる範囲の確認は、いつ返事をもらえますか、と送った。言いたいことはほかにもあった。まず、自分がここでした仕事を、次の場所で小さく説明し直さずに済むようにしたかった。

翌朝、航は先方へ問い合わせた日と、返事を確認する日を伝えた。図を完成できる返事ではなかった。岡野は日付を手帳へ入れた。それから、昨夜直した確認表を机へ出した。

夕方、小池が相談に来た。翌日の客への説明を一人でやりたいという。航が代わりに説明することが増え、自分が覚えたかどうか確かめられない。

航は、分かった、と答えた。

翌日の説明では、小池が一か所、画面の操作を間違えた。

客は気づき、手が止まった。航は横から言い直そうとして、口を閉じた。小池が自分で戻し、今のところをもう一度見てください、と言った。

終わってから、彼女は航を責めた。

「分かってたなら、言ってくださってよかったです」

航は驚いた。

任せることは黙ることだ、と、また勝手に決めていた。

二人で駅まで歩き、どこは小池が直し、どこは横から言ってほしいかを話した。風が強く、彼女は説明書を閉じても、鞄へ入れる前に頁をめくられてしまった。開いた紙を何度も押さえ直した。

「次には、うまくできます」

小池は言った。

次、と航は思った。

百舎で用意できる次が、少なくなっていた。

駅の売店でクリップを一つ買い、小池へ渡した。彼女はすぐに紙を留めた。役に立ったというだけの顔だった。

そのくらいのことは、今日もできた。

## 第十章｜十一月三十日

澪の最後の日は、忙しくなるはずだった。

そのつもりで全員が予定を空けていたので、かえって、午後になると渡すものがなくなった。

阿部は引き継いだ手順書を自分で開き、次の拠点に入れる設定と、確認する操作を最初から試した。小池は別の机で、利用者へ説明する順番を見直していた。澪は阿部の隣で黙って見ていた。最後の画面まで進むと、阿部が、ここでいいんですよね、と聞いた。

「そうです」

澪は答えた。

「ほんとに、これで終わり？」

「私からは」

阿部は椅子にもたれた。

澪の仕事がなくなる瞬間を、航は遠くから見た。阿部の仕事が増えただけではない。阿部が、自分で分かる仕事が一つ増えたのだった。

退職の挨拶で、澪は途中から泣いた。

島へ行くことを決めている人も、泣くのだと航は思った。泣いているから引き留めてよいのではないことも、今は分かった。

誰かが用意した小さな菓子を分けた。修司が包装を開けるのに失敗し、二つ床へ落とした。澪は泣いたまま笑った。

写真は三度撮った。最初は岡野が間に合わず、二度目は理恵が目を閉じていた。

「撮られ慣れてないんです」

「さっきも撮りましたよ」

澪が言うと、理恵も笑った。

机を片付けてから、澪は航のところへ来た。

「向こうで、何か手伝えることがあったら」

航は首を振ろうとした。

先に、彼女が続けた。

「言ってください。できるかどうか、返事をします」

澪は、何でも引き受けるとは言わなかった。

航は頷いた。

「ありがとう。必要なら、ちゃんと頼む」

「はい」

「澪」

呼んでから、言葉を選んだ。

島でうまくやれ。ここで教わったことを忘れるな。いつか会社を立て直したら見に来てくれ。

どれも口まで来た。

「船、何時？」

「明日は、九時です」

「じゃあ、今日は帰ろう」

航は彼女の椅子を、机の中へ押した。

澪は階段の下で振り返り、お辞儀をした。下の印刷所の主人にも挨拶した。主人は名前をよく知らなかったが、白い紙をいつも大事に持っている子、と覚えていた。

「海へ持ってくなら、湿気に気をつけな」

澪は、はい、と答えた。

彼女の姿が見えなくなってから、修司が階段へ腰を下ろした。

「間に合ったな」

「何が」

「出発」

航も腰を下ろした。

会社の苦境は変わらなかった。明日からは航、修司、理恵、岡野、小池、阿部の六人になる。小池が現場で説明し、阿部が設定と動作を確かめ、判断に迷う箇所は修司と岡野が引き取る。百舎に残る自分たちが引き受ける場面は増える。岡野の仕事も楽にはならない。

だが、彼女の十二月一日を、百舎の十一月三十一日にしないで済んだ。

修司が立ち上がった。

「俺は、一月の訓練所、断った」

修司は以前から、知人の職業訓練所で実習の手伝いをしていた。年明けから定期的に教える仕事をしないかと誘われていたが、百舎の移行作業が一月へ延び、同じ日程では両方を引き受けられなくなったのだった。

「予定は、まだ持ってる」

修司は手帳を出した。訓練所へ行く日の欄に、後から客先名が入っていた。一方を終えてからもう一方へ行くには、電車の時刻が合わない日があった。

「あっちは何度も、いつから来られるかって聞いてくれた。俺が、一月ならと言った。百舎を辞めて向こうへ行くのも、考えてた」

航は、一月までには終わると答えかけた。十一月までにと言ったあとで、いま一月の話をしている。まだ終えていない拠点の印は、これから変える必要があった。

「次の期まで、待ってもらえないか」

航は尋ねた。

「一回、聞いた。実習は、一月から始まる。教える人がいないまま、生徒には待っててもらえない」

修司の声は低かった。怒っていない声ではなかった。今まで知らなかった相手の予定を、航へ一つずつ渡していた。

航は顔を上げた。

「それは」

「俺が決めた。今の移行を終えるまでやる。ただ、先方が次も待ってくれるかは分からん」

彼はポケットから鍵を出した。

「これを、お前に返してもらえる借りにはしたくない。俺も、十二拠点をやろうって言ったから。ただ、残る期間の給料の話は、理恵さんと確かめる。仲間だから無限に残れるわけじゃない」

航は、ありがとう、と言った。

それだけでは少なかった。

多く言えば、修司が失うものを褒めることになりそうだった。

「給料と最後の日は、今週、理恵さんと確かめる。そこが変わるなら、俺にも先に話す」

航は言った。修司は、その話はしよう、と答えた。自分を残すための話と、自分が次へ行くための話を、同じ感謝で済ませるなという返事だった。

＊

訓練所へ断りの電話をしたのは、その二日前だった。

修司は昼休みに会社の外へ出た。担当者は、いつまでなら今の職場で必要なのか尋ねた。一月の終わりまで導入を持つ、そのあとに引継ぎもある、と答えた。

「では、今回は別の人にお願いすることになります。実習の準備から一緒に入ってもらいたいので」

修司は、分かりました、と言った。分かる話だった。担当者は仕事のできる相手を失わないよう、春の短い実習ならまた相談できるかもしれないと続けた。定期的な仕事が待っているという約束ではなかった。

電話を切ったあと、修司は手帳の一月へ線を引いた。教える日の前に、どんな部品を用意するか、もう書いていた。自分が早く終えるためではなく、できない人が途中で迷っても戻れるように、順番を考えた跡だった。

頁を破るのはやめた。自分がしたかった仕事まで、なかったことにする必要はなかった。

会社へ戻ると、阿部が設定の確認を待っていた。修司はすぐ答えず、五分だけ待ってくれと言った。流しで湯を沸かし、濃い青の湯呑みを持って座った。自分で残ると決めたのだから、何も惜しんではいけない。そう考えかけ、違うと思った。

五分後、阿部と紙を開いた。残る仕事はしたかった。次の仕事を失ったことも本当だった。その二つを、同じ気持ちに揃えなくてよかった。

## 第十一章｜完成するまでの夜

年が明けても、百舎は続いていた。

続けられる会社になったという意味ではなかった。

十二月には、古い方法を残していた拠点から順に切り替えを進めた。引き受け先の担当者も説明を聞き、百舎が答えてきた問い合わせを、自分たちで受けられるか確かめた。年内には最後の二拠点が残り、一月に確認を終える予定になった。

弁護士と会計の専門家にも相談し、黒崎の会社と引き受け先、顧客とで、残された費用の中で終える仕事を確かめていた。事業を止める日と、百舎の債務や契約を整理し終える日は、同じにならない。借入の元金はまだ五百万円で、四月分の元金返済が始まる時期も近づいていた。通常どおり払えるという約束にはせず、未払いを含め、何がいつ払えるかを資料にして協議した。

新しい注文で穴を埋めることはしなかった。社員ごとに、移行を担当する期間、引継ぎと片付けをする期間を話し合い、その賃金の扱いと、いつまで働くかを別々に確かめた。自分たちの見込みが外れれば、誰かに善意で残ってもらうという空欄を、今度の表には作らなかった。

相談が増えるたび、誰も知らない扉が開くわけではなかった。

やめる費用は前からあった。払えない分も前からあった。人へ話すことで消えたのは、航だけが知っているという状態だった。

樋口からの電話に出られなかった日が、一度あった。

会議中ではなかった。

画面に名前が出るのを見て、そのまま鳴りやむまで待った。

樋口が最初の相談に来たとき、航は何度も礼を言った。礼は言える。だが同じことをまた聞かれ、まだ決まらないと答えることには耐えられなかった。

三十分後、理恵が、樋口さんから私にも連絡が来ました、と言った。

「忙しかったですか」

航は首を振った。

理恵は次の言葉を待った。

「怖くて、出られなかった」

理恵は少しの間、何も言わなかった。

「私から返事をしていいか、まだ言われていません。私が伝えられるのは、社長の返事を待っているということだけです」

航は受話器を取った。

樋口は、こちらも何も決まらないんです、と言った。

百舎から受け取れる額と時期が分からず、樋口も自分の取引先へ返事ができない。手元の金で引き受けられる仕事を選び、一件を断った。百舎から電話が来なくなると、今月の入金に数えてよいのかどうかさえ決められなかった。

「出られなかったんじゃなくて、出ませんでした」

航は言った。

「俺が電話したのは、今週の予定を決める前だったんです」

樋口は答えた。

「入る日が決まってないなら、そう返ってくれば、別の金でやれる現場だけ組みます。連絡がないと、いま決めてるのか、決まったけど言ってないのか、こっちで考えるしかない」

航は手元にある資料を見た。払えると確定していないことは、三十分前にも同じだった。確定していないと返すことまで、待たせる必要はなかった。

謝ってから、今日分かることと、次に連絡する日を話した。樋口の声は最後まで硬かった。

電話を置くと、修司が入口に立っていた。

次に電話をかける日を、航は壁の予定にも書いた。樋口の声が最後まで硬かったことを、怒りを鎮める次の機会としては書かなかった。入る金が決まらなくても伝える日だった。

「車、下に回した」

最後の二拠点へ行く日だった。

現場では、阿部が一人で紙の順番を確かめた。小池が説明し、岡野が操作の記録を取った。以前より短い説明で済んだ。

帰り道、五人の乗った車はほとんど無言だった。疲れていた。修司はコンビニへ寄るかと聞き、全員が頷いた。

駐車場で、岡野が肉まんを二つに割った。左手の半分には、皮しかなかった。右手のほうを開くと、具はそちらへ全部寄っていた。

「不具合」

阿部が言った。

岡野は、食べれば分からなくなります、と言って、左右を交互にかじった。

航は笑った。

一月の最後の金曜、十二拠点目の確認が終わった。

待っていた出荷表が、入口のプリンターから出てきた。

紙が途中で曲がったので、現場の人が無言で引き抜き、もう一度印刷した。

二枚目を見て、これでいい、と言った。

現場の人が積み込む箱を数え、修司が配送表の行き先と数量を照合した。次の拠点にも同じ情報が届いていることを岡野が確かめ、最後に水原が導入の確認書へ署名した。最初の三拠点を含む十二か所が、新しい仕組みで普段の出荷を進められる状態になった。

修司は壁に手をついた。倒れたのではなかった。靴の中に入った小石を出そうとしていた。

航はしばらく、その背中を見ていた。

終わった、と言えばいい。

言った。

修司が顔を上げ、頷いた。

## 第十二章｜六時の写真

二月、完成の翌週、水原は発注元の会議室で、百舎の仕事を褒めた。

約束した範囲は動いている。現場間の確認が速くなった。日々の作業で迷う箇所は残るが、引き受け先へ説明できる形になっている。

褒めることと、これまでの協議で決めた負担を超えて、さらに払える金はないことを、彼は同じ席で言った。

航は礼を言った。

契約代金の残額を受け取る予定は決まった。しかし、完成までに増えた人件費、外へ頼んだ仕事、延びた期間の家賃や移動費を埋める額ではなかった。早く払ってもらった金も、もう支払いに使われていた。保守は引き受け先へ渡すため、完成後の仕事を続けて不足を取り戻す見通しもない。仕事を完成させたことと、かかった費用を払えることは、同じにはならなかった。

百舎へ戻ると、理恵は費用をまとめた表の写しを作り、八月の見積もりより増えた分を一行ずつ外して比べた。実際の支払い記録を消すのではなく、どこで見込みが崩れたかを航と確かめるためだった。

「八月の見積もりどおりなら、残ります。でも、これは、起きたことを抜いた表です」

航は頷いた。

「九月に止めていたら」

言いかけると、理恵は別の紙を出した。当時の残高と、まだ契約を止めたり変更したりできた支出を残してある。今より傷は小さかったかもしれない。会社が必ず残れたとまでは、この紙から言えない。

「それは、分けて考えます。知らずに見積もったことと、知ってから待ったことは」

航は二枚を並べた。

表の写しの上なら、なくせた。

予定を超えてかかった費用を外すと、数字は八月に考えていた額へ近づく。増えたのは、一月へ延びた分だけではない。秋から、調査や作り直しに使う時間が見積もりを超えていた。航は九月からの表をもう一度たどった。阿部が初めて一人で設定を確かめた日も、澪が最後に帰った日も、修司が断りの電話をかけた日も、その中にあった。表の写しから費用を外せても、そのあいだにした仕事まで、しなかったことにはできない。

理恵は、実際にかかった費用の表へ戻した。支払いを遅らせてよい理由には、どちらの表も使わなかった。

会社を閉じることを、皆へ正式に伝えたのは、その翌日だった。

朝、航は全員へ渡す説明を机へ並べた。事業を続けられない。残る保守の引継ぎと片付けを終えて事務所を返す。雇用が終わる日、最後までの給与と必要な書類は、一人ずつ確かめる。

まだ相談を続けています、とだけ書けば、今日も先へ延ばせた。小池の次の職場が決まってから伝えれば、相手の不安を少し減らせるかもしれない。それは同時に、探すための時間を、また自分が止めることだった。

航は閉じるという文を残し、日付を入れた。開き直した表に、続けられる収入はなかった。賄賂を断った日だけを、この日付の理由にしてはならなかった。未調査の条件を受け、分かったことを知らせず、払えると伝えてから留めた時間が、この紙まで続いていた。

皆が座ると、航は説明を読み始めた。会社が成功した話からは始めなかった。自分が決めたことと、これから一緒に確かめてほしいことを分けて話した。

誰も驚かなかった。

それで受け入れられたのだと、航は思いかけた。阿部は子どもの予定を書く手帳を、小池は面談の日が入った手帳を開いていた。驚かずに準備してきたことと、失う生活を平気で手放せることは違った。

小池は、最後の勤務日を確認した。阿部は次の仕事の面接に使える日を聞いた。岡野は、引き受け先から声がかかっていることを話した。

航は、よかった、と言った。

岡野は頷かなかった。

「行くかは、まだ決めてません。今度は、やりたいことを最初にもう少し聞きます」

理恵は、自分の仕事が残る日を示した。閉じた翌日に帳面をしまって終わりにはできない。外の担当者へ渡すものと、自分が働く時間を分ける必要があった。

「私も、次の仕事を始めます。水曜の午後は来られません」

航は手帳へ書いた。

終わらせるために残ってくれる人にも、その人の終業時刻があった。

金曜の夕方、吉沢から写真が届いた。

食卓に小さな茶碗が二つあった。片方は子どものものらしかった。夕飯を一緒に食べられた、おかげさまで、という文がついていた。

航は画面を消した。

何もかも遅い、と一瞬思った。

食べられましたという一通が、会社の家賃になればいい。うまくいきましたという声が、小池の来月の席になればいい。

そう思った自分を、すぐに恥じることもできなかった。

しばらくして、写真をもう一度開いた。

茶碗の奥に、半分に切ったコロッケがあった。子どもは好きな方を先に食べたらしく、衣だけになった端が残っていた。

この人は、航を苦しめるために食卓を送ってきたのではない。

そうでないことが、ありがたく、腹立たしく、悲しかった。

航は、うれしいです、と打ちかけた。

消した。

写真をありがとうございます。皆にも見せます。

それだけを送った。

修司が戻ってくると、航は写真を見せた。

修司は長く見ていた。

「食ってるな」

「うん」

二人は、それ以上の意味をつけなかった。

## 第十三章｜百舎御中

二月が終わるころ、百舎の机には、持ち主の名前を書いた紙が増えた。

売れるものは売る。その代金の扱いも相談していたので、思い出があるからと社員へ好きに配ることはできなかった。会社の物と、最初から個人の物だった工具を、一つずつ分けた。澪が地図を広げた机には、引き取りの日付を書いた紙を貼った。あの作品は澪の物で、この机は会社の物だった。最初から別だった二つを、航は指で確かめるように見た。

修司の濃い青の湯呑みは、机の上に残った。航の薄い青も残っていた。真帆の使った中間の青は、会社で働かない彼女が数年前に家へ持ち帰り、台所で使っている。三つを会社の備品にはしていなかった。

引出しの底から、修司が自分で払った百円の湯呑み三つの領収書が出てきた。印字は薄れ、余白に手で書いた、お祝いだから、という字が残っている。航は、未払いの額を書いた紙へ紛れないよう、小さな封筒に入れて修司へ返した。

小池は、次の勤め先がまだ決まっていなかった。

二月のある朝、小池は面談へ行くため、会社へ出る日より早く家を出た。知っている駅を通り過ぎ、知らない建物の入口で、誰の名前を呼べばよいか確かめた。百舎では、いつもの机へ座るまでに考えなかったことだった。

受付で渡された紙に、退職の理由を書いた。事業終了。短い欄にはそれだけで入った。面談では、九月から何をしていたか、もう少し聞かれた。

会社の事情を説明し始めると、相手は分かりましたと頷き、次の質問へ進んだ。小池は資料の袋へ手を伸ばしかけた。自分が説明の順番を変えた紙を持ってきたが、まだ何を変えたか話していなかった。

帰りの電車で、説明の最初の文を自分の手帳へ書いた。配送の現場で、初めて使う人に操作を説明しました。そのあとは、どこまで話せばよいのだろう。百舎の名前を先に出すと、その会社がなくなる理由を聞かれる。出さなければ、実際に働いた場所がなくなる。

面談の結果を待つあいだにも、来月の家賃と電気は払う。小池は、何か月なら今の条件で探せるか計算した。次の説明会に使う服を買うつもりで見ていた一覧を閉じた。面談には、いま持っている服で行けた。

航が紹介できる相手を伝えると、彼女は履歴書を送った。その会社からは断られた。

「社長が悪いわけじゃないです」

小池は言い、続けて、違うな、と首を振った。

「断られたのは、です。仕事を探さなきゃいけないのは、ここがなくなるからです」

航は頷いた。

「そうだね」

彼女は履歴書を鞄へ入れた。

「百舎でやったこと、話してもいいですか」

航は顔を上げた。

「もちろん」

「会社がなくなることも聞かれるんです。それで、説明が長くなって。私が何をしたかまで行く前に、次の質問になるので」

航は、自分が会社を紹介するときの話を思い出した。創業、仲間、四月の危機、立て直した仕事。どれも自分の順番だった。

小池は自分の順番で話す練習をしたかった。

彼女が作った説明書を机へ並べた。最初の頁と、最後に直した頁。どこを変え、相手がどう使ったか。航が百舎の事情を付け足しかけると、小池は、そこは今なくて大丈夫です、と言った。

航は口を閉じた。

練習のあと、小池は紙を揃え、もう一度、最初の文から話した。客が同じ質問を二度したので、説明の順を変えた。そのあと一人で確かめてもらえた。今度は会社が閉じる話へ戻らず、した仕事の話を終えられた。

「それで、採ってもらえるかは分からないですけど」

小池は言った。

「分からない。でも、今日の説明は、あなたが何をしたか分かった」

航は答えた。守れると約束することは、もうできなかった。

その夜、小池は別の応募先へ資料を送った。一通を送れば、次の日の仕事が決まるわけではない。返事を待つ欄を手帳へ作り、翌日の百舎の勤務も、その横へ残した。新しい仕事へ行く準備と、まだ終わっていない引継ぎが、一冊に入っていた。

翌週、阿部が次の職場を決めた。通勤は長くなった。子どもの迎えに間に合うよう、出勤と退勤を早めてもらったという。

面接では、何時からなら来られるかと聞かれた。阿部は、迎えの時刻より先に退勤できる時間を答えた。相手はその分、朝を早くできるか尋ねた。仕事の内容はよかった。通勤もできない距離ではない。毎朝一本早い電車に乗ることになった。

家で時刻表を広げると、朝、子どもと一緒に出る時間には合わなかった。誰が送る日かを、家族と分け直した。帰りは、駅の階段を使ってすぐ乗り換えれば、迎えに間に合う。一本遅れたときは、先に電話して頼む相手を決めておく。

「今の会社には、もう行かないの」

子どもに聞かれ、阿部は、もう少し行く、そのあと別のところへ行くと答えた。分かるまで同じことを聞かれた。子どもが寝てから、定期代と一日の長さを計算した。仕事が決まった安心と、今までの朝が終わる寂しさは、別にあった。

「全部同じには、できなかったです」

阿部は新しい時刻表を見せた。

「よかったねって、家でも言われました。仕事は、決まったので」

阿部は時刻の印を指した。

「でも、子どもが起きる前に出る日が増えます。間に合うように選んだんですけど、同じ暮らしが見つかったわけじゃないです」

航は、分かる、と言いかけ、どの時刻が迎えの日か尋ねた。阿部は二つの駅を指した。会社の表の上では、次の職が決まった一人になっていた。目の前の紙では、毎朝と毎夕に、一つずつ余裕がなくなっていた。

理恵は、それを拡大して印刷した。折るところを先に決めてから、大きさを合わせた。

航は、その手順をどこかで見たと思った。

阿部は紙をポケットへ入れ、一度取り出して、時刻が表へ出ることを確かめた。これなら見られます、と言った。理恵は頷いた。見やすくする手伝いはできた。長くなった通勤を、その紙で短くはできなかった。

澪からは、島の地図の試作が届いた。会社が終わると知らせた返事と一緒だった。

手紙の最後に、開館の準備があり、そちらへ片付けに行くことはできません、とあった。港から遠い部屋には、近所で借りた自転車を置けたとも書いてあった。

手伝ってほしいと頼んだわけではなかった。

それでも彼女は、その行を自分のために書く必要があったのだろう。続く一行には、使っていた引出しに私物が残っていたら、送料を負担するので送ってください、とあった。

紙の地図には、冬の海の音を聞ける展示の場所が印されていた。同封の説明には、その場所で島の波音を再生するとあった。録った日は十二月二十七日だった。

百舎では、年内に終わらない仕事を数えた日だった。

その同じ日に、波へ向かってマイクを押さえている人がいた。

航は手紙を共有の棚へ置いた。小池は地図を見て、いつか行ってみたいと言った。理恵は船が揺れるかを気にした。

百舎御中、と書いた封筒だけを、航は自分の机へ残した。

＊

その手紙を書いた日も、澪は朝、借りた自転車へ材料箱を固定していた。最初に見た部屋なら歩けた距離を、海からの風を受けながら通う。道を覚え、天気の悪い日は一便早いバスを選ぶ。新しい暮らしは、その都度、自分で作っていた。

資料館で子どもが地図へ触ると、澪は一緒に道を確かめた。その時間は好きだった。港に近い部屋を失ったから、この仕事まで悪い選択だったことにはならなかった。

夕方、家へ戻ると、材料をしまう棚の幅が足りなかった。箱を一段ずつ降ろし、明日使う分を出した。航に返事をしてほしかった金曜が、こんな夕方に、まだ残ることがあった。

会社が終わると聞いたからといって、あの部屋も終わった話にはならない。澪は手紙で自分の予定を先に書き、最後に、ここで引き続き作っています、と添えた。助けたい気持ちがなくなったのではない。自分の仕事を止めて行くことまで、優しさの証明にしなくてよかった。

## 第十四章｜取りに来る人

樋口が来たのは、三月の雨の日だった。

会社へ貸していた測定器を取りに来た。支払いの話とは別に、返す日を決めていた。

修司が乾いた布で拭き、袋へ戻した。ケーブルも数えた。樋口はその場で電源が入ることを確かめた。

航は別の椅子を勧めた。

あの新しい椅子は、既に引き取られていた。

「車、買い替えました？」

尋ねてから、航は後悔した。

樋口は首を振った。

「直しました。しばらく乗ります」

「そうですか」

「うちの若いの、辞めることになりました」

航は顔を上げた。

樋口は袋の紐を結び直した。

「全部、百舎さんのせいってわけじゃないです。前から、仕事の先が見えないって言われてました。今回ので、俺も、大丈夫とは言えなくなった」

航は、すみません、と言った。

樋口は、いいです、と言わなかった。

「前から、もっと一人で持つ現場を増やしたいって言ってたんです。俺は、今回の調査を一緒に回れば、次には任せられると話した。百舎さんが払えなくなったとき、その次も減った」

樋口は袋の中へ手を入れ、測定器が動かない位置へ戻した。

「あいつが別へ行くのは、責めません。うちの給料を、ずっと出せるかって聞かれて、大丈夫とは返せなかった。それだけで辞めたわけじゃないけど、その返事を俺がしたことは残ります」

航は、次のところは決まったんですか、と尋ねた。

「決まりました。機械を見る仕事です。知らない会社だから、また最初から覚えるって言ってました」

決まったと聞いて、よかったと言いそうになった。若い社員が自分の判断で次へ行けたことはよかった。その人がここで覚えるつもりだった仕事と、樋口が任せようとしていた現場は、その返事で戻ってこなかった。

「完成したそうですね」

「はい」

「現場の人から聞きました。使いやすくなったって」

航は、礼を言うべきか分からなかった。

樋口は立ち上がった。

「うちも、ちゃんとやりましたから」

その言葉で、航は背中が熱くなった。

使いやすくなった仕事を、自分たちだけで完成させたと思いかけていた。払えていない分を、数字として覚えているだけでは足りなかった。あの紙を集め、初めて行く現場で頭を下げた人も、そこにいた。

航は、樋口が確かめたケーブルを見た。

「助かりました。現場を一つずつ見てもらって」

樋口は少しだけ頷いた。

「その話と、お金は別ですからね」

「はい」

「次の連絡、木曜でしたね」

「木曜の午後です」

樋口は帰っていった。入口で靴の底を二度こすった。帰るときにもそうする人なのだと、航は初めて気づいた。

午後、航は取引先へ渡す引継ぎの記録に、樋口の会社が行った調査をきちんと書き足した。支払いの代わりになるとは思わなかった。

別の用紙には、返せていない金額が残っていた。

両方とも、残した。

＊

その日の夕方、樋口は戻した測定器を会社の棚へ入れた。若い社員は、担当していた機械の記録を揃えていた。あと何日かで最後の出勤になる。次の会社で使う物と、樋口の会社へ返す物を分けていた。

「これ、次に誰が行くか、書いておきますか」

社員が尋ねた。樋口は、まだ決めてないと答えた。辞める人の名前を消せば、その人の持っていた時間が、自分に戻るわけではない。次の人を採る金も、教える時間も要った。

若い社員は自分の説明を書き足した。相手の作業員が昼食へ出る前に話しかけないこと。名前だけでは分からない入口を、地図に記した。百舎の調査で二人が確かめたこともあった。

「あれ、仕事にはなってたんですよね」

社員が手を止めて聞いた。

「なってたよ。使いやすくなったって、現場で言われた」

樋口は答えた。

「だったら、次でも話せますね」

「話していい。お前が行って、確かめたことだ」

社員は頷いた。会社の未払いが、その人の経験まで未完了にするわけではなかった。次で話せるようになったことと、ここで続けられなくなったことは、別に残った。

樋口は車の鍵を取り、明日の現場へ行く順番を確かめた。普段なら若い社員へ任せるつもりだった朝の確認へ、今度は自分が行く。夕方の別の客へは、遅くなると先に電話した。自分の会社でも、分かっている時刻を知らせずに、相手の予定だけ空けてもらいたくなかった。

百舎からの次の連絡日は、手帳へ残っていた。使いやすかったという現場の礼で、その欄を消すことはなかった。

＊

百舎では、同じ日の夕方、黒崎が来た。航は、引継ぎの報告と、百舎が借りた金についての資料を、別々に机へ置いた。

十二拠点の保守は引き受け先へ移り、問い合わせもそちらで受けている。航がそう伝えると、黒崎は未整理の書類を確かめた。「環」を使う場所は同じで、対応する会社が変わったのだった。

「二割を、買い取るところまでは行けませんでした」

航が言うと、黒崎は創業時の紙を閉じた。

「その条件は、会社が続いているときの出口だ。二百万の出資を、今から貸付だったことにはしない。見込みが外れた分は、私の投資の損でもある」

黒崎は、もう一方の資料へ手を置いた。

「五百万を貸した話は、こちらで続ける。部屋の鍵を返しても、書類まで終わったことにはならん」

航は頷いた。会社の借入をすべて自分の個人の借金に置き換えるのでも、看板と一緒に消すのでもない。整理の方法と残る責任は、専門家を交えた次の席で確かめる。航はそのための資料を作る役目から、退かなかった。

黒崎は新しい会社を始めろとも、しばらく休めとも言わなかった。

帰り際、修司が聞いた。

「黒崎さんなら、八月、どうしてましたか」

黒崎は入口で止まった。

「今知っていることを、知らなかったんならな」

鞄の持ち手を握り直した。

「受けたかもしれん。儲かると思って勧めた。君らが大きくなれば、私の二割にも値がつくからな」

黒崎は航の机の資料を見た。

「九月に、言わずに直せと言ったのも私だ。そのことまで消せとは言わん」

航は、その答えに救われかけた。

黒崎も同じなら、自分だけの失敗ではない。

しかし黒崎は、航の代わりに署名したわけではなかった。航の指を動かして、報告の二行を消したのでもなかった。金で調査を止める提案を、今は間違いだったと取り消しているわけでもない。二人が同じ席にいたことと、同じ行為をしたことは違った。

航は、覚えています、とだけ言った。

## 第十五章｜壁の四角

三月最後の水曜日、修司は百舎の看板を外すための脚立を持ってきた。現場の仕事と保守の引継ぎは終え、今日は借りていた部屋を片付け、鍵を返す日だった。残った支払いの相談や書類の整理は、ここを出たあとも続く。

電気工事に使うものではなく、家で高い棚へ届くための小さい脚立だった。自分は脚立なしでも届くと言い張っていたが、看板の上のねじには届かなかった。

「脚立込みで、一メートル八十か」

航が言うと、修司は、今それか、と笑った。

ねじの一本が固かった。

航が下から押さえ、修司が上で回した。看板は薄い板なのに、壁から離れかけると急に重く感じた。

「そっち、持った？」

「持った」

「ほんとに？」

「持ってるって」

最後のねじが抜けた。

二人で板を下ろした。

壁に、塗装されていなかった四角が残った。看板が隠していた場所だけ、少し違う色だった。

航はそこを長く見た。

会社の名前がなくなれば、自分が見えなくなると思っていた。

実際には、取った場所が見えた。

修司が看板の裏を拭いた。埃が掌へついた。

「すごい仕事だったな」

航は頷きかけた。

小池のまだ決まっていない仕事。樋口の古い車。阿部の早い電車。理恵が最後まで何度も上げた眼鏡。

それらの上に、よい思い出を置くことにならないかと思った。

修司は板を立てかけ、掌の埃を払った。

「十二拠点のことだよ」

「……そうだな」

航は答えた。

「すごかった」

言うと、胸が痛んだ。

誇らしいことを話して、こんなに痛むことがあるのだと知った。

二人は上へ戻った。

部屋には、引き取りを待つ机が一つと、掃除道具が残っていた。創業の日と似ていると思いかけたが、違った。これから何でもできる空き方ではなかった。

修司は濃い青の湯呑みを新聞紙で包んだ。航の薄い青も、同じ束の新聞紙へ置いた。

「それ、俺の鞄には入らない」

修司が言った。

「分かってる」

航は自分の分を包んだ。

修司の職業訓練所の一月の席は、別の人で決まっていた。春からの短い実習には声をかけてもらったが、それだけでは足りない。知人の工場で、保守の仕事を増やすという。

「何曜日に行くの」

航が尋ねると、修司は一冊の手帳を出した。短い実習の期間と、工場へ入る日が別の色で書かれていた。

「一月の話のときは、訓練所の仕事で一週間の組み方を決められた。今は、こっちの都合が合う日と、あっちで人が要る日を合わせる」

空いている日はあった。仕事が自由に選べる余裕ではなく、まだ埋まっていない収入の日だった。航は自分の会社へまた呼べると考えることもできなかった。会社を返す日だった。

「先週、訓練所で準備を見た。俺が考えてたものと、違う順だった」

修司は続けた。別の人が、既に一月から教えている。生徒の迷うところも、その人が聞いていた。

「次から、元の順に戻そうとは言わないよ。今の順を、俺も覚える」

訓練所の席が戻ったのではなかった。自分が始められたはずの時期を、別の人が生きた場所へ、今度は短く入る。それでも、その仕事はしたかった。

航は、あのとき一月までと言わせて悪かった、と言った。

「お前だけで、俺の返事を決めたわけじゃない。でも、延びた理由には、お前の三週間もある」

修司は手帳をしまった。

「俺が残ると決めたから、なくなった話にはしないでくれ。俺が教えるのを好きなのも、今これだけじゃ足りないのも、そのままにしといてくれ」

航は頷いた。これからの工場の仕事を褒めれば、前の仕事を逃した分までよくなったという話へ持っていけた。そういう返事はしなかった。

「また訓練所へ行ければ、それでうまく教えられるって話でもないからな」

修司は工具箱を閉じた。

航は、その工具箱の取っ手を一度持った。重かった。

階段を下りるのを手伝った。

印刷所の主人へ鍵を返すと、主人は紙に受領の日付を書いた。最後に、うまいこと言えんけど、と言いかけ、そのまま黙った。

「長く借りて、ありがとうございました」

航は頭を下げた。

「うん」

主人は答えた。二階の灯りを指さし、消したかと聞いた。

航は一度だけ、階段の上を見た。消してきたと答えた。夏の展示で見た紙の家は、どれも明るかった。自分の部屋の灯りを残すために、いくつもの家の予定を動かしてしまった。今ここを暗くしたからといって、向こうの家がすぐ明るくなるわけではなかった。

修司は車に工具を積み、航は駅へ向かうことにした。

「木曜、樋口さんと話したあと、連絡する」

航が言った。

「分かった。夕方は仕事だから、遅くなる」

「うん」

修司が運転席へ乗った。

航は見送った。

携帯電話には、会社の名前がまだ登録されていた。消す必要のある場所と、記録として残す場所があった。それも、あとで確かめなければならなかった。

帰りの電車で、薄い青の湯呑みが鞄の中で鳴った。

航は手を入れ、新聞紙の隙間を押さえた。

そのころ、小池は応募先からの連絡を読んでいた。面談へは進めるが、勤務開始日も、採用も決まっていなかった。次の朝に着る服を用意し、交通費を鞄へ入れた。会社の最後の日に、一人ずつ次の行き先が揃うことはなかった。

阿部は翌朝の電車の時刻を、玄関へ置いた。子どもが眠る前に、明日は先に出ると話した。迎えは行くよ、と続けた。百舎へ通っていた日と同じ約束を守るために、家を出る時刻だけが早くなった。

理恵は次の職場へ持っていく物を揃え、百舎の記録を外の担当者へ渡す日を別の紙で確かめた。残る相談に来られない時間も伝えてあった。会社が終わる日を、全員の時間がまた自由に使える日にはしなかった。

航の鞄で湯呑みはもう鳴らなかった。新聞紙を押さえる手を離し、明日の勤務先の場所を開いた。

## 終章｜看板のない朝

翌朝、航はいつもの時刻に目を覚ました。

妻の真帆は、月の半分を過ごす県外の工房にいた。修復を任された古文書の乾く時刻に合わせ、前日から泊まっていた。百舎の片付けには来なかった。家を出る前に航の帰る時刻を確かめ、夕飯の残りを冷蔵庫へ入れておいてくれた。

卓上の暦には、次に戻る日が書いてある。消していない予定だった。だからといって、その日まで眠っていればよいわけでもなかった。

航は顔を洗い、シャツに袖を通した。

以前の取引先が、保管していた伝票の照合を数日だけ頼んでくれた。会社の代表として受ける仕事ではなかった。担当者の指示を聞き、一日分ずつ働く。

長く続くかは決まっていない。

初日の持ち物に、昼食、とあった。

冷蔵庫を開けると、卵が一つあった。鍋でゆでた。殻をむくと白身が少し一緒にはがれ、でこぼこになった。

航はそれを、小さな容器へ入れた。冷凍してあったご飯も温め、別の容器へ移した。棚を開けると、去年の海への旅行に買った小さい醤油があった。封を確かめ、今日の卵へ少し使った。海へ行った代わりにはならなかった。

湯呑みの新聞紙を取った。

薄い青だった。

欠けていないのを確かめ、流しで洗った。湯を注ぐと、底にたまっていた水が動いた。

携帯電話を開いた。

百舎を閉じると伝えたあと、届いたまま読めなかった連絡が三つあった。一つずつ開いた。返事が必要なものへは、今分かる範囲を書いた。

樋口への連絡は午後だった。

鞄へ、百舎の未払いと借入の協議に使う書類、それから新しい仕事で使う筆記具を入れた。五百万円をどう扱うかも、樋口へいつ何を伝えられるかも、まだ終わっていなかった。書類を忘れないよう確かめると、もう一度確かめたくなった。三度目はやめた。

真帆から、起きた、と連絡が来た。

航は、今日から、と返した。

知ってる、と返事が来た。

少しして、弁当持った？　と続いた。

持った、と送ってから、まだ台所に置いてあるのを思い出した。

容器を鞄へ入れた。

玄関で靴を履き、鍵を持った。会社の鍵がなくなった束は軽かった。手の中で量るように動かし、それをやめた。

駅までは、いつもと同じ道だった。

改札を抜けたあと、いつもの乗り場へ足が向いた。

階段の手前で止まった。

行く先を手帳で確かめ、反対側へ歩いた。

誰も呼び止めなかった。

電車を待つ間、昼の休憩に電話をかけられる場所があるか、考えた。午後には、返せていない金の話をしなければならない。午前中は、知らない人に仕事を教わる。

会社がなくなった朝に、会社の続きではない用事があった。

航は手帳を閉じた。

電車が来た。

乗る前に、鞄の中の卵がつぶれないよう、書類を立て直した。
